第33話 バラ園 別れ

如月の手には五百万の小切手が渡された。


(手切れ金……?)


(そうだ。まだまだバラ園を作るのに金が必要だろう。

僕が最後に冬哉にしてやれる事はこれくらいだ)


(これで終わろうって言うんだ)


如月は乾いた笑い声を上げる。ベッドに座る新田はもういつものように抱きしめてはくれなかった。

長い長い沈黙が二人の間に落ちる。暮れ行く空が強烈なオレンジの色彩を放って、厚い雲に隠れた夕陽は今まさに落ちようとしていた。


(すまない、分かってくれ。…………、今日が最後だ)


涙がこぼれた。

新田は抱き寄せてはくれない。

隣に座っているのは一番愛おしい他人に変わってしまった。


(どうか…………、生きて下さい)


絞り出す如月の声は震えていた。


(病気なんかに負けないで…………)


(ああ、必ず治す)


(約束だよ、新田。俺はバラをあの土地一杯に育てて、新田に見て貰えるようにする。

すぐに百万本くらいにして、すぐにバラばっかりの写真集出すから、それまで絶対に生きていて。

必ず、生きていて…………)


(ああ、約束する)


明滅する街頭の灯がわずかに部屋に入り込み壁の一部を照らしていた。暗闇でお互いの顔は見えず、その輪郭だけしかわからなかった。

如月は見慣れた新田の陰になってしまった姿を見つめながら、最後の気力を振り絞るように呟く。


(もし…………、新田が死んだら…………、俺も後を追うからね)


咄嗟に新田が息を飲む声がはっきりと聞こえた。


(馬鹿な事を…………)


きつく叱る声。今まで聞いたことも無い低い唸り声。怒られるのは分かっていた。でも………、


(死んでからなら一緒にいられると思うから。こんな風に会わなくてもいいし……。

ずっとずっと一緒だ。朝が来ても、ずっと………)


はははははと新田が笑いながら頭を抱え俯く。彼も苦悶していた。

こんな事態になるとは予想もしていなかった。ずっとこの関係のまま続けられるものなら続けたかった。


(会えなくなっても冬哉とは強い絆で結ばれている、僕はそう思っている)


(俺だってそう思ってる。一生に一度、会えるかどうかわからない人に会ったと思ってる。どんなに探したって見つからない暗闇で…………、行き交う人の群れに混じって、通りすがりに流れて行ってしまいそうだったのに……、多勢の中からあなたを見つけた。俺の性癖に会う人に会えるなんて思ってなかった)


(僕もだ。あの一瞬で僕は違う自分に気がついてしまった)


屈み込む新田の背はいつまでも沈みこんだままだった。

思わず如月は新田の背をなぞる。広い広いがっしりした大きな背中。とても暖かかった。

もうこの人とは寝ることも、キスすることも、背中でさえ触れる事が出来ないんだと思うと、自分の中の心臓から血液でさえ全て凍りついていくような寒さに襲われていく。

吐く息さえ冷たくなり…、

動く事も出来なくなり……、

死んでしまえたら……新田と一緒なら…………、


新田の背をさする自分の指先に、ふと何か白いものが見えた気がした。


(バラ?)


見たと思ったものは幻だった。どこにもそんなものはなかった。記憶の中にあるあの小さな白いバラ。誰かの姿。


(バラを…、くれない?)


新田の背にそう言いながら唇を当てていた。


(手切れ金の代わりにバラを…、あの画家の花屋で)


(バラを? …………、重い、冬哉)


新田は跳ね起きると同時に二人は素直に見つめ合っていた。新田はあまりにも唐突な如月のアイデアに当惑していた。


「そう、バラだ!」


如月は自分の考えに興奮して話し出した。


(手切れ金なんか要らない。このお金でバラを買ってよ。そう、毎日、新田が買って俺が受け取りに行く。

会えなくなってもこのバラで俺達はずっと繋がり続けるんだよ)


(本当に冬哉はバラが好きだな)


新田が笑う。


(別れても繋がってたい。新田と……)


(繋がってたら死にたいなんて言わないか?

僕が死んで…………、一人になってしまったとしても、寂しさでどんなに泣いていたとしても、何があっても、冬哉は生きなきゃだめなんだよ。後を追うなんて馬鹿な事は言わないか?

それを約束するなら毎日でもきみにバラを贈ろう)


如月はうんうんと頷く。嬉しそうだった。


(冬哉にバラを贈るよ。君の願いを聞いてやる。僕の願いもこのバラに込めるよ。

生きろ……。

自分で死ぬなんて馬鹿な真似は絶対にするな。

生きて、生きて、百万本のバラの花を見せてくれ。)


(うん、わかった。だから、新田も約束して。

百万本のバラの花束を見るまでは死なないって、必ず、必ず……生きて……)


新田の腕が堪りかねたかのように如月を荒々しく抱き寄せる。最後のはずが慌ただしく服を脱ぎすて重なり合う。別れるなんて出来そうにないほどの悦楽が二人を満たしていった。




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