第1話

 男は二十三歳で、香菜は二つ年下だった。二人は大学の映画研究会に所属し、活動のない日も会室へきて時間をつぶしていた。夏から秋――三年生だった男の引退が近づくにつれ、部屋に二人きりの期間が多くなった。そのうち、香菜のほうが男に想いを告げた。

 大学生のころ男の腹はすっきりとしていた。中性的な外見が、大学の女性に受けていた。けれど中性的、男っぽくなくて親近感が持てる、と言われることには、男は飽き飽きしていた。それは小学校のころから言われ続けていたことだったし、自分が男でない、と否定されるようで、心は澱んだ。そんな中で、男に、男らしくてかっこいいね、と告げたのが、香菜だった。男に初めてできた恋人だった。

 香菜はほんの軽い気持ちで、――せいぜい半年程度の遊びのつもりで男に告白をした。もっとも、彼女は男を深意から好くことができるほど、彼についての判断材料を持たなかった。大学生の恋愛などその程度のものと割り切っていた。香菜は男性関係に関しては、臆病であった。自らのほとんどを曝け出すことができるほど、異性に対する度胸はなかった。実のところ、男に声をかけたのは、未知に対する好奇心からというのが大部分だったのである。二人は実際、その程度の付き合いをした。映画を見に行ったり、ショッピングをしたり、公園で一息つくなどといったことを、男が映画研究会を引退するまで続けた。唇を重ね合わせることすらしなかった。

 大学の学園祭が終わり、映画研究会の活動――といっても、週に一度集会をして映画の批評をする、月に一度映画を実際に見に行く、その程度の活動であったが――の中で、香菜は男が引退して、これまで程の頻度で会えなくなってのち、倦怠感を覚えた。あまりに張り合いのない大学生活を送ることに疑問を覚え、将来に関する怫然としたやる気を会員に打ち明けると、

「理想が高くていいわね」

 うんざりしたような返事が返ってくるのが常だった。大学というぬるま湯にとっぷり使った身からすれば、確かに香菜は浮いていた。講義にはすべて出席し、精力的な質問を教授にぶつける香菜は、しかしその真面目さゆえに孤立していった。ありがちなことだが、香菜には他の環境に身を投じる、という視点はなかった。そこで、香菜は一念発起して、映画研究会という名義である以上、映画製作をしてもいいはずだ。私たちの代で、映画を創ろう。そう定例会で提案した。誰もがそれに反対し、会長すら彼女を援護はしなかった。歯噛みして悔しがりながら、大学は享受の場だ、と思った。会得する場所ではない。甘んじて受け取るところだ。

 もちろん、大学には香菜のように精気溢れる若者の集まったサークルはあった。しかし、それが香菜の視界に入らなかった。香菜にとって、サークルと講義、それが大学生活のすべてだった。自ら周囲と壁を作っていった。そのうち、大学には居場所がない、というのを、この世界には居場所がない、と錯覚し、独り暮らしの自宅に引きこもるようになった。

 世界で自分だけの脳がとにかく醜く腐っているように感じた。体が動かない。用を足すことすら億劫だった。何ともしようがなくて、睡眠の世界に逃げ込みたくもなったが、鈍い頭痛がそれすらさせない。そのことを親に告げると、精神科の受診を勧められ、うつ病という診断結果を下された。

 処方された『薬』――それがどのように、精神の病に作用するのか、理解ができなかった。だからこそ、彼女はそのよくわからない薬効を神聖視した。睡眠薬の、溺れるような酩酊感を、いきるよすがにした。

 就職活動に忙しかった男は、しかし彼女がうつ病にかかったと知るやいなや、精力的に彼女の家を訪れ、慰めた。慈愛に満ちた男の言葉を聞き、家のことをする姿を見るにつれ、自分にはこの人しかいない、と感じるようになった。極端な視野狭窄に陥った香菜にとっては、男はこの世で唯一の恋人であり、変わりなど考えられなかった。彼女が依存するものが、薬から男へと移り変わる。香菜はセックスを求め、快楽を求め、男の「男らしさ」を求めた。男はそれに、よく応えた。

 男の大手企業への就職が決まった際に、婚姻届けを出した。新居を賃貸し、忙しい合間を縫い、男は精力を振り絞って、セックスをした。香菜が妊娠するころには、香菜の病も寛解しており、薬の処方は子への影響も考えて量が減った。

 香菜は大学を退学し(またその、ぬるま湯のような組織からの脱退というのが、香菜の気分を晴らした)、出産への備えにちからを注いだ。子は香菜の小さな体の中ですくすくと育ち、また強く香菜の腹を蹴って存在を主張した。

 このころ、男は自分に、父親としての自覚が芽生えないのを怪訝に思った。妻が懐妊した旨を会社で同僚や上司に告げたときの祝福の言葉が、どうもしっくりこなかった。妙な話だった。男は香菜に対し、ベッドの上ではたけだけしい『男』であったはずなのだから。この『女』をはらませてやる、と息巻いて精を吐き続けた男の性器は、このころ性的な視覚的触覚的刺激に驚くほど反応しなかった。

 男はそれに、妙な寂寥を覚えつつ、当然ながら自分は『男』であることを疑うなどつゆほどもしなかった。とりたてて何も考えず、ただ日々電車に揺られ、パソコンで業務を遂行して、電車に揺られて帰った。

 とある電車通勤の朝である。いつものように電車が混み合い、立ち乗りの人々の間にはややゆとりはほぼなかった。が、男は背中に確かに、それが意図的に押し付けられるのを感じた。片手に吊り皮、もう片手に鞄を持った青年が、背丈の小さめな男の背中に勃起した性器を押し付けていた。男の職は事務職であったため、私服で通勤している。これがスーツ姿だったなら、青年は自分に性器を押し付けることはなかっただろう、と男は思った。青年の風采は、男の好みの感じだった。ふと、自分は香菜の『女』であるのではないかと考えた。それが頭をもたげると、たちまちこれまで釈然としなかった事柄すべてが明瞭になっていくのを感じた。俺は、女だ。女なのだ。

 男は、さも青年の背徳感をあおるように、恥じらいや困惑といった表情などをして見せる。背中の感触は、みるみる固く大きくなった。

 映画研究会時代香菜とキスすらしなかったのも、病に臥せる香菜に対し献身的になったのも、すべて自分が女だからだ。そうして、女と付き合うのは、男というものであろう。

 発想の転換が起こった。すなわち、香菜が男性であり、自分は女であるということに思い至った。青年の性器は脈打ち、その後しぼんでいった。青年は男から離れた。

 そのころから、男の腹は膨らみ始めた。香菜に孕ませられたのだ。


 まるで花弁が少しずつしぼんでいくかのように、香菜の表情は日に日に翳っていく。自分は授かった命をこの世に産み出してやれなかった。男との子を、無事に迎えてやることができなかった。香菜は日に日にやつれ、亮を火葬する日など、冷凍保存した死産児のそれよりもしおれた顔をしていた。彼女はこの日が来るのを恐れていた。

 葬儀は家族葬とし、弔電も断った。そもそも、男は周りに、子供が死産したことを職場やその他学校時代の友人らとのかかわりなどで、全く話をしなかった。男の胎内には、子供はなお生きていると思い込んでいたからである。葬儀が予定通り進み、小さな小さな木棺に入った亮の顔を、香菜は最後にしっとりとなでた。棺が閉じられるとともに、堰を切ったように香菜は泣き始めた。

 火葬場に、亮が運ばれる、もう「それ」を男は、亮とは思っていないのだった。かれにとって「それ」は生き物ではないなにものかだった。火葬場について、点火のスイッチが押されると、香菜はその場にくずおれた。

「何が燃えているのか?」

 男は精進落としの場で、「それ」が燃えているのが気になった。単純に未知への知的好奇心が男を刺激し、それが腰元にたまっていくように感じた。自分自身が、出来事から養分を吸収し、血肉となっていくかのような感覚。また、精進落としの料理は非常にうまかった。自らが摂取した栄養素すべてがまず自身に吸収され、その後血液のめぐりに乗って全身にそれがいきわたり、最終的に自分が胎児に分け与える。豊富な養分を蓄えた自分から、自分の分身が産まれていく様を男は空想し、悦びを覚えた。小さな体だ、お骨は残らないと聞く。ああ、こんなにおいしい食事は初めてだ! あのよくわからない『なにものか』は、この世に存在しなくなるのだ!

「このたびはご愁傷さまで。次の子を授かるよう祈っている」

 さして近しくもない義理の父からの、励ましとも煽りともつかないその言葉に、香菜は愛想笑いを浮かべる余裕すらなかった。男は、それを当然のように受け取り、

「ええ、じきにいい報告ができるよう頑張りますよ」

 一瞬場が凍り付くのを、男は感じなかった。義母はその言葉に眉根を寄せかけるが、肯定的に解釈し、ほほえみともつかない程度に顔の筋肉を収縮させた。

 火葬が終了する頃合いだった。骨上げの段になり、一つだけお骨が残った。男はそのお骨がのどぼとけのそれだと分かると、突如として自らの喉に違和感を覚えた。香菜は涙を再び流し、

「よかった、この世に、お腹の中に、亮が確かに居たのかって、そのことがずっと、私の中で引っかかっていた。でも、こうして亮は、残ってくれたんだね。大事にとっておこうね」

 香菜は自らを奮い立たせ、もう一度開花するかのように、男にやさしく微笑んだ。

「いいや、見なかった! 確かに俺は、何も見ていない!」

男はそれを見たことが、単なる妄想だと思った。自分の中のどこかの部分が、まだ自らの体に起こったことを信じていないのだろうと思った。無意識下で、常識に訴えかけているのだと。自分がなすべきことは、これを乗り越えた先にある。

 男は低くくぐもったうなり声を上げながら、車で家まで帰った。香菜はそれを悲しみの呻吟だと解した。

 マンションに帰ると午後二時だった。車から降りたときの立ちくらみのような感覚で、男はふと、自分が疲労していることに思い至る。母体の精神的な安定は、胎児にとって重要だ、と男は自らに言い聞かせる。男は寝室に入り、独りで午睡をとった。目覚めたのは深夜で、隣で男に密着して香菜が眠っていた。久しぶりで香菜と再び同じベッドで眠れることの喜びを感じた。長い間翳っていた気持ちにほんの一条の光が差したようだった。香菜のためにも、子供を産んでやらなくては、と思いを新たにした。

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