第2話 はじまり

 私が「異世界」へ来た経緯をまず振り返ろう。2018年11月1日の夕方、大学から家への帰路でそれはおこった。その日はやけに心が落ちこんでいたことを今でも覚えている。私は駅前の道を歩いている最中に突然気を失ったのだ。


 次に目を覚ました時にはもう、私は「異世界」へと来ていたのだ。


 この一連の出来事はなんらドラマチックではない。道端で突然、気を失っただけなのだ。今思えば、その時に「超越者」と出会ってでもいれば、この物語は軽快さを帯びた壮大スペクタルにでもなっていただろう。しかし残念ながら、これは同じフィクションでも一人の私記である。

 話は逸れるが「異世界」で活躍する主人公を創作する作者は、どんな気分なのだろうか。作者の視点はどこから注がれ主人公を主人公たらしめているのか。主人公の行動と気持ちを同系列に扱うことは、それこそ「超越者」にしか可能ではない。「タロウは歩いた」は観測者の視点であり、「タロウは思った」はタロウの視点であるはずなのだが、そうした二重の視点を行き来できるのだから、作者とやらは自分の世界を作り出すことに陶酔した人間なのだろう。これは私記なので、そんな視点の浮遊はできない。私は残念ながら私でしかなく、私の視線しか持ち合わせない。

 さておき私は「異世界」で目を覚ました。そこは全く身に覚えのない森であった。もちろん当時は「異世界」にきたなんて思いもしなかった訳だが、その時の私の慌てぶりはすごかった。少し落ち着いた時には夢だと思った。しかし私は今までも夢の中で、「これは夢だ」と自覚できたことなど一度もなかったことを思い出し、直ぐに違う選択肢を模索した。一番、納得のいく答えは「死」であった。「死後」とは、「生」のうちの幻想か、もしくは「生」を失ったものにしか経験できない世界である。したがって私は後者である「生」を失ったのだと思った。これに関しては今でもそうでないかと疑うことがある。

 だがこの現象をこれ以上考察するのはやめよう、と思い至った。なぜなら喉の渇きがあったからだ。死んでいたとしても、夢の中だとしても、転移していたとしても、極論を言えば今まで生きていた世界すらも虚無であったとしても、そしてそれらが明らかになったとしても、喉の渇きを潤すことはできない。「世界」や「異世界」があってもなくても、この渇きは私に行動を誘発する十分な理由なのだ。

 そうして私はようやく歩きながら周囲を確認し始めた。その森は、恐らく日本ではないと直観的に思った。日本の森に精通している訳ではないが、葉の青々しさや地面に散逸された小枝、薄く霧がかかったその景観が、どこか洋画に出てくる森のように思われたからかもしれない。野性の動物が出てもおかしくはないだろう。だが当時の私は、そこに現実味を感じていなかったのか、ずんずんと森を進んでいった。

 森の中を10分ほど歩いただろうか。歩けども歩けども何の変化もない森のせいで、私はますますここがどこなのか分からなくなっていた。しかし10分も歩けば自分に関する情報ぐらいは整理できる。私は変わらず24歳の平凡な男であった。ここからどれくらいの時間歩いていたかは覚えていないが、不思議と疲れはなく、もはや軽々しささえ感じていたほどである。変化といえば川の匂いがしたことだ。これは嬉しかった。昔から匂いには敏感であったので、私の鼻は視覚や聴覚よりも早く水の存在に気が付いた。いや、匂いだけでなく、水蒸気が発する独特の冷たさや風を皮膚が感じとったのかもしれない。そうした川を感じる総合的で野性的な感覚に導かれ私はようやく喉の渇きを癒すことができた。

 幅1メートルほどの小川の水を手ですくい飲んだ。その水が汚いだとか、腹をこわすだとか考えなかった。それは喉の渇きが酷かったというより、現実感の無さが影響していただろう。ここがどこかも分からぬ状況では、水は喉を潤すものでしかない。草食動物にとってどんな種類の植物も草全般として食べれるか、食べれないの二つにしかうつらない。だから未来の出来事よりその場での欲望が優先される。そう思えば分類的な差を見出すことは、贅沢なことなのだ。人間は自らが生を持続するためだけの差だけでは飽き足らず、世界を差で満たす。ときおりこの認識的な差が、現実世界の差に追いついたら、どうなるのだろうかと夢想する時がある。世界は差を生み出す主体に還元され止まるのだろうか。

 残念ながらそうした境地に辿りついた訳ではなく、川の水は滔々と流れていた。喉の渇きを癒したのち、水の冷たさを感じた時には恐怖が頭を支配していた。ここはどこだ。冷静になればなるほど状況が理解できなくなるという恐怖はどう言い表すことができようか。今こうして言葉を用いて説明しようとも、言葉という間接的な表現では追いつけぬほどの恐怖であった。哲学者や文学者が自殺する理由には、この恐怖が起因しているに違いない。図らずも「世界」ではなく「異世界」において「世界」の説明不可能性に辿りついてしまった私は彼らと同様に自殺を試みた。川の中に顔をつっこんだ。がすぐに馬鹿馬鹿しくなってやめた。とりあえずまだ歩いてみよう。歩くと再び現実味が薄れて、生きることに対しての明瞭な考えは森の霧に隠れていった。生きるとは考えることを中断することなのだろう(註2)。


註2 私が異世界という言葉を持ち出し、こんな文章をかきなぐれるのは、根本的に考えることが不得意な人間であるからだ。この異世界において私が昔は他の世界にいたなんて信じるものは一人もいない。私と長い時間を共にし、信頼関係にある妻ですらこの話を持ち出すと「はいはい、あなたは異世界に来たのよ」と笑いながら馬鹿にしてくるのだ。しかし私は時折昔の世界を思い出し、こうしてこの異世界では落書きとしてしかとれない文字を使って頭を整理しているのだ。私ぐらいは私の過去を信じてやりたい。こんな状況を根拠なく信じているのだから、私は真剣に考えることを放棄している人間なのだ。この文章は誰も読むことができないままに消えていくだろう。それでもいいのだ。ただ記しておきたかっただけなのだから。

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