第2話

「ねえねえ、聞いた?新しく入った狸の男の子のこと」

 その朝、コロポックルの紅葉がいつになく曇った声で尋ねてきたので、美雲は少し心配しながら答えた。

「どうかしたの?」

 美雲の背中に跨った紅葉は、美雲のふわふわとした耳と耳の間に顔を埋める。

 んー、んーと唸りながら何かを言い淀んでいるようだ。

「んー。聞いていないならいいや」

 そう呟くとそのまま口を閉ざした。

 少し後ろを歩いている月の輪熊のワッカを見ると、ワッカは少し困ったような顔をした。

「いつもと同じだよ。新しい子が来ると、警戒心の強い奴らがあれこれ噂するのさ。耳を貸さないことだね」

 美雲は黙って頷く。

 バケモノ塾に通って5年が経つ美雲はワッカの言うことをよく理解できた。

 塾に長く通っていて縄張り意識の強い生徒も入れば、グループのようなものを作っている生徒達もいる。

 人の出入りが少なくない環境とはいえ、新しい生徒が目立つことには違いないのだ。

 目立てば当然、噂のまとになる。

 新しい生徒について最初に流れてくる多くの噂の半分以上は誰かの予想がいつの間にか真実のように語られただけの根の葉もないものに過ぎない。

 しかし、3年通っているというのに感性の豊か過ぎる紅葉は新しい生徒が来る度に流れてくる噂に一喜一憂してしまう。

 生徒が同じクラスなら自ら果敢にインタビューしに行くが、違う曜日に通う生徒となればなかなか会う機会もない、真偽を確かめられずもやもやしているのだろう。

 ———でも…。

 紅葉がこれ程までに噂を気にかけるのは珍しいかもしれない、と美雲が眉間にシワを寄せた時、横から声がした。

「おはよう。紅葉、お腹痛いの?頭痛いの?」

 小鬼の一季かずきはヒタヒタと足音をさせながら近づいてくると、美雲の耳の間に埋まったままの紅葉を覗き込んだ。

 紅葉はチラリと一季を仰ぎ見ると「元気だよー」と力なく呟いた。

 一季は小首を傾げる。

「もしかして、美雲の悪口聞いたの?紅葉も悪口言われたの?」

「私の?」

 一季の言葉は美雲のふいをつくものだった。

 ワッカが慌ててウウッと何かを言いたそうに唸ったが、一季はそんなワッカを不思議そうに見やりながら話しを続けた。

「そう、美雲の。知らない?聞いてない?新しい狸の子が美雲は鼻持ちならないって」

 美雲は聞き慣れた言葉に小首を傾げた。

「なんだ。よくある噂じゃない」

 優等生の美雲もよく噂のまととなる。

 そして、良い噂が立てば、どこかしらから悪い噂も出てくるのが世の常である。

 噂が立つのは、暗に美雲が注目に値する人物であると物語っているだけに過ぎない。

 だから、美雲は一向に気にしない。

 噂をしている相手が狸ならなおさらだった。

 昔、狐の一族と狸の一族の間で小競り合いが絶えなかった時代がある。

 それを過去のものにできない者達が未だにいるのだ。

「それと、そう!ワッカ!美雲の母さんは先生のお友達。だから、コネで才能のないクマの子、塾に入れたんだって」

 ワッカが大きな口を開けてガオッと控えめに吠えた。

「一季!よく知りもしないことを広めるもんじゃない」

「ワッカがガオー!大きな口!大きな声!凄い!凄い!」と歌うように笑いながら、一季はお気に入りのヒョウ柄の腰巻を翻してその場を去って行った。

 ワッカは呆れたようにため息を吐いた。

 美雲の耳の間で紅葉が頬杖をつきながら「嫌な狸」と呟いた。

「紅葉ってば」

 美雲は軽く叱責するように紅葉の名を口にしたが、すぐ口調を変えた。

 友達二人を同時に侮辱されれば面白くないのは仕方ないだろう。

「本当は誰がそう言ったのかなんて分からないじゃない?それに、新しく入った子がワッカや私の事にそんなに詳しいかな?」

「そうだよ、紅葉。俺も少しおかしいと思うんだ」

「でもよ!」

 言うや否や紅葉は二本足で歩いていたワッカのお腹の辺りに向かってジャンプした。

 ワッカのお腹にしがみつい着くと、わしゃわしゃとワッカの毛を掴んで肩までよじ登り、仁王立ちをする。

「こうして噂になってるんだから、誰かがそう言ったのは確かじゃない!美雲の出来がいいからって僻んで嫌な噂を立てるのはいつも狸の連中だもん!今回の事で私の怒りはもう頂点よ!今度こそ!絶っ対に!許さないんだから!!」

 一気にまくし立てる紅葉を肩から降ろしながら、ワッカが言う。

「紅葉。僕や美雲の事なのに自分の事のように腹を立ててくれるのは嬉しいよ。友達として。でも、真偽を確かめない内に誰かを犯人に仕立てちゃいけない」

 ワッカはポンポンと紅葉の頭を叩く。

 紅葉は怒りが納まらない様子でワッカの手を振り払うと学び舎に向けて走っていた。

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