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 とにもかくにも、その日の昼餐に招かれたのを皮切りに、ラウサガシュは次々とわがままを連発し、アズカヤルを煩わせることにした。

 一人にしていてはシヤナーハが寂しがるからと、地下へ降りたがるアズカヤルに、セーナーヴィーは代わりに自分が付き添うことを申し出た。シヤナーハと二人きりで、故人との思い出を偲びたいのは、自分もまた同じであるのだと懇願する形で。


 そのようにしてアズカヤルから、死の影をふり払おうと努めたキヤンテの国王夫妻だが、アズカヤルが柩の横に褥を運び込み、シヤナーハの隣でまどろむのを阻むことだけはしなかった。

 夜は夫婦のため時間である。一日の終わりを夫婦が共に過ごすのを、邪魔することなどできない。それだけでなく自分たちにもまた、冷え冷えとする心身を温め合うために、同様の時が必要でもあったのだ。


 それは死にゆく者に変心を促すためというよりも、残される者に悔いを残させための、騒がしくやるせない三日間だった。

 そして国葬の日の、夜が、明けた――。



*****



 人心のように湿ることはなく、乾季のタリクタムの空は、青々と美しく晴れていた。

 寄せては返す波の音。呼び交わすような海鳥の声。海辺の王宮らしいそれらを聞きながら、人々がしめやかに黙祷する中を、高僧が撥で打つりんの音が鳴り響く。

「開門――」

 読誦を始めた僧たちを先頭に、葬列はゆるゆると動き出す。


 タリクタム女王の葬列は、人魚宮から護国本山までの道のりを、沿道に並ぶ民らに見送られながら歩いてゆくのだ。宦官たちが担ぎ上げた、シヤナーハの柩に続けて、輿に乗せられたアズカヤルもまた、神聖な供物の如く運ばれてゆく。


 篝火を映した水で清めた身体を、まっさらな上下で包んだアズカヤルは、慣例に従いターバンを巻かず、婚礼の日に身に着けてきた薄絹の面紗を被っていた。婿入りの日よりも、一つ齢重ねたアズカヤルだが、まだ大人になりきれていない身体は痛々しく細く、その優しげな顔立ちに繊細な面紗は、悲愴なまでによく似合っていた。


 この葬列は、女王シヤナーハのものであるばかりでなく、それに殉ずる国王アズカヤルのものだった。両手を合わせて輿に座す、僅か十四歳の国王の、決意と貞節を示す清らかな死装束は、恨みつらみをぶつけるつもりで待っていた、民らの胸を真っ向から突き刺して、喉元まで出かかっていた怨嗟を飲み込ませ、さらなる涙を誘っていた。


 ――まだ、お若い、のに。


 葬列の後方で、セーナーヴィーと馬を並べ、他の貴賓たちとひと塊に歩を進めさせていたラウサガシュの耳にも、憐れみを帯びた民の呟きが届く。

 兄であるラウサガシュが、どれだけ説得をしようとも、アズカヤルの決心はとうとう覆せなかった。それどころかどんどんと頑なになってゆく異母弟に、ラウサガシュは自身と同じ血を感じ、ほぞを噛むしかなかった。


 ――誰に強要されたわけでもなく、僕が決めたのです。どうか尊重してください、兄上。


 それは今朝、清めの儀式に臨むアズカヤルが、今生でやり残していたことあったとラウサガシュの首をぎゅうぎゅうと絞めてから、最期に発した言葉だった。片意地を張る兄の聞き分けのなさを、諭すような表情が憎らしかった。

 清めを終えて、面紗を着けて戻ってきたアズカヤルは、これから乗り込む輿を背にしながら、強く唇を引き結び、兄夫婦を始めとした近しい人々に、無言で別れの一礼をした。タリクタムへ婚礼に向かうため、沈黙の誓いを立てた日と同様に。



 海沿いの道を、女王と王の葬列は粛々と進み、いよいよタリクタムの護国本山に辿り着いた。

 寺院の火葬場には、女王の遺体を荼毘に付すための香木が組まれ、そのすぐ後ろには、アズカヤルが身投げをするための高台こうだいが据えられている。

 シヤナーハの柩は、高く積まれた白檀の薪の上に据えられた。その上にさらに薪が重ねられ、食用油が塗られ香が撒かれて、寺院の開闢より絶やされたことのない聖火によって点火され、めらめらと激しく燃え上がってゆく。


 ――ナーハ。


 燃えてゆく。灰になる。心を重ね睦み合った、シヤナーハの肉体が。この手に抱けなかった我が子と共に――。


 真正面からその様子を眺めて、はらはらと涙していたアズカヤルは、やがて大僧正に促され、高台へと進んだ。大僧正付きの小坊主に、サンダルを脱がされた素足で、一段、そしてまた一段と、死へと近づくきざはしを上ってゆく。

 台上で待ち構えていた僧たちに先端へと送られて、その手すりのない足場にこそ本能的な不安を抱いたアズカヤルだが、真下に目をやり恍惚と微笑した。


 ――ナーハ。ねえナーハ、もうすぐ逝けるね、あなたと一緒に……。


 困ったように嬉しげに、その時を待ち受ける、シヤナーハの幽魂を炎の中に見出しながら、アズカヤルはふと思う。

 この美しい神の火を、母は何故、恐れたのだろう?

 それは愛しき人の血肉を糧にして、ごうごうと燃え盛る熱き炎。愛し合う夫婦を真に一つにしてくれる、神の恵みであるというのに。


 下からの熱風が、アズカヤルの髪と面紗を巻き上げる。投身する者とは思えない、幸福な笑みを浮かべたアズカヤルの爪先が、ひとかけらの迷いもなく軽やかに高台を蹴った。


 ――連れて行って、ナーハ。


 炎が、大きく両手を伸ばし抱き留めるように、アズカヤルの身体を包み込んだ。



 猛るような炎は、アズカヤルの黒髪を瞬く間に塵にして、赤銅色の瑞々しい肌を黒く醜く焙ってゆく。

 アズカヤルが炎の中へ落ちた時、身体を薪に打ち付ける大きな音がした。その衝撃で運良く気を失ってしまえたのか、肺かどこかをやられてしまっただけなのか、はたまた歯を食いしばって耐えたのか? シヤナーハの遺体と共に生きながら焼かれてゆきながら、アズカヤルは呻き声一つ上げることはしなかった。


 その痛ましくも見事な散華は、王家と反目しかけていた僧たちに、深い感銘を与えずにおれなかった。女王シヤナーハを耽溺させたと苦々しく思ってきた、未熟な国王アズカヤルが最期に見せたのは、妻への無二の愛ゆえに、自ら望んで寡夫殉死を遂げた、真の信徒の姿だった。

 女王と王の御霊を送る読踊には誠の祈りが込められた。二人の結婚を見届け、女王の死のきっかけにもなった高僧は、苦みを打ち払いでもするようにそれまでよりも声を張り、虎に向けて礫を投げてしまった小坊主は、課されなかった罪を悔い、耳をつんざくような悲鳴を上げて泣き崩れていた。



 取り乱した小坊主が、不吉だからと火葬場から連れ出されていった。もはや生死の定かでない身体は、苦悶するように暴れ、弾け、鉄棒でつつかれながら炭となってゆく。

 それを直視していられず俯いたり、胸を悪くしたりする参列者もいる中で、猛火の中で焼け爛れてゆくアズカヤルから、ラウサガシュは目を逸らせずにいた。


 アズカヤルの願ったとおりに、王家と寺院の間の齟齬がこれにて解消されたのだとしても、二人の愛がいかに尊いものとして、後世に語り継がれてゆくとしても、ラウサガシュには納得できない。たった一人の弟を、自分は何故、こんなにも早くに、こんなにも辛い形で亡くさねばならなかったのか……?

 憤懣やるかたなく、自分の膝に打ち付けた拳を、ラウサガシュは不意にきつく掴まれた。


「セーナ?」

「私は、もしもあなたが先に逝っても、殉ずることなど致しません。それは二つの国を投げ出すことだから。残された者の悲しみを増幅させることだから」


 青ざめた唇をわななかせながらも、シヤナーハとアズカヤルを焼き上げる炎を、瑠璃色の乾いた瞳に刻みながらセーナーヴィーは決然とそう言った。

 アズカヤルの寡夫殉死によって、タリクタムの新女王へと即位せざるを得なくなったセーナーヴィーは、これよりタリクタムとキヤンテ、二国の女王を兼ねることになる重責を、胸に迫る悲しみと共に強く強く噛み締めたらしかった。


 その力んだ肩を、己にもたれかけさせ抱き寄せながらラウサガシュは、若くして命を散らした弟夫婦に向ける、怒りと嘆きを分け合える妻がいることを何よりの救いに思った。改めて彼女には、こんな恐ろしい死に方をせず、天寿を全うして欲しい、とも。


「それでいい。もしもお前が先に逝っても、俺も決して後を追わん。代わりに命果てるまで、互いの分まで国に尽くそう。それが我らの弔いだ」



*****



 聖火によって焼き尽くされ、灰になったシヤナーハとアズカヤルは、空と海とが黄昏色に染まる頃、タリクタムの王室船の舳先から、遺族を代表したセーナーヴィーの手によって、諸共に海へと散骨された。人喰い人魚と人身御供と、当初は不釣り合いを懸念されたタリクタムの結婚が、このような結末を迎えるなどと、果たして誰に予測できただろう?


 恋で結ばれ、愛に殉じた、うら若き女王とさらに若い国王は、分かちがたく混じりながら人魚の国で転生の時を待つ。

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