恋に落ちる音

 恋に落ちる音を知っている。

 なんたって中学一年生の男子である僕は、ここのところ毎日恋に落ちているのだ。世界ギネスに「恋に落ちる回数」という項目があるのなら、おそらく僕がナンバーワンになり得るに違いない。まだ恋に落ち始めてから数ヶ月だけれど、なにしろ僕は、これからも山のように恋に落ちるつもりだ。恋に落ちる音の博士と言っても過言ではない。世界中に自慢できるほど、僕はその音をすこぶる知っている。


「香山くん起きて」


 ゆさゆさと布団に丸まった僕を揺らす声に、朝から僕はびっくらこいてしまう。だってその声を平日の朝の僕の部屋で聞くのは初めてだったから。ちなみに日曜日の朝には聞いたことがある。とある土曜日に彼が僕の家にお泊りしたからだ。あの日はほぼ徹夜みたいなもので、部屋の電気を消してずっとゲームをしていた。朝だね。明るいね。おやすみ。おやすみ。って話した。あの夜ときたら、それはもうとても楽しかった。

 なんてことを思い出している間にも、ゆっさゆっさと揺さぶられ続け、根負けした僕はちょびっとだけ布団から顔を出した。すると目の前に彼がいる。とある土曜日、僕の家にお泊りした男の子。


「香山くんおはよう」

「なんで広瀬くん僕の部屋にいるの」

「だって香山くんいつもの待ち合わせ場所に来ないから。どうせまた布団から出られないんだろうなって」


 そう言って広瀬くんはムムッと唇を尖らせた。すこぶる可愛い。それだけでもう心はポカポカだけど、誠に残念ながら、心のポカポカと身体のポカポカは分離されているのだ。十二月という日本の極寒に耐えれるほど僕は強くない。つまり布団から出ている僕の顔はべらぼうに寒い。だからとっとと引っ込めようとしたのに、広瀬くんは無情にも僕から布団を盛大に引っぺがした。


「さむい! さむい! しんじゃう!」

「しなない、しなない」

「広瀬くん知ってるかい人は十五度以下の環境では生きられないんだよ」

「香山くん知ってるかい世の中にはマイナス六十度の国もあるんだってよ」

「嘘だぁそんなの僕ぁ信じない」


 広瀬くんは僕と同じ中学一年生で、僕と同じクラスの男の子だ。入学式の日に初めて出会い、ひょっとして僕は君と出会うために生まれてきたのかもしれないと思ってしまうぐらいに意気投合し、朝は待ち合わせて一緒に学校へ行くし、僕らは帰宅なので一緒に帰る。寄り道もする。土日も携帯でやりとりをしたり外へ遊びに行ったり、お互いの家に遊びに行ったりもする。いわゆる親しい友人、最上級の親友、フォーエバーベストフレンドである。

 そんな広瀬くんは、寒さで凍える僕の両手を突然ぎゅっと握った。あまりにそれとなく握られたもので、「なんで?」とは聞きづらい。


「うわ香山くん手ぇ冷た」

「頭の先から足先まで冷え性だから」

「部分的な冷え性ってあるの」

「わかんない布団返して」

「そんなに寒いなら暖房付ければいいのに」

「電気代かかっちゃうじゃん」

「いい子なのは良いことだけど遅刻しちゃうよ香山くん」


 延々と文句を言い続ける僕を、広瀬くんは手を繋いだままリビングまで引きずり出してくれた。そこに待ち構えた僕の母親は、腰に手を当ててこれ見よがしに溜め息を吐いてくる。


「あなたって子は、広瀬くんが家まで迎えに来てくれたっていうのに」

「いいえ香山くんのお母さん、俺が香山くんと一緒に学校に行きたいだけなので」

「ほんといい子ねえ広瀬くん。おにぎり食べる?」

「いいんですかいただきます」


 自分の家で朝ごはんを食べてきたであろうに母の厚意を無下にしない広瀬くんは格好いい。そしてモグモグとおにぎりを頬張る広瀬くんは可愛い。ありがとうおにぎり、ありがとうお母さん! あったかいお味噌汁もあればパーフェクトだった!

「つべこべ言わずさっさと学校行きなさい」と、寝ぼけた口におにぎりを突っ込まれ、制服にとっとと着替えさせられ、分厚いダッフルコートとマフラーと耳当てと手袋をフル装備して家を出た。無情にも凍てついた風が僕の歩みを阻む。寒い。しぬほど寒い。心も身体も震えて動けない。学校のホームルームのチャイムが鳴るまであと十分。ここから学校まで歩いて十五分。僕は自業自得だけど、広瀬くんまで遅刻に巻き込んでしまうのは申し訳ない。


「香山くん走ろう」

「誰に言ってる?」

「体育の成績で唯一『1』をもぎ取った香山くんに言ってる」

「広瀬くん先行っていいよ、迎えに来てもらって悪いけど」

「ダメだよ」

「でも」


 広瀬くんが、ぎゅっと僕の手を握る。広瀬くんも自分の手袋をつけているから、今度は彼の手の感触はわからない。

 それでも。

 彼の温度が僕に伝わるような、そんな錯覚をする理由を。


「香山くんと一緒に行きたいから迎えに来たんだ」


 恋に落ちる音を、知っている。

 僕を起こすために布団を揺らしてくれた音。僕の名前を呼んでくれた声。手を握ったときに肌と肌がこすれる音。一緒におにぎりをモグモグ食べた音。マフラーをぐるぐる巻きにしてくれたときの衣擦れの音。君が白い息を吐く音。手袋同士でぎゅっと握り合った音。君が僕に向かって選んでくれた言葉。一緒に走り出して、地面を蹴り上げる音。

 君の素敵なところを知ってる。格好いいところも可愛いところも知ってる。初めて恋に落ちた瞬間も、音も覚えているけど、これだけはまだ僕だけの秘密だ。いつか広瀬くんだけには教えてあげようと目論んでいるけれど、何しろ僕はまだ広瀬くんに好きだと伝えられていない。こういうことは順番が大事だ。シチュエーションも大事だ。たとえばそう、こんな惨たらしいほど凍える冬ではなく、やさしい匂いのする春がいい。心も身体もポカポカした日に、君に好きだと伝えたい。でもだけど、場所や時間を決めて伝えるのもありだけど、なんだかんだでついポロッと言っちゃう気もする。ねえ僕広瀬くんのこと好きなんだけど。えっ俺も香山くんのこと好きなんだけど。みたいな。そんな感じも、全然ありだ。あり寄りのありありだ。

 ちなみにさらっと言ったけれど、僕は、広瀬くんも僕のことを好いてくれているだろうと自負している。これは君だけに教えるけれど、実は僕の手を何でもない風に握るとき、広瀬くんはほんの少し緊張しているんだ。その証拠に広瀬くんは僕の手を、大事なものを抱きしめるように、そっと、ぎゅっと握る。僕は彼のフォーエバーベストフレンドだから、それぐらいわかって当然だ。


「香山くん本当に遅い!」

「学校のマラソンで僕だけ毎回二週遅れになることを忘れたのかい広瀬くん!」

「三週遅れのときもあるよな」

「もっと引っ張って広瀬くん」

「了解した」

「広瀬くん早いよお」

「香山くんが遅いんだよお」


 走りながら僕がゼェハァ息を荒らしまくっていると、広瀬くんは可笑しそうに「んふふ」と変な声を出して笑う。心がポカポカする。身体もなんとなく暖かくなっているかもしれない。

 本当は今ここで好きだって言うこともできるけれど、なにしろ僕たちには大変ありがたいことに山ほど時間がある。未来がある。だから僕たちは何にだってなれる。友だちにだって親友にだって恋人にだって。もしこれから新しいフォーエバーベストフレンドが出来たって、その親友が広瀬くんと同じくらい大事になったって、僕が恋をするのは広瀬くんだけだ。だから今は親友でいよう。親友だけの時間を満喫しよう。そしていつか恋人になろう。広瀬くんが世界中に自慢できる彼氏になろう。

 ふふひ、と笑えば広瀬くんが「変な笑い方」と言って、んふふと笑う。笑い合う。恋に落ちる音がする。僕らは僕らの恋に、何度でも毎日でも、十年後だって百年後だって、これでもかと飛び込む勢いで落ちに行くのだ。

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