草原に響く遥かな歌

逃ゲ水

第1話

 見渡す限りの一面の草原。

 膝までの高さの青々とした草の中を、一人の少女が歩いていた。

 少女の名前はメル・アイヴィー。銀細工のように美しい髪と雪のように白いワンピースが特徴的な美少女だ。

 そんな美少女が優雅に歩いていれば、雄大な草原と抜けるような青空の背景も相まって絵になるほどの美しい光景だっただろう。だが、今のメルは肩で息をしながら一歩一歩踏み締めるように歩くのが精いっぱいだった。


「なんでっ、こんなとこまでっ、歩いて来ようと、思っちゃった、かなっ!」

 乱れた息のままに独り言をこぼしつつ、なおもメルは歩いていく。


 なんで、という理由は本当ははっきりしている。

 数十分前、飛空馬車からこの草原を一目見た瞬間に何かの音が聞こえたのだ。風の音とも馬車の軋む音とも違う、人の声のような音だ。例によって御者や他の乗客には聞こえなかったようだが、メルには確かに聞こえた。

 聞こえたということは、何かがあるかもしれないということ。だから、メルは次の停留所で降りてここまで歩いてきたのだ。

 本当はその場ですぐに降ろしてもらえばよかったのだが、引っ込み思案なメルは言い出せず、結局数分後に着く停留所で降りることにしたのだ。


 だが、飛空馬車で数分の道のりは歩けば数十分になる。

 そのことにメルが気付いたのは、目印も何もない大草原を歩き続けて、肉体的にも精神的にも疲れを感じ始めた時だった。

「やっぱり、途中で、降ろしてもらう、べきだった、かなぁ」

 などと後悔しても後の祭り。今はもう歩き続けるしかないのだった。



「それにしても」

 メルは一息つくために立ち止まり、辺りを見回した。

「本当になんにもないよね」


 見えるのは広々とした草原と、その先で壁のように立ち上がっているちょっとした山と、あとは空くらいなものだ。

 飛空馬車の車掌や停留所周辺の住民にもメルは勇気を出して聞いてみたのだが、本当にただの草原だという話しか出てこなかった。

 さっきは「何か」が確かに聞こえたと思ったが、今ではもう空耳か何かだったような気がしてしまう。

「……でも、ここまで来たんだし。もうちょっとだけ歩いてみようかな」

 言い聞かせるように呟いて、メルは止まった足を動かそうとした。


 コツン、とつま先が何かに当たったのはその時だった。


「あれ、何かある……?」

 膝までの高さの草に覆われて見えなかったが、よく見るとメルの足元には何かがあった。

 草をかき分けてみると、丸太のようなものが地面に横たわっていた。半分ほどが土に埋まっているそれは、触ってみると硬くてひんやりしていた。

「……石?」

 確かにそれは石のようだった。風の噂では、石のように硬い木だとか、石そのものでできた木だとかいうものが遠い地にはあると聞くが、辺り一面にまともな木などない草原であることを考えると別の可能性の方が高そうだった。

 誰かが石から削り出した柱。つまり、人工物だ。

「てことは、ただの草原なんかじゃない……!」

 メルは静かに両手を突き上げて喜びをあらわにし、そのまま柱に座り込んだ。

「ちょっと、休憩しよう……」

 さっき一息ついたばかりというのも忘れて、メルはしばらく体を休めることにした。



 風が草を揺らし、草同士の擦れる音がザァザァと響き渡る。雨音が打ち付ける音とも、人ごみの喧噪とも違う、心地よい音だ。近いのは、静かな日の海の音、寄せては返す波の音だろうか。

 そんな草と風の奏でる音に誘われて、メルは腰かけたまま小さく歌い始めた。

 鈴の音のような、高く透き通った繊細な声。メルの声は波のような風音に乗って、絶妙な響きとなって一つの音色になる。まるで風と一緒に歌っているかのように。

 その歌には歌詞はなく、だからこそ風の調子に合わせて声も自由に高さや大きさを変えて、絶妙なコーラスとして響き渡っていく。

 自然と見事に調和した歌声は聴く者のない草原に響いていき、やがて気が済んだのか、始まりと同じように歌は唐突に止んだ。

 そして、聴く者のいなかったはずの草原に、パチパチと一人分の拍手が鳴った。


 メルが立ち上がり振り返ると、一人の青年が手を叩きながら歩いてきた。

「……あなたは?」

 布を体に巻き付けて留め金や紐で服の形にしたような、奇妙な格好の青年は、穏やかな笑みを浮かべていた。

「いい歌だ。この大草原に似合う素敵な響きだね」

「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいな」

 賛辞に対しては素直に喜びながら、メルはもう一度問いかける。

「あなたは誰?」

 青年は口を開きかけ、少し困ったような表情を浮かべた。

「私は……いや、名乗らないでおこう。そんなものに意味はない」

 メルは銀髪を揺らすように少し首をかしげる。

「そう? でも、なんて呼べばいいのか分からないんだけど……」

 すると、青年は少し考える素振りを見せた。

「……学者。そう呼んでくれ」

「学者さん、か。わたしはメル。よろしく」

 そう言うと、メルは目を細めて笑った。つられて青年は苦笑する。

「ああ、よろしく」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る