2 ヴィルヘルム・フロイデンベルクとは


 手紙の存在には気づいていた。家紋入りの封蝋が押された封筒には、いつも通り兄さんの達筆な署名付き。

 二週間に一度届く兄さんからの手紙は、決まっていつも気が重くなる。

 就職するにあたり、両親の説得を一番に手伝ってくれたのは兄だったが、同時に、最も反対したのも兄だった。

 手紙の内容も読まなくとも分かる。どうせ、「元気にしているか」と私を気遣う内容から始まり、「辛い時はいつでも帰っておいで」で締めくくられたものだろう。


 幼い頃の私は病弱だった。病弱で、仲間の輪に入れない、或いは入ったとしても体調を崩して結局他の子に迷惑をかけてしまうような調子だったので、少しずつ疎まれ、最終的にはいじめにまで発展するほど嫌われてしまった。

 そして、そんな私を庇ってくれたのが、兄さんだった。

 兄さんはいまでも変わらず優しくて、成人した私を守ろうとしてくれる。もちろんありがたく感じてはいるものの、ちょっと過保護すぎるのではないのかと、そんな思いもなくはない。


 恋人でも作ってくれたら私への過干渉も減るのではないかと思い、ある時その手の話をしたことがあったけれど、結局笑顔で躱されて今に至る。ミミの名前を出してみても、シフォンケーキに釘を打ち込むくらい、手応えはなかった。

 人当たりが良く、誰にでも好かれる自慢の兄。その一方で、ああ見えて他人の意見に流されることのない頑固さは、なかなか手強いと感じている。

 取り敢えずこの手紙は一日で最も生気に満ち溢れる――最も体力的に「マシ」だとも言える――朝に読むことにしたのだが、結局翌朝も疲れが抜けず、私は手紙を放置したままそ、朝の寒さに体を縮こませながらそそくさと家を出た。



 いつも通り掃除をして、いつも通り幻獣管理棟にて小型の幻獣たちに餌をやり、いつも通り健康観察をして。研究室に戻ってまた懲りもせず先輩研究員の使いっ走りに興じようとしていた時、事件は起こった。


 あくびをしながら幻獣管理棟一階の廊下を歩いていると、キィキィ、と甲高い鳴き声が響き渡った。鳴き声はどうやら上階ではなく、もっと近い、私の背後から聞こえてくる。

 幻獣も、鳴き声を発するものが大半だ。人間の姿を見て騒ぐものは多くないものの――研究所内で飼育管理している幻獣は、すでに人間に慣れているので――、仲間同士でのコミュニケーションに鳴き声を用いることも多いので、幻獣管理棟は研究棟よりもいささか騒々しいと言える。


 けれど、今の鳴き声はどこかおかしい。

 だって、幻獣のケージがあるのは二階以上の階であり、一階にあるのは事務室や医務室ばかりだから。普段なら、ここには幻獣の気配も鳴き声もないのだ。

 嫌な予感がして振り返ると、目と鼻の先には羽の生えた幻獣の姿が。

 灰色の塊が両翼を動かし私に迫ってきていたのだ。羽ばたきが巻き起こした旋風が、私の黒い前髪を揺らす。


「――っ」


 振り返った拍子に、足がもつれて倒れてしまった。

 尻餅をついて骨盤が痛んだが、一拍遅れて腕に違和感。左腕が、鋭利な刃物にでも引き裂かれたように、一筋スパッと切れていたのだ。

切れたのは白衣だけかと思ったが、チリチリした痛みと赤い染みが広がるのを見て、腕にも傷を負ってしまったことを確信した。

 灰色の塊。

 その幻獣の名は、おそらく「ガーゴイル」。実物をこの目で見るのは初めてだった――ガーゴイルは私の担当ではなかったので――が、大きな嘴と鋭い爪を持ち、全体的に灰色で石様の質感、鳥と獣の複合型幻獣ときたら、ガーゴイル以外に思い当たるものはいない。

 成獣は中型から大型の犬ほどの大きさになるというから、今私を襲っているこれは、まだ子どもなのだろう。それにしたって反撃はおろか防御のすべを持たない私にとっては、脅威になりうるのだけれど。


 動作も素早く人に危害を加えることもあるガーゴイルは、第二級の幻獣に分類される。名前や大まかな生態は私だって知っている。けれど当然、世話など携わっていないから、個体の性格など知らないし、懐く以前の問題なわけで。


「二級幻獣がっ! 脱走してしまって! 気をつけ――」


 廊下の端で誰かが注意喚起を叫んでいる。おそらくこの上ずった声は、先輩研究員のルノーさんのものだ。

 しかしながら肝心の脱走ガーゴイルは私のすぐ目の前にいるのであって、気をつけるもなにも、すでに私は襲われているのだ。

 ガーゴイルは興奮した様子で落ち着きがなく、なおも私に危害を加えようとしている。おそらく、単純に私を殺したいのではなく、この子にとっても脱走は想定外の出来事だったのだろう、初めて来た慣れない場所に戸惑って、周囲にいるもの全てが敵のように感じているのだと思われる。


 それにしたって私だって怖い。この大きく鋭い嘴を上下に開く動作の理由は、私の目玉でもえぐる気なのか。

 悠長に眺めている時間はない。腕を盾がわりにしてガーゴイルの猛攻から身を守りつつ、壁伝いに立ち上がり、私はとにかく走り出した。

 檻に入れられ管理されているはずの幻獣が、なぜ逃げ出したのか。彼らの中にはずば抜けて知能の高いものもいるが、施錠方法や檻の材質を幻獣個別の特性に合わせて変えることにより、これまで脱走したなどという不祥事は起こらなかったはずなのに。


 したがって、現にこうやってガーゴイルが廊下に出てしまっているということは、幻獣自身が檻の施錠を解いたというより、誰かの人為的なミスにより――

 などと考えているなか、肩に鋭い痛みが走り、私は再び転んでしまった。

 体をひねって後ろを見る。

 廊下の天井いっぱいに高度を保ち、滑空の準備姿勢を取っているガーゴイルが見えた。きっと、これで私にとどめを刺す気だ。近い距離で突かれる程度では致命傷にはなり得ないが、運動エネルギーを利用し私に襲いかかる気であるなら、こちらも無事というわけにはいかないだろう。

 しかしながら、私には逃げる場所も時間もない。

 私に出来ることといえば、もうどうにでもなれ! と目を瞑り、身を固くして繰り出される攻撃に備えることくらいか。


 衝撃。


 ドン! という何かがぶつかる大きな音。

 のち、息苦しさ。


 ……しかし痛みはない。


 どちらかというと、感じるのは「温もり」と「弾力」と、なぜか「窮屈」ということ。


「落ち着け、お前に危害は加えない。落ち着いて、その爪を引っ込めなさい」


 体だ。腕だ。

 私は誰かに抱きしめられているのだ。

 低い声は私の頭上から発せられているものの、誰かの体の中を通って、そこに押し付けさせられた耳に、反響するように入ってきた。


「……そう、いい子だ」

 聞いたことがあるような、ないような。ひどく懐かしいような、別にそうでもないような。

 ガーゴイルの羽ばたきの音が聞こえなくなった。


 再び静かになった廊下。

 しかし、私の耳には私を抱きしめている誰かの心音が響いている。

 背中、というよりは腰に回された腕。密着した胴体。ふんわりと周囲を包み込むような、柔らかく落ち着く香り。


「お前が脱走なんてどうしたんだ? それにしても驚いただろう。さあ、おとなしく元のところに戻りなさい」


 途端に恥ずかしくなった。

 この熱量、がっしりとした厚み、声の低さ。私の五感全てが、私を抱いているこの人が、「男性」であることを伝えている。

 拍動がどんどん早くなっていくのは、今に限っては命の危機に直面していたからではない。単に、男性に抱きしめられているというこの状況に、私はパニックに陥っているのである。


 恐る恐る目を開けた。顔を動かして、見上げる。

 骨ばった顎の輪郭と、光に透ける銀色の髪。喉仏も見えた。

紛れもなく、男性だった。

 この人の言葉は明らかな人語。ガーゴイルは知能が高いから、ある程度の訓練を経れば人語もいくつか理解するようになるらしいけれど、今のこの青年の言葉がそのまま伝わるなど信じがたい。


 にも関わらず、さっきまで私を殺さんばかりの勢いで追いかけてきたガーゴイルは、青年に頭を撫でられて、気持ちよさそうに喉を鳴らしているではないか。

 異性に抱きしめられて照れて、幻獣と意思疎通をしている――ように見える――さまに、沢山の研究欲求が湧いて来て……なんて忙しないことだろうかと、混乱している最中なのに他人事のように思ってしまう自分もいた。


「君も、無事かな?」


 私を抱きしめる腕が緩んだ。

 さっきまで密着していた体と体に隙間ができて、なんとなく寂しくなった気がしたのは幻なのかなんなのか。


「あ、え、えっと……」


 白い肌、高い鼻。アイスブルーの瞳の輝きは、空のように透き通っていて美しい。

 歳は二十から三十代。白衣を着ているからきっとここの研究員なのだろうけど、それにしたってモデルのように整った容姿をしている。

「怖かっただろう、大丈夫か?」

「は……はひ……」

 幻獣に襲われた私。それをこの、美しい青年が助けてくれた。


 ……誰?


 夢だろうか。幻だろうか。

 あまりにも現実離れしている気がする。

 彼が笑った。髪が揺れた。

「はひ、とはまた新しい返事だね。君独特の造語かな、ティナ・バロウズ君?」

 この声を聞いたことがあるように思ったが、私の気のせいなのかもしれない。だって、こんなに美しい人、これまでに会ったことがあったら決して忘れるはずないだろうから。


 もう一点、不思議なことに、この人は私の名を知っている。私はこの人を知らないというのに。

「とにかく、命に別状はないようで良かった」

「あの、あなたは、お怪我は……っ」

 私ばかり助けられて、私ばかり気遣われている。これではいけないと、私も彼に質問をする。

「私は問題ない。傷一つ負ってないよ」

「そうですか……って! 鼻血! 鼻血がっ!」


 問題ないと笑った拍子なのかなんなのか、彼の鼻から一筋の血が。やはりどこか打ったのだろうか。ハラハラしている私をよそに、彼は悠長にも「おや」とか言いつつ、白衣のポケットから取り出したハンカチで拭う。

「ああ、これも問題ない。よくあることだ」

「よくあること!?」

 私が鼻血を垂らしたならば、きっと笑われて終わりだ。しかし、美しい人というのは、鼻血を垂らしていても美しいみたいだ。鼻血を拭き取る所作も、まだ肌にうっすら残る赤い血も、まるで泊でも付いたかのように美しく見えてしまうのはとても不思議だ。

「あ、あの、あなたは……」


 どなたですか? と聞こうとした。この人も白衣を着ているから、私の所属とはまた別の研究室で働いている研究員という線が濃厚。しかし、だったなぜ、関わりのないはずの私の名を知っているの?

「ヴィルヘルム博士っ、お怪我はありませんでしたか!」

 飛び込んで来た、ルノーさんの言葉。


「私は問題ない」


 ……ん?

 …………あれ?


 今、ルノーさん、「博士」と言った気がする。しかもその前に、「ヴィルヘルム」と付いていたような気もする。

 ヴィルヘルム博士。ヴィルヘルム・フロイデンベルク博士。こんなゴツい名前の研究者、彼以外にはいないはず。

 ルルイエ幻獣研究所所長、ヴィルヘルム・フロイデンベルク博士。……私が憧れに憧れている研究者だ。

 それが、この、容姿端麗な青年だと!?

 しかも今、私はその憧れの人に危ないところを助けてもらって、抱きしめられているというの!?


「ルノー君、どうしてガーゴイルが脱走を?」

 目が点の私などよそに、青年……改め、博士が、淡々とした調子でルノーさんに問うた。

「お、おそらく施錠が不十分だったのではないかと……」

「施錠が? なんだ、そんな単純なミスで?」


 憧れの博士にこんな形で会うとは思っていなかった。

 しかも、私はその憧れの博士に、身を挺して助けられたのか。

 ……待って待って、博士の初めての研究論文は、今から二十年以上前に発表されている。その頃に彼が新人研究員だったとしても、どれだけ若く見積もっても、すでに博士は四十代でしょう? ……この美貌で、四十代!?

 依然として、混乱状態継続中。


 不幸中の幸いか、辛うじて頭が真っ白になるということはなかったが、ルノーさんの次の言葉に体が硬直してしまった。

 ルノーさんは挙動不審な様子で眼球を左右にコロコロと振ったあと、博士の腕の中にいる私を見つけた。そして目を見開いて、酷い形相に変わって、指を指してこう叫んだのだ。


「新入り……ティ、ティナが! そいつです、博士が助けたその女、ティナ・バロウズのせいです! 新入りっ、おおおお前が朝の餌やりの後に鍵を掛け忘れたんだろうっ!」


 最初は、彼が何を言っているのかよく分からなかった。

 私に第四級幻獣の世話を命じたのはルノーさんで、第三級以上の幻獣との接触を禁じているのもルノーさん。だからつまり、私が第二級幻獣に属するガーゴイルの檻の鍵を持っていないことは、彼が一番知っているはずだ。

 何かの言葉遊び? それとも趣味の悪い冗談?

 冗談を言われたのなら、せめて愛想笑いくらいしなければ。けれど私は笑えなかった。この場面で、上司の質問に対し、こんな冗談を言うのは明らかにおかしいからだ。


「は、はあ? 私が!?」


 そう、彼は私に濡れ衣を着せようとしたのだ。

 被害者のはずの私が加害者に仕立て上げられようとしていることに気づき、ぶわっと嫌な汗が滲み出した。

「だ、だいたい! いつも生気の抜けた顔で仕事して! 情熱のかけらも持たないくせに、俺たちの研究を盗もうと虎視眈々と狙って――」


 生気の抜けた顔? ――違う、単に疲れているだけ。

 情熱のかけらも持たない? ――違う、情熱がなかったらとっくの昔に退職している。

 研究を盗もうと? ――違う、盗むもなにも、あなた達が何をしているか私は知らないというのに。


「ルノーさん、わ、私はっ」

「新入り! いつも言ってるだろう、施錠は基本中の基本だ、って!」

「違う、私じゃない! 鍵を掛け忘れたのは、私じゃなくて――」

『ルノーさん、あなたなんじゃないんですか!?』

 その言葉は最後まで言うことを許されなかった。

「博士! 勤続七年の俺と、まだ半年にも満たないそいつの言うこと、どちらを信じるつもりですか!?」


 ひどい。あんまりだ。

 勤続年数が長い者の言葉ほど信憑性がある、とでも言うのか。

 違うでしょう。それは、違うはず。

 ベテランの研究員も、そうでない研究員も、真実は平等に眼前にあるのではないのか。


 私は博士の顔を見た。

 彼の表情は、責めるでも、疑うでも、何をするでもない、色のないものだった。

 次に、ルノーさんの顔を見た。脂汗が吹き出して、真っ青で、小刻みに震えていた。


「……申し訳ありませんでした」


 鍵を誰がかけ忘れたのか、博士に差出せる証拠がない今、何を言っても水掛け論になってしまう。だから早々に、私は刃を鞘に納めた。

 これは、自ら「負け」を認めたわけではない。先輩に敬意を払うとか、先輩の言うことは絶対とか、そんな面倒くさいことを優先したわけでもない。

 ただ単に、彼が哀れに見えたのだ。

 早々に己の過ちを認めて謝ってしまえばよいものを、彼は嘘をついてでも隠そうとした。まるでこのミスが、生死を分けると思っているように。

 研究員として、何が最も致命的か、彼はわかっていないのだ。

 私の謝罪の言葉を聞いて、ルノーさんは明らかにほっとしていた。引きつっていた表情が少し和らいだように見えた。

 彼は私がガーゴイルと関わりがないことを知っている。ガーゴイルの脱走は、自分のせいだと分かっている。

 とっさの嘘を私がこれ以上暴こうとしないのを悟り、ルノーさんが胸を撫で下ろしたのが見えた。

 もしかしたらこの後、「庇ってくれてありがとう」と、雑用としてではなく研究員として仕事を与えてくれるかもしれない。もちろん、何も変わらないかもしれない。


 所長の顔を盗み見ると、目が合った。こんな惨めで滑稽な所、見られたくなどなかったがしょうがない。

「君が?」

 私はすぐに目をそらした。情けないやら恥ずかしいやらで、これ以上博士の顔を見ていられなかった。

「……そうか。わかった。ではティナ君、まずその怪我の手当てを受けてから、私の部屋……所長室に来てくれるかな?」




* * *




 幸いにも腕の傷は浅く、消毒をしただけで縫わずに済んだ。

「バッカじゃないの? どうしてそこで庇うのよ。蹴落とす絶好のチャンスだったじゃないの」

「別にかばったつもりはないよ。……ミミ、痛い、もう少し優しく」

 怪我の手当てをするには服を脱ぐ必要があったので、衝立が設置されたベッドに腰掛け、私はミミに治療を委ねた。傷を負った経緯をかいつまんで話したのがよくなかったのか、ミミの治療もだんだん手荒くなっていった。

 おそらく、私のために憤ってくれているせいだろうけど。

 それでも、消毒綿を当てるのが乱暴すぎる。せっかく縫合不要の浅い傷だったのに、ミミのせいで縫う必要が出てきそうだ。……なんて、冗談だけど。


「研究者、探求者は、まだ誰も知らない真実を見つけて世界中の人々に知らせるという、とても重大な任務を負っている。だから我々は事実を歪めたり、捏造をしてはいけないの。そんなことをすれば、これまではもちろん今後一切誰も信じてくれなくなる。……ここにいる研究者はみんな知っていることかと思ってた」

「つまり、ティナはルノーを見限ったってわけね」

「見限ったというか……これ以上揉めても何もいいことがないと判断したというか……つまり私はフルーツタルトが食べたい」

 最後の言葉にミミが吹き出した。

「わかったわ。どうしようもない男のことを考えるより、大好きな甘いもののことを考えていた方がお得だと判断したわけね」

「ま、そういうこと!」


 サクサクのタルト生地に、バニラビーンズたっぷりのカスタードクリームを敷き詰めて、旬の果物を乗せたやつ。粉砂糖でうっすらお化粧してあっても可愛いと思う。それを、ぱくりと頂く。

 こんもり乗せられた果物が溢れて、タルト生地がホロリと崩れて、甘さ酸っぱさ香ばしさが口の中いっぱいに広がったら、もうそれだけで私は幸せに浸れるのだ。

「このあと、ヴィルヘルム博士に呼ばれてるんだけど、ねえ、彼って何歳か知ってる?」


 ミミはこの研究所の医務室に派遣されて働いている救護員だ。研究所に籍はないが、たくさんの研究所職員の往来があるため私よりはるかに情報通なのだ。

「博士? 年齢不詳よ」

「そう、博士のことなんだけど、……え? 年齢不詳?」

 ミミにしては随分と曖昧なリサーチだ。

「ルルイエ研究所史が地下書庫の奥にしまってあるらしいから、そこを見たら彼の家系図なんかと一緒に書いてあるとは思うけど、地下書庫の鍵は博士しか持っていないから、誰も確認が出来ないの。……ってこの前事務の人が言ってたわ」

「年齢不詳……」


 どういうことだと疑問でいっぱいの私を傍目に、ミミは楽しそうに包帯をくるくる巻いている。

「これから博士に会うんでしょう? だったら直接聞いてみなさいよ。多分三十五歳って答えが返ってくると思うけど。博士はここ十年くらいずっと、『三十五歳』を自称しているそうよ。……はい、手当て終わり!」


 十年前に三五歳だったと仮定すると、今はまさか、四五歳……? いやいや、そんな、まさか。そもそも、現在の年齢が本当に三五歳だったとしても、あの顔はどう考えても若すぎる。

 ミミに手伝ってもらい、ブラウスと黄ばんだ白衣を着る。ブラウスは破れたままだったが、上に着る白衣を変えてしまえば誰にも気づかれることはない。どうしたって、真っ白な白衣がないのは悲しかったけれど。


 医務室を出る時、ねえティナ、とミミが話しかけてきた。

「高潔な精神はご立派だけど、それだけじゃ成り上がっていけないわよ? 早く一人前になってフレッドを安心させてあげないと、あんたのせいでフレッド、私をお嫁さんにする決心がいつまでたってもつかないじゃない」

「ははは、気が重いな……」

 ミミの中では兄さんと結婚することが確定しているのか、と思ったけど、敢えて聞くことは避けておいた。



 所長室は、研究棟の最上階、五階に設けられている。

五階は会議室や応接室などの来客用の部屋が集中して揃えてあるため、床や壁の材質から、置かれている調度品の数々に到るまで、全てが他階より一段と豪華になっている。

 用事がなければ無意味に来ることもない場所なので、私もここに来るのは実はこれでようやく二度目だ。ちなみに、初めて来たのは採用試験の面接の時。博士は不在とのことで、残念ながら会えなかったけれど。


 廊下の壁にはルルイエ幻獣研究所創設以降の主たる研究成果や、様々な賞の賞状やトロフィーなどがところ狭しと飾られていた。

 本来ならば一つ一つじっくり見てみたいところだったが、今日の用事は施設見学でもなんでもない。博士に呼ばれているから来たのだ。

 コン、コン、コン、と部屋の扉を三回ノックをすると、間も無く中から「どうぞ」と落ち着いた声が聞こえてきた。


「ティナ・バロウズです。失礼します」


 恐る恐る入室した所長室。手前にソファとコーヒーテーブル、その奥に立派な一枚板で作られた机が置いてあった。色艶から見ておそらく相当昔から使われているものだろう。もしかしたら、研究所創設以来使用しているのかもしれない。

 天井の高い壁は両面が本棚となっていて、新しい学術誌から色褪せた古い書物まで、それこそ山のように取り揃えてあった。ヴィルヘルム博士はその片隅の、本棚に架けられたはしごに座って本を読んでいた。


「ようやく来たね。怪我の具合は?」

 手にしていた本を閉じて机の上に無造作に置くと、一直線に私の前へ歩み寄る。

「大したことのないかすり傷ばかりでした。あ、あの、先ほどは庇ってくださってありがとうございました」

「気にしないで。あれくらい、当然のこと。むしろ傷一つないうちに助けに入るべきだた。面目ない」

 言いながら、彼は私をソファに促した。すすめられるまま腰を下ろすと、彼も安心してソファに腰を下ろした。……なぜか、私の隣の位置に。

「白衣は着替えたんだね。ガーゴイルに引っかかれて破れてしまったから? それにしても、どうしてこんなに着古した白衣を? 君はまだここに入職して間もないだろう、半年やそこらで、こんなに汚れるものかな? どうして新品の白衣がないの?」

「い、いえ、新人は先輩から頂いた白衣を着るのが習わしなのだと聞いて」

「……習わし? そんな習わし、うちにあったかな」

 博士が口に手を当て宙を見る。これは彼の考え事をしているポーズなのだろうか。左右に分けられた前髪の間から覗く理知的な額に皺が寄った。

 ぼけっと見とれていると、長い睫毛が上下に動いて、水色の瞳が私を捕えた。ドキッと心臓が高鳴った。

「あったとしたら、それはつまり君に私の白衣をプレゼントしてもいいってこと?」

 博士は屈託のない笑顔だが、私は素直に喜べない。

「はい? あの、ちょっと、意味が……?」

「所属研究室の先輩研究員のお下がりを貰ったということだろう? ならば、私が君にお下がりをあげても着てくれるということなのでは?」


 た、確かに貰ったら着るけれども、……いや、むしろ恐れ多くて袖を通せないかもしれない。部屋に飾って「私も一日でも早く博士のような研究者に近づけますように」とか願いながら、毎日手を合わせてお祈りを捧げてしまうかもしれない。

 しかし、博士は本気なのか冗談なのか判別つかないことを言いながら、現在着用中の白衣を脱ごうとするものだから、私は慌てて制止した。

「は、博士っ! 結構です、脱がなくて結構です!」

「心配するな、この下にも衣類は着用している」

「わかってます!」

 私が言えたことじゃないかもしれないが、研究者などの学問を極めんとする者は、総じてどこかズレていると聞く。きっとこの目の前の博士も、その例に漏れないのだろう。

「私は他に替えがあるから、一着なくなったところで問題はないのだが」

 問題はないだろう、ないだろうが、あるのだ。アリアリなのだ!

「そっそれで博士、私をお呼びになったのはどういう理由でしょうか!」

 このままでは埒があかないと思った私は、思い切って話の流れを変えようと試みた。

「ずっと君と二人で話してみたいと思っていたから」

「そうですか。ではお話を――え?」

 私の目論見通り、博士の意識は白衣から私の質問に移ったようだった。しかしどうしたことだろう、これはこれでどういうことだ。

「君を採用するにあたり、是非とも面接は私自ら行いたいと考えていたのだが、所用が入ってそういうわけにもいかなくなってね。それからも機会を伺っていたのだが、なかなか君との接点が見出せなかった」

「はあ……?」


 私との接点? なぜ、そんなものを?

 ソファの背もたれに腕をかけ、微笑んでいる博士の考えが私には全く読めない。

「さっきの件。どうして君は自ら罪を被ったのかな? 記録を手繰れば、いくらでもあれが君のせいではないと分かるはずなのに」

 ドキッとした。

「あ、あれは……」

「脱走は君のせいではない。なぜなら、君が管理を任されているのは、第四級の幻獣だけ。二級の幻獣の階へは、そもそも君は立ち入りすら許されていないだろう?」

「その通りです……ですが――」


 私は末端の研究員だ。それも、「研究員」というよりは「雑用係」や「掃除婦」に限りなく近い。にも関わらず、ルルイエで一番偉くて一番忙しくて一番注目を集めている人が、どうして私などのことまで事細かに把握しているのだろうか?

「先輩研究員を庇おうとしたのはなぜ? そこに深い理由は?」

 こちらからも質問をしようとしたが、博士の方が早かった。

「庇おうとしたのではありません。ただ……悲しくなったというか」

「悲しく? なぜ?」

「我々世界の真理を解き明かさんとする者は、常に真実に対して誠実であるべきです。一度でも真実を捻じ曲げようとすれば、それ以降はもちろん、過去に遡って研究成果の信憑性を疑われてしまいます。それくらい、この名誉あるルルイエにいる者なら誰でもわかっていることかと思っていたのに――」

 ――思っていたのに、彼は過ちの一つにすら、誠実に向き合うことを拒んだのだ。

「なるほど、それで君は失望したんだね」

「…………」

 ルノーさんのことを特別悪く言いたいわけではない。だから、心では思っていても「はい」とは口から出せなかった。


「さすが、私のティナ・バロウズ」

「…………はい?」


 私の、とはどういうことだろうか。

 博士が所長を務めるルルイエ幻獣研究所に所属するいち研究員を褒め称えて下さっているのか、それとも、本当に――おこがましいにもほどがあるが――言葉通りの意味なのか?

「君が書く日報も、健康観察の報告書も、全てに私は目を通している。もちろん、君が採用試験に応募してきた時の履歴書や小論文も。とにかく全てに、だ。ティナ、君は本当に素晴らしい。これまで沢山の者が書いた書類を目にしてきたが、君ほど丁寧で、熱意に溢れた文章を書く者に出会ったことは一度もない。本当に、良い人材を得ることができたと思っている。その思いをようやく今日、君に直接伝えることができて私もとても嬉しい」


 ……よかった、前者だった。

 博士は私をここの一員として認め、そして褒めてくださっている。

いつかは報われる日が来ることを信じて職務に当たっていたものの、突然その日がやって来て、私は感動のあまり涙がこぼれそうになった。

「あ、ありがとうございます。私など、まだまだ研究員としては駆け出しにも満たない――」

「否。少なくとも、私は君を認めている。幻獣研究をしたいという者は数多く存在するが、君のように実地研究や野外調査を希望している者は実はとても少ないんだ。幻獣はどこにでもいるわけではないから、それこそ水道も電気も通っていないどころか、道路もせいぜい獣道程度という原生林の中に飛び込むことも少なくないからね」


 野外調査を行う研究者は、清潔とは言えない環境で何ヶ月も過ごすことも日常茶飯事だ。女の私には、月に一回面倒臭いことも起こるし、野外調査には向かないだろうとはわかっている。

 ただでさえ、男性よりも非力なくせに命の危険は男女関係なく常に付いて回る。費用と労力をかけて僻地に赴いても、何も成果が得られないことだってある。

 これは、兄さんにもさんざん指摘されたことだ。

「倦厭されて当然の仕事。それを、君は志願している。学生時代から動植物の野外調査を実施し、特にコウモリの生態に関する研究はなかなか面白かった。先輩研究者として、見込みのある新人がやってきて本当に嬉しい限りだよ」

 こんなに褒めてもらえたのは、いつぶりだろうか。それも、私が尊敬してやまない、ヴィルヘルム博士に。

 彼が私の手を取った。大きくてゴツゴツしていて、そしてとても暖かい。

「毎日遅くまでこき使われてヘトヘトだろうに、翌日になればまた頑張っている。君の元気はどこから来る?」

 糖分です。糖分を摂っている時が一番幸せで、明日への活力が湧いてきます。それと、こうして博士に褒められても、無尽蔵に湧いてきます!

「意志の強そうなその瞳も魅力的だし、黒くうねるその髪も、神秘的でたまらない。幼い頃はただただ健気でただただ可愛かった君が、成人してこうまで美しく花開くとは思わなかった。憂いたその表情も、細い指の一本一本も、見ているだけでうっとり酔いしれてしまいそうだ」

 ああっ、本当に、夢みたい。憧れの博士が目の前にいて、兄でもしてくれたことがないほど、私をベタ褒めして下さって……ん? 魅力的? 美しく、花開く?

「……あ、あの、博士? ヴィルヘルム博士?」

 それは、仕事とどう繋がりが……?


 言葉のあやだとは思うけれど、なんだか方向性がズレてきていやしないだろうか?

 彼は頭をゆるく振る。

「ヴィル、と。私の名は長いから、もっと短く、親しげに呼んでほしい」

「いえ、そういうことではなくて」

 しかも、私の気のせいならいいのだけれど、なんだか博士の瞳が妙に艶っぽく……

「君のことをこんなに至近距離で見つめることができるなんて、本当に嬉しくて堪らない。髪が黒々としているのに、瞳は色素が薄いのかな、少し紫がかって見えるね。ああ、こんなに美しい花を……私はなんて贅沢なんだ」

 博士の顔が近づいてくる。綺麗な顔だ。まつげも長いし、肌は赤ちゃんの肌みたいにきめ細かいし、あと、何故か、良い香りもしてくるような。


 けれども。


「えっと……博士?」

 けれどもこの私、ティナ・バロウズは。

「つまりだ、ティナ」

「は、はい」

「結婚式はどこで挙げたい?」

「は、はい!?」

 彼のことは「研究者」として憧れているのでありまして!

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