優しく絶望を与える

 妹が夜の列車で家に向っている。車内は混み合っている。座席は埋まり、通路にはぴっしりと二列に乗客が並んでいる。カーブの度に吊革の軋む音が聞こえる。彼女はイヤホンで音楽を聞きながら文庫本を読んでいる。姉が大学前の喫茶店で読んでいたシリーズのいくつか先の巻だ。

 彼女はふと顔を上げる。暗い窓に自分の顔が映る。合わせガラスのせいで像がうっすらと二重になる。前髪を直す。取り立てて欠点のない美しい顔立ち。

 そうして鏡を見つめたまま何かを考えている。長い時間をかけ、自分の体を忘れるくらいじっくりと考える。何かひとつの疑問に始まり、仮説を立て、事実と結び付ける。整合性を確かめてより精度の高い仮説を生成する。かもしれない、だろう、違いない。

 次の停車駅のアナウンス。列車は惰行から減速にかかる。空いた吊革が進行方向へ流れる。彼女は本を閉じようとする。裏表紙の方に挟んであった栞を読んでいたページに移す。栞にしては短くて幅が広い。違う。栞ではなく名刺だ。私的なものらしく白地に名前と連絡先だけ。角は折れ曲がり縁はふやけ、表面の印刷も薄れている。まるで鞄の底に何年も忘れ去られていたかのように傷んでいる。彼女は一呼吸ほどその名前を眺めて目を細め、本を閉じて鞄に突っ込んだ。驚いた様子はない。今初めてその名刺を目にしたわけではないのだ。


 妹が家に着く。彼女が最初に帰ってきたようだ。鍵も閉まっているし明かりも点いていない。姉もいない。珍しく狐もいない。上着も脱がずにカーペットに倒れ込む。横に転がって手探りにストーブを点ける。依然暗い部屋の中で次第に赤い光が彼女の体の輪郭に集まってくる。

 五分くらいはそうして眠ったように体を温めていた。起き上がって明りを点け、上着を脱ぎ、うがいをしてソーダを一杯飲む。テーブルに新聞を開く。能動的な読み方だった。つまり一面から順に捲って見出しに目を通すのでなく、ページ番号を見て開くところを選んでいた。そうして地域面の一角に目を留め、しかしよほど短い内容だったのか、ほんの二十秒ほどで顔を上げて最後の面までばさりと閉じてしまった。椅子に体を預ける。そしてまたじっと待つ。

 彼女が見つけた記事は、実際のところ、数日前に市内の神社で見つかった変死体の身元が判明したという警察発表を必要最低限の言葉で伝えていた。名前は書いていないが、それでも当人の周りの人々には噂が伝わるはずだ。彼女の知り合いだったのだろうか? それにしては彼女は悲しむ様子を見せない。惜しいとも思っていない。仮に何か感じているとしてもそれはもっと別の感情だ。

 彼女はまだ何かを待っている。時折ソーダのグラスに手を伸ばす。ストーブのカチン、カチン、という金属的な音が一定の間隔で響く。

 やがて車の音が近づき、誰かの気配が階段を登ってくる。妹は玄関扉の手前で待ち構えて、ドアスコープで確認したあと扉を少しだけ開けた。蝶番が鳴く。姉が鍵を出そうとした手を止める。その足元に狐がいる。

「ねえ、おまえ、誰なの? 私が知っている誰かなの?」と妹は扉を開けた隙間から低い声で訊いた。

 狐は顔を上げて妹を見返す。

「私に付き纏っているの?」

 姉が外からドアノブを掴んで開けようとする。チェーンががちっと伸び切ってその手が弾かれる。妹はチェーン越しに狐を見つめている。

 狐はその場にまっすぐ立ち、首を下げて鼻先を地面すれすれに近づけた。そのままの姿勢で後ろ脚を片方下げ、前脚を片方下げ、少しずつ慎重に後ずさる。柵の際まで来たところで再び止まり、ゆっくりと頭をもたげる。そして高く掲げる。狐の目が改めて妹の目をまっすぐ見返した。妹の顔をじっと見た。相手の気が変わっていないか確かめるというよりは、最後に顔をきちんと見て記憶しておこうとするような意志の決まった目だった。狐は五秒ほどそうしたあと、岩場を跳ぶような素早さで階段を下りていった。

 扉が重たく閉まる。妹はほとんど肘から先だけの動作で鎖を外す。姉が外から扉を開け、妹を押しやって中へ入る。後ろ手に鍵を閉めて溜息をつき、「座りなよ」と言って扉に背中で寄りかかる。駅で人を待つみたいにポケットの底まで手を突っ込んで、顔の下半分を襟の内側に隠す。

 妹は框にそっと腰を下ろす。

 物音や二人の動きの余韻が消える。静止。

 そして姉がゆっくり口を開いて「どうして追い出したの」と不本意そうに言った。

 妹は膝を合わせて框に座ったまま何も言わない。姉の足をじっと睨んでいる。

「私、結構気に入ってたんだけどな」姉は続けた。

「それなら彼氏んとこで飼えばいいよ」妹は目を動かさずに返した。

「でも狐くんはそれじゃ不満なんじゃないかな。彼は私よりあなたの方が好きだったみたいだし。好かれるのが嫌?」

 妹は苛立ちを抑えるように自分の額の両側を指でぐりぐりと押した。

「好かれるだけならいいよ。でも粘着されるのは嫌」

「だから拒絶した」姉は少し間を開けてから言った。今までの狐の様子を思い出していたみたいだ。

「いけない?」

「別に、普通の反応じゃない? 嫌なんだから、仕方ない」姉はポケットの中で手を動かしながら言った。「でも上手くないし、危ない。彼らの気持ちは押し殺され、遮断され、行き場を失う。消えずに残る。あなたがそれを受け止めなかったから」

「私が彼らの気持ちを受け止めるなら、彼らも私の優しさを受け止めてくれていいはずでしょう。その逆も同じだよ。好かれるだけならいいんだ。そう言ってくれれば、この人は私のことが好きなんだってわかっていれば少しくらいいいこともしてあげられる」妹は姉の足に向かって沈んだ声で言った。

「つまり、生殺しだね。あるいは彼らは勘違いを続ける。あえて勘違いをし続ける。希望に縋る」

「そう。でもそれで我慢していられないなら、私もそこまで。それが優しさの限度」

 姉も頷く。「彼らの我慢の限度、あなたの優しさの限度。その潮時にきちんと終わらせなければいけない。説明するのよ。愛してない、優しさの限度だって、正直に。掌を見せるように心の内側を見せなさい。それで相手はわかるから。自分に対する気持ちはこれっぽっちもないんだ、何をしても無駄だって」

「絶望を与えるの?」

「そう。本当の絶望は恨みにも変わらない。恨みには希望が含まれているもの。きちんと終わらせるのよ。首を絞めるように。あなたは拒絶し続けるのと同じくらい苦しむでしょう。でもそれは天稟なのよ。彼らが希望のない愛の芽を抱かなければならなかったのと同じように」

「天稟ね」妹はいささか吐き捨てるように言った。

「気に食わないなら好きにすればいい。ただ私がそうしてきたというだけ、そうするようになったというだけのことだから」姉はそう言って扉から背中を離した。

 妹も半分ほど顔を上げる。目は伏せたままだ。

「で、どうする? 私は狐くんを探しに行くけど、ここへ連れ帰ってくるか、もう会わないのか」と姉。

「ねえ、もし手を尽くして説明しても絶望を与えられなかったら?」妹はそう訊いたあとようやく姉の顔に目を向けた。

「それはもう人ではないよ」姉は首を横に振って答えた。

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