pétale.10 吹け――新たなる翠玉の風よ

 翌々日のことである。

 リゼットは店で開店準備を行っていた。

 いつもならライラックの花が咲き誇る大通りが見えるガラス張りの壁にはロールカーテンが下されている。

 ロールカーテンの手前に置かれた木の棚の上には、苺のデニッシュとブルーベリーと木苺のブリオッシュを並んでいた。昔から新商品は大通りからよく見えるように、ガラス張りの壁沿いにある棚に並べるのが定番だ。

 店に入ってすぐ右にある背の高いスツールの上には、角切りチーズとバジルをたっぷり入れたパンがカゴに入っていた。こちらも昨日の店休日に作った新商品で、チーズの芳醇な香りがほんのりと漂っている。

 リゼットは、ぐるりと店内を見渡した。会計機が置かれたカウンターの下には、細長いバケットやライ麦だけで作った丸いパンなどが置かれている。


「これで一通り準備は終わったかしら……」


 そうつぶやいたところで、店の扉が開いた。

 入ってきたのは金髪に透き通る水色の瞳の少年――モモだった。


「あれ、もしかして準備もう終わっちゃいました?」

「ええ。ついさっき、ね」


 答えた後、リゼットは文句でも言うように口を尖らせた。


「あなたどこ行ってたのよ。てっきり今日並べる新商品のパンを作るのを手伝ってくれると思ったら、一昨日の夜から出て行ったきり帰ってこなくて……。ユミトとフィリアから用事があるからって話は聞いたけど……って、あら、どうしたの。その格好」


 モモはいつも上に着ているベストを脱いでいた。くすんだオリーブ色のマントも着ていない。

 代わりに、清潔な白のブラウスに黒い脚衣パンツを着ていた。脚衣パンツには、ベージュ色の長い腰エプロンが巻かれている。


「これですか? 夜なべしてエプロンを作ってみたんです。それ以外の服はノワさんの息子さんが着ているものをお借りしたんですけど」

「へえ、中々似合ってるじゃない」

「や、やだなぁ。そんなことないですよ」


 軽く手を振るモモの頬は、照れたように薄桃色に染まっていた。


「で、一昨日、何か思いついてから何かしてたみたいだけど?」

「はい、ちょっと外に来てください」


 案内されたリゼットが見たのは、いつの間にか店の前に置かれていた細長い木のテーブルだった。

 テーブルの傍には、椅子のつもりか、ワインの木箱が置かれている。

 リゼットはぽかんと口を開いた。


「これは……」

「ちょっとした休憩ついでに店の外でパンが食べられるようにしてみました。このぐらいだったら通りに置いてあっても、誰かに文句言われることもないと思うんですけど、どうですか?」

「……もしかして、今まで、これ作ってたの?」

「ええ」


 モモに疲労の色はない。なんてことはないような顔でうなずいている。


「こんな木材、一体どこから?」

「町の人で、納屋を解体した方がいらっしゃって。その人から廃材をもらってきたんです」

「ここまで運んでくるの大変だったでしょう。っていうか、よく用意出来たわね」


 他にも、いつ運んできたのかとか、全部一人でやったのかとか、大工の技術を持っていたのかとか、色々聞きたいことはあったのだが、聞くだけ野暮な気がした。

 リゼットはそっと椅子の表面をなぞった。

 木のテーブルは、職人が作ったものと比べると足元に及ばないものの、それでも一つ一つ丁寧にヤスリがかけられていて、ささくれのようなものは見当たらない。


「本当はちゃんと色塗りとかしたかったんですけどね。さすがに時間が足りませんでした」

「どうして……」

「ここからの眺めがいいことを教えてくれたのはリズさんじゃないですか。なら、これを使わない手はないなって。パンを買った人がここで休みながらライラックの花を眺められるようにしてみました」


 そういうことを尋ねたかったわけではないのだが、モモはそう答えてきた。


「それじゃあ、あなたここ数日ほとんど寝てないんじゃ――」

「まあまあ、そんなこといいじゃないですか。ちなみに、仕掛けはこれだけじゃないですよ」

「まだ何かあるの?」

「それは、始めてからのお楽しみ、ということで」


 モモは悪戯っぽく笑って、人差し指を口元に当てた。


「さ、開店の時間ですよ。店長」



* * * *



 開店から一時間ほどした後、やって来たのはふくよかな茶髪の女性だった。本日一人目の来客である。

 女性は新しい商品に目を輝かせると、新作のパンをトレイに乗せてカウンターにやって来た。


「お買い上げいただき、ありがとうございます」

「今日から新しいパンの販売を始めたのね」

「ええ。さっそく気に入っていただけたようで良かったです」


 そう言いながらリゼットがパンを紙袋に入れていると、モモが女性に話しかける。


「店の外に休憩場所がありますので、そちらもよろしかったらご利用くださいませ」

「あら、テーブルがあると思ったらそういうことだったのね。じゃあ、ライラックの花もきれいだし、ちょっと休んでいこうかしら」

「でしたら」


 モモはそう言って調理場に戻ると、ほんの少しの間を置いて、香り立つコーヒーの入ったコップを手に店に戻ってきた。

 すっと女性の目線に腰を少しだけ折り曲げたモモは、コーヒーを女性の前に差し出す。


「よろしかったら出来立てのコーヒーをどうぞ。外でお召し上がりになるお客様に無料で配っているんです」

「あら、うれしい」


 そう言って女性は嬉しそうにコーヒーを受け取った後、店の外に出て行った。椅子に座るなり、のんびりとコーヒーを飲みながら、さっそくパンを食べ始める。

 そんな女性を眺めていたリゼットが彼に問いかけた。


「……もしかして、もう一つの仕掛けって、これ?」

「はい。コーヒーを無料で配ってみようかなって」


 ドリップ・ポットを手にして立つモモの姿はバリスタのように様になっている。


「それなら無料じゃなくて、一杯十リディアでもいいから、いくらか取ればいいと思うんだけど。あるいはパンの値段に上乗せするとか」

「そのつもりはありませんよ。このコーヒーはあくまで無料ということに意味があるんです」

「どういうこと?」

「集客率を上げるのが最大の目的ということです。要するに、お客さんに居心地のいい場所を提供するためのものですね。そうすることで、また来てもらえる可能性もある」


 リゼットは素直に感心していた。


「はあ~。なんかあなたすごいわね」

「後、昨日、新作のパンを販売しますっていう広告を刷って街の壁に貼り付けてきました」

「え?」

「新作のパンを販売しますっていう内容と、外の席で食べられる方にはコーヒーを一杯無料でおつけしますって書いたものを二十枚ぐらい、ぱぱって」

「ちょっと待っていつの間に!?」

「絵はフィリアちゃんたちにお願いしまして。多分、今日はいつもより人が来ると思いますよ」

「もしかしてあの時、印刷機使えないかって聞いてきたのってこういうこと?」

「はい。あと、採算が合うかどうかわからないんで、一応、コーヒーの無料配布は今日と明日の二日間限定にしてあります。新作発売記念ってことで」

「って、コーヒー代なんて私渡した覚えないわよ?」

「お金はユミトくんたちのお金じゃなくて、僕が出したから大丈夫ですよ?」

「そういう問題じゃなくて! ああもう、それじゃあ、私たち二人じゃ人手が足りなくなるわよ」

「はい、ですから――あ、来た来た」

「え?」

「リズねーちゃん。手伝いに来たよーっ」


 そう言って現れたのは、朝手伝いに来た後、一度家に帰らせたはずのユミトとフィリアだった。

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