第二話 遠ざかる空


 それは天然の崖を改造した砦だった。


 森の奥にそびえ立つ断崖からいくつもの、探照灯の光が伸びて夜の雲を照らして動き、灯りの漏れる格子窓が見えている。

 中央には巨大な格納庫のような閉じた鉄の扉がある。

 崖の手前は大きく開けた広場になって数台の石の車が駐車し、広場の中央には根元のやたら太くて背の高い常夜灯が並んでいた。


 二人の制服と一緒に車を降りて、裸足でぺたぺたとおぼつかなく歩く男が広場を見上げる。崖のそこかしこには岩を掘って作られた壕があり、中には夜目に微かに、空を狙う砲座が点在しているのが見て取れる、が、その視線に制服が気づいて警告する。

 

「あまりあちこち観察しないように。こっちだ」


 閉じた巨大な扉は重機や資材を持ち込むためのものなのか、そこではなく横の小さな扉が開かれて、男は内部に通された。壁掛けの照明が並ぶ薄暗い岩盤の通路を歩きながら、制服の片方が男に話しかける。


「ここのことは、知っているのかな?」

「いえ、なにも」

「軍の巡回拠点で、放浪者の収監所でもある。君はまだ保護対象で、収容はするが一時的なものだ——犯罪とは、無縁なんだろ?」


 男がこくこくと頷く。


「まあ、そうだろう。収監者用で申し訳ないが、服と靴を出そう」


 棚の並ぶ更衣所のような場所で、汚れた手足を軽く洗われ、下着と簡易的な無地のズボンとスウェットの上着が渡された。靴は底のしっかりとした布製のズック靴である。布一枚を羽織っただけの状態から解放されて、男はひとまわり大きめな部屋に通された。




 部屋にはいくつかの本棚、中央に木製のしっかりしたテーブル、そして数脚の椅子が向かい合わせに置いてあり、対面には三人の男性が席に着いていた。


「座りたまえ」


 と促され、隣の制服に目をやると頷いたので、男がそのまま席に着く。対面の左右の二人は、精悍な風体で似たような深緑色のコートを羽織っている。片方は強面で髪を短く刈り込んだ髭面、もう片方はまだ若く、緩いウェーブのかかった金髪のショートの男性である。


 口を開いたのは真ん中に座った、人の良さそうな年配のやや小柄な男だった。


「着替えたようだが、少しは落ち着いたかね?」


 男が頷く。


「うむ、所長のマインストンだ。食事と休養の前に、簡単に話を聞こうか。事務的なことだ」

 マインストンが右の眉をかりかりと鉛筆で掻きながら続ける。

「まず名前と身分からだが。君はどこの誰で、なぜあんな場所にいたのかね?」


 少し間が空いて、男が答えた。


「思い出せません」


 随分と機械的な返答だったが、男を連行してきた二人の制服は手を後ろに組んで直立したまま、記憶のない人間を前に特に驚く様子も見せない。


 マインストンが続けた。


「何も? 名前も? どこの国の人間かも思い出せない?」

「はい」


「あの場所にいた理由も?」

「何も、思い出せません」


「誰かと一緒だったとか、そんな記憶は?」

「ありません」


「なにか乗り物に乗っていたとか?」

「覚えていません」


「……言葉は分かるんだろ?」

「はい、どうやら」


「故郷のこととか、昔のこととかも?」

「思い出せません」


 しばし部屋が沈黙し、所長は顎に手をやって考えている風である。マインストンと名乗ったこの所長も、傍に座る二人のコートの兵士も、記憶がないことに特に驚く様子でもない。


 所長が、男の横に立つ制服に訊ねた。


「はい。どこにも『石の痕』は見つかりませんでした」

「そうか……棚の本を取ってくれ、二段目の金帯の表紙だ」


 制服が言われた本を取りテーブルを回って、後ろから手渡す。そのままパラパラとめくった本を間近に見ながら、所長の質問が再開される。


「今からいくつか君に〝一般的な〟質問をする、意味がわかったら答えてほしい」

「はい」


イーア・ケチャ・ムテルト・クァ?血の色は何色かね?


=まずい。答えるな=

「あ、……あ、あ」


 男の喉がむせる。「ゴホッ、あ……」

 声が、いきなり出ない。

 思わず男が咳き込んだ。横の制服が背中をさすって声をかける。

「おい。大丈夫か?」

 

=意味がわからない、と言うんだ=


 頭の中で声がする。訝しげに視線をやるマインストンが訊ねた。


「続けて大丈夫かね?」

「あ……ゴホ……大丈夫です」


「ではもう一度、イーア・ケチャ・ムテルト・クァ?血の色は何色かね?


 一息ついて男が答える。

「意味が、わかりません」

 そう答えた男の顔を、じいっ、とマインストンが見据える。


「……ふむ、次。モファータ・マト・ミナ?今日は天気が良かったかね?

「意味が、わかりません」


デン・ダック・イッシュ・ファイ?鳥は空を飛ぶだろうか?

「わかりません」


ユテール・エ・クラサ・カーメル?神はこの世におわしますか?

「わかりません」


「WhAt CoLor Is yOuR hAiR?(髪の色は何色かね?)」


「えっ……?」


=わからない、と言っておけ=

「……わかりません」


 そんなやりとりを七、八回は行っただろうか、最後の質問になった。

「この大陸には、いくつの国があるかね?」


=共用語には、答えていい。七つだ=

「七つです」

「ふむ、全部国名を知っているかね?」


=グランディル・ガニオン、シュテ、ファガン、アイルターク、ウルテリア・アルター、ムストーニア、プラグネシア=


「そ、そんないっぺんに」

「? どうした?」

「あ、いえ……もう一度、もう一度ゆっくり」


「……七つの国を。全部。知っているかね?」


=グランディル・ガニオン=

「グランディル・ガニオン」「うむ」


=シュテ、ファガン=

「シュテ、ファガン」「うむ」


=アイルターク、ウルテリア・アルター=

「アイルターク、ウルテリア・アルター」「うん」


=ムストーニア、プラグネシア=

「ムストーニア、プラグネシア」「よろしい」


 ぱたんと本を閉じてマインストンが言う。


「共用語にしか反応しないか。帝都ルガニアからだろうか?」

「しかし遠すぎます。それに、スラムの人間にしては風体が異質です。こんな漆黒色の髪は見たことがありません。石の痕も無いようですし」


 隣の兵士の意見に、また腕組みをして所長が考え込む。

「まあ、あそこも大陸中の吹き溜まりではあるが……」


(全てを聞き取れたようにも見えたんだが、しかしそれでは逆に、あまりにも……)


 返事とは別のことを考えつつ、椅子をぎっと戻してマインストンが身を乗り出し、男に伝える。


「——まあいい。では君には記憶がなく、素性もわからない。なので先に、こちらの事情を話しておこう。君が倒れていた場所。あそこで何が起こったか、もちろん知らないわけだな?」


 男が頷いた。


「じつは、この辺りの砂漠では、ここ一月ほど連続して激しい爆縮が起こっている。最近は辺境の方も極めて神経質になっているんだ」


=ああ、そういうことか=


「で、君が発見される数時間前、過去最大規模の爆縮が砂漠で発生した。帝国の魔導炉があちこちで停止し、南方よりファガンが侵攻を始めたらしい。帝都はテロの恐れがあると——」


「あの」


「うん?」

「爆縮って、なんですか?」


=訊くな。危険だ=


「……魔力マナの爆縮だが……では圧縮はわかるかね?」

 マインストンが怪訝な顔をする。


「あの、マナ、って」


=もう訊くな!=

「ぐッ!!」


 今までで一番大きな声が左耳の内側で響く。思わず男が左のこめかみを押さえて突っ伏してしまう。横にいた制服が声をかける。


「おい。大丈夫か?」

「だ、大丈夫、大丈夫です。なんでもありません、すみません続けてください」


 男の言葉にマインストンが座り直す。


「……今日はもう遅いから、このあとゆっくり休んで、明日の朝一番で医師の診断を受けたまえ。そのように手配を」

「了解しました」


「——では、これで最後にしよう。なにしろ巨大な爆縮の付近で君は発見されたから、こちらは事件との関わりも調べなければいけない。まあ正直、一人の人間でどうこうという話ではないから、むしろ何かを目撃しなかったかと考えている」


「はい」

「うむ。訊くが、あの辺りで巨大な機械、車両、または集団を見なかったかね? 特に魔導師のような連中だ。何か大掛かりな作業を行なっていたとか、目にはしなかったかね?」


「いえ、何も見ていません」


 男の答えを聞いてマインストンが、また鉛筆で右眉をかりかりと掻く。


「そうか。わかった。まずはこれで終了だ。今夜は独居房でよかろう」

「了解しました。さあ、立って」


 両脇の制服に促され席を立った男は、そのまま部屋の外へ連れ出されて行った。




 やがてマインストンの隣の、強面の方が口を切る。


「爆縮とは関係ないでしょうね、不思議な青年ではありますが」

「暴漢に襲われて一時的に記憶を失った、というのが無難なところかなあ」


「クリスタニアに報告する必要は、ないですね」

「そうだな、巡回の時期でもない。帝国に渡すのは不憫だ。連中が気付かないうちに手早くアイルタークに出国させるのが、本人のためかな——」


 マインストンが答えた、が、あまり納得のいった様子でもない。強面が続けた。


「——26億ジュールですよ、所長。ありえません」

「わかってる。どうしたって個人は関係ない、そんな規模じゃない」

 

(でも、なあ)


 どうにも勘が疼くのだ。





◆◇◆






「あまり快適ではないかもしれんが。就寝前の礼拝灯とか、要るかね?」

「いえ、大丈夫です」


 二人の制服に付き添われて男が通されたのは、石造りのこぢんまりとした独房である。


 簡易ベッドが一つと机と椅子、壁に弱い光を放つ常夜灯が掛けてある。奥に戸板が立ててある向こうには便所があるのだろう。薄暗く埃っぽいが不潔な感じはしない。

 扉は鉄板で小窓が付いている。石壁の上部にある明り取りの小さな格子窓からは、時おり雲を照らす探照灯の光線が行き来するのが見えるだけである。


 男と一緒に入ってきた制服の片方が、机の上にトレイを静かに置いた。トレイには水の入った鉄製のコップとピッチャー、皿には湯気の立つスープと、黒色のパンのような食事が乗っている。もう一人は男に説明を続ける。


「悪いが朝食は抜いてもらう。医師が起きたら身体の診断をする。それからまた聞き取りがあると思う」

「はい」

「……落ち着いたものだね、記憶がないらしいが、今の処遇に不安はないかね?」

「自分も、まだ、状況がわかりません」

 それは男の本音である。


「そんなものなのかも知れないな、今日はもうゆっくり休みたまえ」

「ありがとうございます」


「うむ、おやすみSleep well

 それだけ言って、二人の制服は部屋から出て、がしゃんと扉を閉めた。


 こつこつと廊下を足音が遠ざかっていく。

(……?)


 男が不思議に思って、扉の取っ手を伺う。外鍵を閉めた気配がなかったからだ。だが触れた取っ手はびくとも動かず、もちろん押しても引いても鉄の扉は開かない。


=それが魔力だ。壁の灯りもな=


「どういうことかなあ」

=うん?=


「だいぶ意識が戻ってきたんだけど」

 男が左のこめかみ付近を手のひらで押さえて話す。


「おれ、誰? なんで思い出せないんだ? これはいったい、どういうことなんだ? アンタは、どこから話してる?」


 暗い部屋の扉の前に突っ立って、こめかみに手を当てたまま、それでもまだ冷静そうに男が言う。端から見れば完全に独り言である。


=まあ座れ、先にやることがある=


 声にそう囁かれて男がベッドに腰を下ろす。


「それで?」

=そうだな、何か……シーツは大きすぎるか。その上着だけ脱いでみろ=


「?……」

 言われるままに男がスウェットを脱いで、シャツ一枚になる。


=袖の部分を口に押し込んで、しっかりと噛み締めろ。その上から右手で押さえて、左手は心臓に当てておけ=


「何それ、大丈夫なの?」

=大丈夫かどうかは知らん=

「おい」

=私も初めてなのだから仕方ないだろう、準備はいいか? 深呼吸して目を閉じろ=


 ベッドに腰掛けたままスウェットの袖をぐっと噛んで、口を押さえて姿勢を正し、鼻で数回すうすうと深呼吸をする。そして男が目を閉じた。


=記憶域・感情域・代謝域・感覚域・運動域、全、解放。=




 歩道橋。


 歩道橋。遠ざかる空。


「う!」


 ビル。雑踏。地下鉄。足音。クラクション。信号。ネオン。窓。夜景。東京。夜景。ネオン。雑踏。雑踏。歩道橋。デスク。書類。ノートPC。メール。同僚。スーツ。スーツ。コンビニ。デスク。書類。スマホ。モニター。カタログ。


「ぐ! ぎぃいい!」


 唸り声が上がる。強く目を閉じて眉間に皺を寄せる男の、額のあちこちからぶわりと脂汗が吹き出して筋となって、ばたばたと音を立て太腿に落ちてスボンに跡をつける。シャツの首筋から背中にかけて、一気に汗染みが広がっていく。身体全体がうっすらと、白く輝きはじめた。


=発汗し過ぎだ。水分は貴重だぞ。外部暴露遮断0.006ジュール。障壁展開。生命起源事象元アストラクオリア調整。時差0036。無意事象分岐量ストレンジアトラクターを減衰して過去領域の最適化に移行する=


 時計と終電。コンビニのマーク。皺になったスーツ。歩道橋。テレビ横のゲーム機。同じパスワード。歩道橋。峠の車線。夜の海岸。無人駅の看板。錆びた鉄橋。歩道橋。


「ふ! ふッ! ふッ!!」


 見開かれた目の瞳孔が不安定に収縮し、左手がシャツをぐしゃあと掴んで、男が全身をがたがたと震わせる。汗の吹き出た背中からは湯気が立ち上っている。心臓の鼓動がばくばくと早い。


=いかんな、少し急ごう=


 声がそう呟くと、今まで断片化していた世界の情報が一気に加速した。


 歩道橋空が遠ざかる光ビルの雑踏丘の展望台花崗岩モニター運転免許証偉人の銅像バイクのメット。

 歩道橋空が遠ざかる光地下鉄の改札ワンルーム海岸通り空き缶カップラーメン洗濯物山の遠景ベランダの瓶。

 歩道橋空が遠ざかる光日本地図友達大学受験フェリーの時刻表画像診断機神社の鳥居最終電車。


 そう。最終電車。歩道橋。

 男の脳に次々と記憶の断片が湧き上がって。


 轟音とともに落雷を見る。


「ううぁ!」

 最後に低く呻いて、男が少し跳ねた。


=……事象元アストラ物理元アトラス、対合反射、完了=



 ベッドに座ったまま男の肩が激しく上下に揺れている。


 ふっ、ふっ、ふっ、ふっ と、目を見開き汗を垂らして袖を咥えたまま男が短く息をする。やがて右手を口から離すと咥えた上着がどさりと落ちてばたばたと涎が糸を引く。はあ、はあと荒い口呼吸が続き左手は胸を鷲掴みにしたままである。


 そのあと。


 はあはあと荒い息のままゆっくりと、ふらあふらあと男の視線が宙を舞い、やがて机の食べ物にとまる。飢えと渇きが強烈に、本能の奥から湧き上がる。


「ううううっ!」


 奇妙な声を発した男がベッドから崩れ落ちてそのまま四つん這いでばたばたばたと机に向かい、膝立ちのまま顎を机の端に乗せ震える両手でコップを取る。


 水が少しこぼれた。


 顔を寄せてごくごくごくごくと喉を鳴らして水を飲み空のコップをたんと置いて、相当に重いはずのたっぷりの水が入った鉄製のピッチャーを今度は片手で軽々と掴んで口元から溢れるままごくごくと飲む。


 黒く固いパンを、左手で掴んで、わぐわぐと噛んで飲み込む。


 なんの味もしない。


 またピッチャーの水を飲む。パンを噛み。飲み込んで。


 また、水を飲む。


=脈拍、正常値へ。血圧、血中酸素濃度、正常値へ。脳波異常無し=


 やがて、すでに水のなくなったピッチャーをかたん! と置いて、机に両手をかけたままへたり込んだ男が、まだ少しはぁはぁと息を繋ぎながらきょろきょろと辺りに目をやり呟く。



「何時? 明日のレジュメどうしよう……」


=名前と、国籍は?=


アキラ。……遠野トオノ アキラ。日本人。ここドコ?」


=うむ。転移完了だ=



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