11 血の契約の意味


「ティナ……?」


 私から彼に触れることは、これまで一度もなかった。

 けれど、彼を慰めてあげたかった。寂しいと言うなら、私がそばにいてあげたかった。

 彼に温もりを分け与えてあげたくて――いや、もしかしたら、私の方こそ彼の温もりを感じたかったのかもしれない。

 彼がとんでもなく儚い生き物に見えたのだ。こうやって触れておかなければ、すぐにでも砕け散ってしまいそうなほど、脆いものに見えたのだ。


「ヴィル博士……わたし……」

「ありがとう」

 言いたいことはまとまらなかったが、彼は何かを察してくれたのだろう、小さなお礼とともに、彼も抱きしめ返してくれた。

 最初はためらいのあった腕も、私が拒まないのを感じてギュッと強く抱きしめてくれた。

 熱い胸板に押し付けられて、心臓の音がよく聞こえる。心拍数は百六十くらい、全速力で走った時くらいに速い。


「……ティナ」

 彼が腕をゆるめるので、私も同じく腕をゆるめた。

 顔が近い。

「ティナ、もう泣かないで。私は君に笑っていてほしいんだ」

 大きな指が、顔に触れる。涙を拭き取ってくれたのだ。

「博士……」

 吐息を肌で感じられそうなくらいの距離。伏していた目を、私はゆっくり上げていった。

 彼の水色の瞳が、まっすぐ私を見つめている。

 頰から、顔の稜線をなぞって、顎へ。人差し指の腹でそっと顎を上に向かせて、私は博士が求めるまま、――


「……ティナ、この抱擁は婚姻の合意ということでいいかな? それとも先に生殖行為を希望している?」


 沸騰していたはずの頭が、一気に冷却された気分だ。私はそこで、我に返った。

「……は? こ、こん……? せい、しょく?」

「私を夫として認めてくれたからこそ、こうして私に触れてくれているのでは?」

 雰囲気ぶち壊しだ。

 今は確実に、キスをする流れだったはず。

 キキキ、キス!? 私と博士が、キス!?

 ……危なかった、雰囲気に飲まれるところだった。

 私は弾かれたように慌てて博士と距離をとった。


「ちちちち違います! 断じて!」

「ティナ」

 反対側を向いたが、彼が私の左手を取った。手のひらを上に向けて、私の手首に口づけを落とす。

「な……っ!」

 何をするんですか、と抗議しようとして、ふと私はあることを思い出した。かつてもこんなことがあったような気がする、と。

 私が腕を差し出して、ピリリと小さな痛みが走って、そこ――ちょうど今、博士が口づけをした場所――から一筋の血が垂れて。

「竜が大好きなティナは知っているかな? 血を交換し合うのは、竜族にとっての婚姻を意味するんだよ」

「そ、それが一体――」

「竜の番となる者は、どんな生物でも構わない。竜は全て生命の始まりであり、全ての生命に繋がっているから」


 記憶が蘇る。

 幼い頃、森の中で出会った竜に肉を分けてくれと頼んだところ、「一方的にあげるのでは不公平だから、君からも少しだけもらいたい」と言われ、快諾してしまったことを。

 竜は私の手首に何かの魔法を起こし、血が流れた。それをペロリと舐められて。

その後、竜は何と言ったか。長年思い出せなかった言葉を、私は今、この時になって思い出した。


 ――もうよかろう。これでお前……ティナの体は風邪一つ引かない丈夫な体に生まれ変わった。そして我らの婚姻の契約も、無事交わされた。――


 冷えたはずの頰が、再びかああと熱を帯び出した。

「ま、待ってっ! ……待って、まさか、私……」

 知らないうちに、私は竜と……ヴィル博士と結婚の誓いを交わしていたのだ。

「そのまさか。だから言ったろう、君は私の妻……竜の言葉で表すなら、私の『番』なのだと」

 博士はようやく気づいてくれたと、大変ご機嫌でニコニコしている。

「さあ、街に戻って準備をしよう」

「じゅんび……? 一体、なんの……」

「決まっているだろう、私たちの結婚式だよ。式場の予約に、ドレス、招待状……楽しみで仕方ないな」


「待って博士っ! こ、この結婚は、なかったことにしてくださいっ!」

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