pétale.07 ユースティティアの小瓶との契約

 リゼットの手の平に小瓶を置いたモモは、小瓶ごとその手を両手でそっと包み込む。


豊穣ほうじょう慶幸けいこうの審判者よ。我、汝の選定者と契約を結び、大いなる希望に従い、その心に喜びをもたらさん――」


 小瓶を包んだモモの指の隙間から銀色の淡い光が漏れだした。


「〈創造の大樹〉が根ざす〈オルフィレウスの泉〉のごとく、生命の歓喜により大いなる天の水を湧き上がらせよ」


 言い終える頃には、光は空気に溶けるように消えていった。モモも手を離す。

 リゼットの手の平に残された小瓶は、特に変わった様子はない。リゼットの身体にも変化は何もなかった。


「はい、おしまいです」

「……これだけ?」


 拍子抜けした気分で聞き返す。

 モモは安心させるように微笑んでいる。


「ええ。別に体に害とかないので安心してください」

「ふぅん」

「誰彼かまわず僕と関わった人が何かをきっかけに喜んだとしても、水は溜まりません。こうやって、正式な契約を結ばないと駄目みたいなんです」

「みたいって、曖昧ね」


 正直な感想を告げる。


「僕もこの小瓶について詳しく知ってるわけじゃないんです。これ、元々僕のものではないですし」

「預かり物ってこと? それなら持ち主は誰なのよ」


 聞いてみるも、モモは微笑みで誤魔化してしまうだけだった。

 そういえば、旅人と言っていた彼は一体どこから来たのだろう。どこへ行くつもりだったのだろう。

 リゼットは好奇心で質問してみたくなるも、今は置いておくことにした。何となく、答えてくれないだろうな、という気がしたともいう。


「でも、私が喜んだり幸せになったりするって、その辺ってどうやって判断されるのかしら」

「さあ。今までも気付いたら水が増えてたって感じですね。何らかの審判は下されているとは思うんですが……。そんなことよりも、どうします?」

「どうしますって、それはこっちの台詞よ。手伝ってくれるからには、何か良いアイディアがあるとばかり」

「僕は経営に関しては専門外ですよ。むしろ、そういうのはリゼットさんの方が得意と思ったんですけど。実際、商売してるわけですし」

「そんな良い案があればとっくの昔に試してるわよ……」


 落胆したように肩を下げる。無計画なくせして、強引にぐいぐい押してきたのか、この少年は。

 すると、モモは提案してきた。


「内装して、店の雰囲気を変えるっていうのは、一番手っ取り早そうですけど、どうですか?」

「そんなお金も時間もないわよ。それに、そんなの単なる付け焼刃だわ」

「……意外とリズさんって後ろ向きですね。もうちょっと積極的と思ってました」

「現実的と言ってちょうだい」


 言ってから二人は黙り込んだ。

 ややあってモモが口を開く。


「……とりあえず、かけておくべきものは保険と危険手当ですかね?」



* * * *



 真昼を知らせる鐘の音が鳴り響いている。

 槍のような尖塔の先にある吊るされた鐘を鐘付き人が鳴らしていた。

 リゼットとモモは運河の間にかけられた橋を渡っていた。

 橋の下にある、町に縦横に縫うように張り巡らされた運河には、舟に乗った船漕ぎ人がオールをこいで荷物を運んでいる。

 橋を渡りきると、階段状の形をしたかわいらしい屋根で飾られた家並みが見えた。

 オレンジ色にとがった切妻屋根やレンガ造りの白壁の家が続くそこは、大通りであり、ライラックの並木道にもなっている。


「いきなり『保険と危険手当ですかね?』とか言いだすと思ったら、こういうことね」


 リゼットは歩きながら一枚の紙を眺めている。細かい文字がびっしり書かれた紙の右下には町長の名前とリゼットの名前が書かれていた。

 先ほど役場で町長と交わした土地の売買の契約書を見つめながら、ぼんやりとリゼットはつぶやいた。


「私、本当にあそこの土地を売るって契約しちゃったんだ……」


 まだ実際に土地を手放したわけではないのだが、既に自分の手から離れたような感覚だ。

 リゼットの後ろを歩いていたモモが横にやってくる。


「まだ売ってませんよ。あくまで税金を払えなかった時、売却するんです」

「でも、なんで先にこんな契約をさせたの?」

「税金が払えなかった時の保険です。もちろん町の側はあの土地を高く買い取ってくれるつもりですけど、こういうのは土壇場でひっくり返る可能性がありますから」

「……あなたさりげなくしたたかね」

「なんだか僕の性格が悪いみたいな言い方ですね……」


 モモは落ち込んだように肩を落としてから、顔を上げた。


「まぁ、後の事を考えると、リゼットさんも万が一のことが起きた場合、元手があった方が動きやすいでしょうし。ユミトくんとフィリアちゃんのために何かしてあげたいと思うなら、なおさら」

「……既に、その失敗を前提としてるような発言が失敗を予感させるんだけど」

「そ、そりゃあ僕だってうまくいけばいいなって思ってますけど……危ないことしたくないじゃないですか」


 リゼットの反応をうかがいながら、びくびくとしている姿は気弱な年下の男の子にしか見えない。見た目の年齢はリゼットと同じか、少し年上かもしれないくせして。

 金色の髪に澄んだ水色の瞳の少年を、じっとなんとなく見つめてからリゼットは別のことを口にした。


「……とにかく店に戻りましょうか。ユミトとフィリアも来ているかもしれないし」

「何かするんですか?」

「さっき、言ったでしょ。新作のパンを作ろうと思うのよ。それを明日から売ってお客様の心をわしづかみよ!」


 そうリゼットが言ってライラックの並木道は終わりを迎えた。左右に伸びる別の道とぶつかる。ちょうど並木道の突き当りに位置する一軒の古ぼけたレンガ造りの建物。

 そこが、リゼットが暮らす家だった。

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