笹川チエ

「あなたはもうすぐ死にます」と天使は言った

「あなたはもうすぐ死にます」


 ある日、天使はそう言った。そういうことを言いそうなのは死神のような気がするけれど、目の前にいる女性はそれはもうたいそう美しく、可愛らしく、思わずその手を握ってどこかへお出かけしたいほど、どこをどう見ても天使にしか見えなかった。僕が素直に思ったことを述べると、天使は頬をぽっと赤くして「それはさておき」と話を本題に戻されてしまう。


「なので、何か心残りがあればお付き合いします」

「お付き合いしてくれるの」

「はい。あなたに未練が残らないように」


 と言われても、そもそも自分がもうすぐ死ぬということも実感できていない。多分それは具体的な原因やら理由やら事の発端やらを教えてもらっても同じことだろう。

 ちなみに今いる場所は僕の自室だ。壁には本棚が隙間なく敷き詰められていて、僕が集めてきた書籍たちが圧倒的に輝きを放って並んでいる。死ぬそのときまでこの本たちを読み返すというのも悪くないけれど、それじゃあいつも通りだ。せっかくこんなに美しい人がいるのだから、二人で新鮮な何かを謳歌できたらいいなと思う。

 それでは一体何がいいだろう。腕を組んで考えてみるものの、ぱっと閃くものはない。


「ううーん」

「すぐには思いつきませんか」

「……ふかふかのベッドを買い、君を抱きしめて眠るというのは」

「それはさておき」

「駄目かあ」

「ふかふかのベッドが欲しければ用意します」

「いいよ。僕は畳に布団派だから」

「今どきそういう人は珍しいそうですよ」

「今どきと言われても」


 子どもの頃からそういうものには疎かった。「君はとてもマイペースだね」と言われたことは数知れず。嫌味として言われることもあったけれど、僕にはこういう生き方が一番やりやすかったし楽しい。ああ、いや。楽しい、ではなく、楽しかった、になるのだ。もうすぐ。変な感じだ。現在進行形が過去形になる。たったひとり僕だけが。


「あ」

「思いつきましたか」

「あれ食べたい」

「どれです」

「甘いやつ」

「幅が広すぎます」

「大きいやつ」

「世の中にはバケツプリンというものがあるらしいですが」

「あ、それも食べてみたい」

「『それも』ということは違うやつなんですね」


 あ、あれだよ、あれあれ。そう言いながら僕は人差し指を立てる。


「パフェ」

「パフェ」


 おうむ返しにして天使は目をぱちくりさせた。僕はじっと天使を見つめる。


「……なんですかその目は」

「『パフェ』ってもう一度言って」

「パフェ」

「発音がかわいい」


 天使の耳が赤くなる。「意味がわかりません」と綺麗な髪を耳にかき上げて俯く仕草まで、彼女は美しい。


***


「甘いもの好きでしたっけ」


 天使はいつのまにか僕の人生を全て把握している。だから僕の食生活において甘いものの割合が一割もないことも知っているのだ。


「好きじゃないけど、パフェの見た目は好き」

「見た目、ですか」


 僕たちは最近オープンしたらしい喫茶店に来ている。壁や床、テーブル、窓までもが新品でピカピカだ。僕はクラシックの曲だけがのんびり流れた純喫茶も好きだけど、こういう、いわゆる「洒落てるカフェ」に分類される店も好きだ。きらきらして、みんな生き生きとしている。意気揚々と飲み物や食べ物に携帯をかざし、写真に撮りたい気持ちもよくわかる。お洒落できらめいた気持ちをどこでもいいから残していいから残しておきたい、という気持ち。今も店員さんが運んできてくれたパフェがテーブルに置かれ、僕の心はうきうきしていた。「スペシャルパフェ」という名のそれは、上から苺、バニラアイス、チョコアイス、チョコソース、クッキー。その下にはコーヒーゼリーとクリーム、更に下にはコーンフレーク、一番下には追い打ちでもかけるかのように再びクリームとチョコクリームが敷き詰められている。


「この、なんというか、『好きな甘いもの全部詰め込みましたんで。へへ、夢ぜんぶ詰め込んだんで』っていう意気込みを感じる」

「あなたの表現は、ときどき難しいです」

「緻密すぎて?」

「ふわっとしすぎて」

「全部ごっちゃになった甘い匂いも、背徳感を感じる」

「……なるほど」


 おそらくわかっていない「なるほど」だ。僕と天使は全てをわかりあえるわけではない。別の生き物なのだから仕方がない。だからこそ、僕はこの天使を美しいと思うのかもしれない。


「でもそういえば、僕パフェ食べるの初めてかも」

「そうなんですか」

「なかなかパフェを頼むタイミングって難しくない?」

「……結構喫茶店に行って本読まれてませんでしたか?」

「本を読みながらパフェを食べるのは難しい」

「それは確かに」

「よし」


 僕は鼻で息を吐き、意気揚々とスプーンを掴む。


「よし?」

「眺めるのは十分に堪能したから、ついに実食」

「『実食』って言葉、ちょっと格好良いですよね」

「わかる」


 じっしょく、とこぶしを利かせて言うと、天使はくすくすと笑った。それが嬉しくて僕も頬が緩む。隣のテーブルにいた女子高生ふたり組がこちらをちらりと見た気がするけれど、あまり気にしないでおく。

 いざアイスにスプーンを差し入れる。それだけで今まで混ざっていた甘い匂いの中、アイスの存在が強く僕の鼻孔をくすぐった。そっと口に入れると、あっというまに舌へ溶けていく。甘やかなバニラが口いっぱいに広がる。


「おいしい」

「よかった」


 ほっと天使が胸を撫で下ろす。今度はチョコアイスを一口食べながら、天使に尋ねてみた。


「君はどの甘いものが好き? 見た目も含めて」

「……クリームソーダ、でしょうか」

「ああ、いいね。あれも素晴らしいね。人工的な緑色がしゅわしゅわしてるの、夢心地がするし、罪深い感覚がする。アイスとさくらんぼが載っていると、なお良い」


 隣の女子高生ふたりもウンウンと頷いている。なんだか嬉しい。

 続けて苺、クッキーをひとつずつ順番に口に運んでいく。色んな甘さが口の中で混ざり合っていく。バニラアイスとチョコアイスをかきわけで、コーヒーゼリーとクリームを引きずり出し、ぱくんと口に入れる。咀嚼すると、ぷるぷるの苦さととろっとした甘さがごちゃごちゃになる。ごくんの飲み込む。


「……大変だ」

「どうしたんですか」

「もうお腹いっぱい」

「ええ……」


 全部ひとくち食べただけじゃないですか。というか、コーンフレークは辿りついてすらいないじゃないですか。まっとうな正論に耳が痛くなるものの、胃はもう「甘いものは満足しました」と悲鳴を上げている。かと言って九割を残して会計するのはやはり忍びない。

 そこで僕は、こちらを気にしている隣の女子高生ふたりを見た。一人がぎょっとして、一人はきょとんとする。ぎょっとした子は真面目そうな子で、きょとんとした子は明るそうな子だ。


「あの、食べかけなんですけど、食べたかったり」


「します」と喰い気味で言ったのは明るそうな子の方だ。「ちょっと」と真面目そうな子は窘めるが、明るそうな子も引かない。「でも残すのもったいないじゃん」「でも衛生面が」「でも一口ずつ食べただけじゃん」「ずっと見てたのバレるって」それはもうバレているからいいのだけれど。討論の結果、ふたりとも一緒に食べてくれることになった。


「君たちは仲が良いね」

「はい」

「そうでもないです」


 真面目そうな子は素直じゃないらしい。でも、頬はちょっと赤いから、もしかすると目の前の天使と似ているところがあるかもしれない。


「いいんですか、あげちゃって」


 ぽつりと天使が僕に尋ねる。パフェが心残りだったのではないか、と言いたいのだろう。申し訳ないけれど心残りはパフェだけではないし、一口ずつ食べられただけで本当に満足なのだ。それは、きっと。


「君が食べるのを見てくれていたし、君と甘いものの話をできたし、それで十分」


 小声で天使だけに聞こえるように言うと、納得いかないと言わんばかりに天使は小首を傾げる。可愛い。

 そんなやりとりをしている内に、女子高生ふたりはスペシャルパフェを平らげてしまった。明るい方がアコちゃん、真面目そうな方がチナミちゃんという名前らしい。素敵な名前だね、と言ったら二人とも小っ恥ずかしそうに頭をかいた。天使にじろりと睨まれた気がするけれど、これぐらいは許してほしい。世界で一番素敵なのは天使の君であることに変わりはないのだ。


***


「他にやりたいことはありませんか」

「んんん」


 朝目覚めてリビングに行った途端、「おはよう」もなしに尋ねられる。日が経つごとに天使は急かすように「何かやりたいこと」を聞いてくれる。それが天使なりの優しさなのだろう。ただ僕は低血圧なもので、朝はめっぽう弱い。今も目が半分くらいしか空いていないのだ。


「……おはよう」

「あ、おはようございます」


 どうやらうっかり忘れていたらしい。うっかりさんなところも可愛らしいものだ。

 白米、納豆、焼き鮭を食べていると、眠気が少しずつ退いていく。この三つは朝の僕の必需品だ。これさえ食べれば元気が出る。

 僕は次のやりたいことを考え始めた。やりたいこと、というより、やり残していることを考えるべきかもしれない。もうすぐ僕は死んでしまうらしいから。例えば買った本をまだ読み終えていないとか……いや、本は買ったその日に読み終えてしまう。甘いものは十分に食べたし、辛いものはそれほど好きじゃない。他にやり残していること。


「あ」

「思いつきましたか」


 天使がぱっと顔を輝かせる。


「ゲームだ」

「ゲームですか」


 天使がしゅんと顔を暗くする。


「まだクリアしてないゲームがあったんだ。もう十年くらい放置している」

「なるほど……」


 天使はゲームがあまり好きじゃないらしい。お構いなく押し入れからゲーム機を引っ張り出して、ケーブルをテレビに繋げていく。ゲーム機やテレビにケーブルをぎゅっと入れる感触が好きなんだよね、と言うと、天使はまったく反応してくれなかった。


「二人プレイしたいな」

「いやです無理です」

「助言だけでも」

「お邪魔になってしまう……」


 両手で顔を覆い始めてしまった。「せっかくなら二人で楽しみたいのに」僕もしゅんとして見せると、天使はぐぬぬと声を詰まらせた。テレビの前に座った僕の隣に、天使がちょこんと座る。可愛らしい。


「私は見るだけにします。それなら楽しいです」

「そうかなあ」


 ゲームはやるから楽しいと思うのだけれど、天使はそうじゃないらしい。まあ、天使が楽しいと思ってくれるならそれだけでいいものだ。

 早速電源を入れてプレイを始める。十年のブランクはやはり大きく、マップに迷い、どんな敵にもあっさり倒される、同じキャラクターに何度も話しかけて同じ台詞を読む、という行為を延々と繰り返していた。やっと進み始めたのは電源を付けてかた二時間後ぐらいで、その間、一度も天使と話さなかったことに気がついた。慌てて僕は天使に謝る。


「ごめん、つい。つまらないよね」

「いいえ」


 天使がゆっくりと首を横に振る。その顔はつまらなさそうにも、怒っているようにも見えなかった。とても優しい、天使の笑顔だ。


「私は、ゲームは好きではありませんが」


 少しだけ肩と肩が近づく。触れそうで触れない距離。


「そういえば、あなたが夢中でゲームするのを見るのは好きです」


 抱きしめたいな、と思ったけど、そうすると、せき止めている何かが崩れてしまいそうだった。今はこの優しい声だけを、大事に大事に受け止めたかった。

 ブッブー、とテレビから音が流れる。いつのまにか敵にやられていたらしい。「コンティニューしますか」と尋ねられ、「コンティニューします」と口で答えると、くすくす天使が笑う。


「口で言っても意味ないのに」

「そうでした」


 コントローラーを動かし、「コンティニュー」を選択する。人生はこうはいかない。僕が死んでも、コンティニューは選べない。たとえ天使だろうと選べない。そのことを今まで「嫌だ」とか「悔しい」とか「悲しい」とか、考えたことはないはずなのに。

 今は、少しだけ「嫌だなあ」と思ってしまった。そのことは、天使に内緒だ。


***


 ゲームは一ヵ月かけてクリアできた。毎日明け暮れていたわけではなく、週に一回の頻度で進めていたら、なんとかエンドロールまで辿り着けたのだ。あのときばかりは天使とハイタッチを交わしたものだ。


「今日はどうしましょうか」


 最近、天使の言い方が少しずつ変わってきたのを僕は知っている。「他に何かやりたいことはありませんか」から、「今日は何かやりたいことありますか」に変わった。それから「今日はどうしましょうか」に変わった。その理由を僕は知っている。僕の身体のことだ。少しずつ気怠い気持ちが大きくなっていくのがわかっていた。大きくなる、というのは語弊があるかもしれない。積み重なっていくという感じだ。まるで雪のように遅く、ゆっくり、しんしんと。だけど何故か溶けることはない。

 今日はですね、と、僕はその気怠さを出さないように努めて明るい声を出す。


「デエトに行きたいです」

「デ」


 天使が言葉に詰まった。


「デエト、ですか」

「はい。デエトです」

「何故『エ』を強調して言うんですか」

「その方がロマンティックな気がする」


 意味がわかりません、と天使は言わなかった。


「デエトに行きたいんだ、君と」


 天使の赤い頬が好きだ。僕のことを好きでいてくれるんだなと感じられる。それだけで、僕はとびきりに嬉しい。

 外に出ると、天気は文句ひとつないほど快晴だった。雲ひとつない真っ青な空はあまりに洗練されすぎていて、ちょっと怖い感じがする。そう言うと、天使はいまひとつ同意できないようで首を傾げた。


「私は好きです、雲ひとつない空」

「そうなんだ」

「あなたと初めて出会った日も、こんな天気でした」

 きょとんと僕は目を瞬かせる。そうだったけ? 素直に尋ねると、じろりと拗ねたように睨まれてしまう。

「覚えていないんですか」

「だって君のことばかり見ていたから」


 天使は何も言い返さなかった。正確に言うと、少しの沈黙のあと、「あなたは本当に」とだけ呟いて、それきり言葉が続くことはなかった。

 それからは何でもない話をしながら、近くの公園までのんびり歩いた。これもれっきとしたデエトだ。言ってしまえば、一緒にパフェを食べに行ったことだって、ゲームをしたことだって、僕にしてみればデエトなのだ。天使が、君が、一緒にいてくれるだけで。

 公園に着くと、ベンチに座ってお弁当を食べた。おかか入りのおにぎりを頬張っていると、傍にとことこと少年がひとりやってきた。


「こんにちは」

「こんにちは」


 その少年は、たびたび一緒に遊んでいる子だった。隣の家に住んでいる夫婦の子どもで、家族ぐるみで仲良くしてもらっている。そういえば、家にあるゲーム機やソフトはこの少年にあげてもいいかもしれない。以前ふたりで遊んだときも随分楽しそうにプレイしてくれた。僕よりも断然上手だし。


「一緒に遊ぶ? ボールならあるよ」


 少年がサッカーボールを見せてくれるが、僕はごめんねと頭を下げる。


「今日は一緒に遊べないんだ」

「どうして?」

「デエト中だから」


 ぱちくりと少年は瞬きをして僕を見た。それから隣にいる天使の方を見て、また僕の方を見る。


「ラブラブだね」

「うん、ラブラブなんだ」

「それなら仕方がない」


 そう言って、少年はやや寂しそうに俯いたが、それ以上何も言うことはなく他の子どもたちの輪に戻っていった。

 もしかしたら。もしかしたら、少年と話すのはこれで最後かもしれない。そんなことを考えて、僕は、おにぎりをめいいっぱい口に入れた。もぐもぐと噛めば、白米とおかかが僕の身体に浸透していく。喉を詰まらせないように、何度も何度も噛む。さすがに、ここでおにぎりを詰まらせて死ぬというのは、格好が悪すぎる。そんな姿は天使に見せたくない。


「ねえ」


 きちんと全て飲み込んでから、天使に手を伸ばす。その手を握ると、おそるおそる握り返してくれる。


「これからも、たくさんデエトをしよう。僕が死ぬまで、いろんなところに行って、いろんな話をしよう」


 はい、と天使は頷いた。確かに頷いてくれた。

 その声を、初雪のように震わせながら。


***


 いつだって、出来事というのは突然だ。君と出会ったのも。君を目にしたのも。君に恋に落ちたのも。

 ただ、ぐらりと視界が回転したのが家の中でよかったと思う。デエト中に倒れるなんてことがあれば、周りにいる人に迷惑がかかってしまう。どちらにせよ天使に迷惑がかかってしまうことは本当に申し訳ないけれど、でも、最後に迷惑をかけるのは天使がいい、という僕のわがままを、彼女は受け入れてくれた。

 天使は僕を一生懸命運び、畳の寝室に布団を引いて寝かせてくれた。天使が僕の名前を呼んでくれている。僕は「はい」と答えるときもあれば、答えられないときもある。それが酷く申し訳ない。彼女の声を、ひとつたりとも取りこぼしたくはないというのに。


「あっというまだったなあ」


 気づけば僕はそんなことを呟いている。本当に、あっというまだったのだ。君と出会ってから毎日が楽しくて、僕が死ぬとわかってからも、ずっとずっと楽しかった。本当なんだ。悲しいときも辛いときも苦しいときも、無かったと言えば嘘になってしまうけれど、僕は本当に楽しかったんだ。

 僕は、天使の名前を呼んだ。その手を握った。彼女の手はとても暖かくて、きっと僕の手は冷たくて、彼女の手を冷やすのは嫌だったけれど、それでも離すことはできない。

「本当に」と彼女は呟く。「本当に、あっというまでした」彼女の声を聞きながら、僕の瞼は着実に重たくなっている。必死に堪えて、彼女の手や、瞳や、鼻筋や、髪や、唇を見つめる。

 ねえ僕の天使。僕の愛しい人。


「はい」


 毎日ご飯を作ってくれてありがとう。君の料理は、お弁当は、いつだって美味しかった。だからご飯ひとつぶも残さず全部食べられた。僕がこんな風になってから、家事も何も手伝えなくてごめんね。全部任せてしまってごめんね。とても助かっていたよ。助けてもらってばかりで、ごめんね、本当にありがとう。


「はい」


 とても楽しかったね。パフェを食べたのも、ゲームをしたのも、デエトをしたのも。


「はい」


 でもね、その行為といつか、行為自身が楽しかったというのは語弊がある。僕は、僕はね、君がいるだけで楽しかったんだ。君が隣に、目の前に、そばにいてくれるだけで楽しかったんだ。嬉しかったんだ。幸せだったんだ。


「はい」


 初めて出会ったのは二十六歳のときだったね。お見合い写真を見たときから僕は君と結婚したいなと思ってた。一目惚れだった。今まで出会った誰よりも美しいと思った。ちゃんと生で会った君は写真よりもたいそう綺麗で、あろうことか、君の内面や美しさや気品はそれ以上の美しさで、とびきり優しくて、『ああもうこれは結婚しないと僕は幸せになれない』と思った。君に見合うような優しさと愛を一生抱えて生きていきたいと思ったんだ。お見合い初日にそう言ったら、君は頭の先から首元まで肌を真っ赤にしたよね。あれはもう本当に可愛かった。


「あなたは、昔から、私を過剰評価していました」


 過剰なものか。僕はいつだって正直に気持ちを君に伝えていた。「恥ずかしい」と前置きをしてから「私も好きですよ」と答えてくれる君が、素敵じゃないわけあるものか。


「素敵じゃないです」


 そんなことを言わないでくれ。悲しい顔をしないでおくれ。泣かないでおくれ。僕は君の涙に弱いんだ。結婚式のときのような嬉し涙はもちろん、君のご両親から亡くなったときなんか、夫として君を支えるべきだったのに、僕も一緒に泣いてしまった。


「それが嬉しかった。あなたはいつも私に寄り添ってくれた。私のことを自分のことのように思ってくれた。あなたと一緒にいるだけで、何もかもが楽しかった。何もかもを素敵にしてくれた。あなたの方が、あなたこそが、世界で一番素敵な人なんです」


 泣かないで、泣かないで。どうか笑って。また僕も泣いてしまう。あのときもそうだ。僕が癌だとわかったとき。もう長くはないらしいと、医者から聞かされたとき。帰り道、君はずっと僕のために泣いてくれた。「でも、もう、七十六歳ですから。なんというか、寿命と思えば」と気遣ったつもりなのであろう医者の発言に心底怒ってくれた。そんな君が愛おしくて、悲しくて、申し訳なくて、僕もぼろぼろと泣いてしまった。ああ僕は君と五十年も一緒にいたのかって、五十年しか一緒にいられないのかって思うと、すごく幸せで、すごく寂しくなってしまった。なんと情けない夫だろう。だから最後は、最後くらいは、笑って、大事な僕の奥さんの、君の心を慰めたいと決めていたのに。

 だからどうか泣かないで。もう心残りはないよ。未練もないよ。だって君がたくさん付き合ってくれた。君の時間を全部くれた。これ以上の贅沢を望めるものか。君は、やっと僕のマイペースから解放されるとすっきり笑ってくれていいんだ。


「そんなの無理です」


 どうして。


「だって、私は、あなたに死んでほしくない。もっと一緒にいたい。一緒にやりたいことも、もっとたくさんあるんです。ねえ、本当は、本当はね、心残りが、未練があるのは私なんですよ。あなたがもうすぐ死んでしまうとわかって、一番悲しかったのは辛かったのは私なんですよ。あなたがいくら泣こうと、それ以上に私は泣いていたんですよ。ねえ、聞いてますか。聞こえていますか」


 うん、聞こえているよ。


「楽しかったじゃないですか。パフェを食べるのもゲームをしたのもデエトしたのも。またやりたいね、行きたいねって言ってくれたじゃないですか。それなのに、どうして私を置いていくんですか」


 僕の愛しい人。僕の天使。


「やめてください、そんな小っ恥ずかしい呼び方」


 僕のことが好き?


「好きです」


 僕も好きだよ。


「知ってます」


 大好きだったんだ。


「知ってますよ」


 だから、僕は、君に最後まで生きていてほしいんだ。勝手なのはわかっていても、頑張ってほしいんだ。頑張って、できれば、もし君がよければ、僕のことを覚えて生きてほしいんだ。


「ずるい、あなたが先に死ぬからって」


 そうだね。僕は最後までマイペースだ。解放してあげられると思っているのに、最後の最後まで僕を傍においてほしいと願う。


「最初からずっとそう。あなたの方が先に何でも素直に言ってしまう」


 うん、ごめん。


「忘れるわけないじゃないですか。あなたと過ごしたこと家を、最後まで誰にも渡すもんですか。頑張りますとも。一階から三階まで綺麗にしますし、三食きっちり食べますし、パフェだってまた食べに行きますし、ゲームもしますし、旅行だってします。あなたの部屋にある本を全部読み直してやりますとも」


 楽しみだね。


「ええ、楽しみですとも」


 そこに僕がいないのが残念だ。


「ええ、本当に」


 今までありがとう。


「こちらこそ」


 泣かないで、僕の天使。


「泣いていません」


 もう大丈夫?


「大丈夫じゃないけど、大丈夫です」


 強い人だ。やさしくて、すてきなひとだ、きみは。


「あなたは素直で、ずるくて、素敵な人です」


 ねえ、今、いま、すごくねむたい。


「はい」


 ねえ。


「はい」


 ぼくのこえ、まだきこえる?


「聞こえていますよ」


 だいすきだよ。


「私も、大好きですよ」


 うれしいなあ。


「私も、嬉しいです」


 ああ。

 いうのが、いやだなあ。


「おやすみ」


―――――。


「おやすみなさい、私の天使」


 うん。

 おやすみ。

 ぼくのてんし。

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