第35話 戸辻さんの想い 2

「お花を届けて貰えないかしら?」


戸辻夫人からの電話に出たのは母の百合だった。公也くんの容態が悪いのは昨日話してあった。手短に励ましの言葉をかけるとすぐ電話を芳樹に代わった。


「花を………、病室にですか。………、はい、じゃあ、今すぐお持ちします」


若店長は電話を切るなり店内に向かって声を張り上げていた。


「病院に行くよ。ありったけの花を持って!」


幸い今朝は仕入れの日で早朝に花き市場で仕入れてきたばかりの真新しい花々が山のように店内にはあった。その花々が、我も我もと病院へ行きたがっているようにも見えてくる。


「公也くんが見てくれるんだ、君たちを。そして、香りを楽しんでくれる。花を感じてくれるんだ。これが………、これが、最後だから………」


若店長はフローリストナイフを取り出し下葉の処理、水上げ、そして、出来上がりのイメージを考え花達をラフィア紐で括り上げていく。

今や画家の花屋の大半を占めるようになった数種類ものバラの花も次々と束ねていく。


(あの二人のバラがこんな時に役に立つとはな……)


如月にやる分のバラを残して店内の花がごっそり大移動を開始した。



病室の白い壁に一つまた一つと色が足されていく。

ハイブリッド・ティーの草分け的存在のラ・フランスの鮮明なピンク。同じくグラミス・キャスルの淡い白。香り高いプレジデント・セーゼのピンク。どれも大輪の舞うような豪華な花びらを付けてくれている。

他にもスイトピーやラナンキュラスの赤、ピンク、ガーベラの橙、黄色、赤。デルフィニウムの澄んだ青。スカビオサやクレマチスの紫紺。カスミ草の白やフェンネルの緑をアクセントに加えていく。


「公也の最後の日の為に」


そう思いたった戸辻夫人の発案も通常なら病院側は許可しなかっただろう。しかし、あの画家の花屋なら………、そう言って快諾された。


「俺たち医者に出来る事はもう何もない。でも、若店長なら、公也くんの生きる重みよりも生まれてきた重みを表現してくれるんじゃないかな、花で……」


そう言って肩を落としていた医師や看護士達が次々と公也くんの病室を訪れてくる。


「きれーい、本当に綺麗」


「若店長、俺、こんな綺麗な病室見た事ないわー」


ここが医療現場の病室であるとはとても思えない豹変ぶりに誰もが感嘆の声を挙げる。

病室は花々で溢れかえると共に濃い蜜の香りがはっきりと感じられるほどに漂っていた。

バラの濃厚なダマスクと言われる香りが在るかと思えば、次の瞬間に鼻腔をくすぐるのは爽やかなティーの香りを感じることが出来る。


「甘い香り……、これは何?、……バナナ、レモン?」


看護士達が聞いてくる。


「バラにはフルーツの香りを持つものも在るんですよ」


病室にいて公也くんを見守る事に決めた若店長が答える。


「うーん、いい香り……、お腹空くわー、ミックスジュース飲みたくなる——」


「バラには他にも香辛料のクローブに似た香りを持つものや、ブルーローズっていう青系の花だけが持つブルーの香りとかも在るんですけど、それは揃える事が出来なくて……」


「へぇー、色々なのが在るんだな——。

さすが花のプロだな。何でも知ってるなぁ」


医師の一人が羨望の眼差しで見てくる。


「餅は餅屋、………だな」


そう言って若店長の肩を叩くと医師は公也くんに最後の挨拶をしていく。

花を運んでいる間中、そして今、医師や看護士の面々が職業柄なのだろう、皆が皆公也くんに声をかけていくのが若店長にはとても印象的だった。

どの人もこの花束に埋もれる公也くんを祝福していた。旅立ちを目前に控えて彼の生まれた事を祝福していた。

世界中どこを探してもこれ程の花々に埋もれて最後を迎えられる人間はおそらく公也くんただ一人だったろう………。

そう思いたかった。



学校が終わって四時頃に紫が画家の花屋の表玄関から入って行くと、丸椅子に百合が力なく座っていた。


「おはよう、紫ちゃん。もう今日はバイトはいいわよ。そのまま病院の方へ行ってやって」


「えっ!?」


一瞬、新田裕介に何事かあったのかと肝が冷える。

百合は今朝からの事をかいつまんで説明した。


「公也くんが……」


とにかく新田には何もなくてほっと胸を撫で下ろす。


「明日には、さよならする事になるんだそうよ。だから、今のうちに親しい方に会いに来て欲しいって……」


その言葉に紫は息を飲む。


「紫ちゃん、一人でも行けるかしら? 今日は芳樹も行ってるから、行ってあげて……」


「はい」



紫はカバンだけ置きに雨森家の事務部屋に行って戻ろうとしていた。渡り廊下の大きな掃き出し窓からは中庭が見えていた。

所々にはポーチライトが足元の照明として灯り、薄暗くなり始めた『きぼう』の庭をぼんやりと浮かび上がらせている。

紫は自分用の和柄のサンダルを履くと庭へ降りる。

初冬を迎え剪定をされた『きぼう』のバラの細い枝が、頼り無げに壁面に這うようにもたれかかっている姿が見える。

冬場には庭はとても寂しい場所に変わってしまう。

その何もない庭の、枯れたようにも見える『きぼう』の枝に紫は手を触れていく。


やけに出て来るのが遅い———、そう思い百合が迎えに家の方へ行くと、庭の中にいる紫に気が付いた。


「あら、まだあんな所に……」


『きぼう』の枝に触れながらゆっくり歩いて行く少女はまだ十八歳のあどけなさを残していた。最近の女の子には珍しくノーメイクだが、何もしていなくても妖精のように美しい少女だと改めて思う。


(芳樹が夢中になるのもわかるわ。本当に綺麗な子ね)


紫が百合を見てぱっ笑顔を見せる。その形のいい唇が妖しいまでに紅く美しい。


「どうしたの、紫ちゃん。早く病院に行ってあげて……」


「はい、お母様」


とたとたと走って紫は縁側へと上がった。和柄のサンダルを縁の下の靴箱に入れながら紫は言った。


「よっちゃんが一番大切な花を忘れて行ったから届けに行って来ます」


紫はそれだけ言うと、行ってきますと言って病院へ走って行った。


百合がユーレイでも見たかのように顔を強張らせていたとも知らずに。


「あの子、よっちゃん……って……」


よっちゃん——、

芳樹をそう呼んだのは遠い昔に芳樹を大切にしてくれた祖父と父親だった。




病院の入り口から入院病棟へ向かう通路を見慣れた人が歩いて行くのをカナエは見つけた。

何度か花の籠を持っているところを見て、あんまり綺麗な人だから妖精さんかと思った花屋のお姉さんだった。

カナエが見ていると紫の歩いた後からパラパラと花びらが舞い落ちている。


(すご〜い。なんで、なんでー!)


カナエは嬉しくなって急いで紫の後を追った。


「お花屋さーん」


エレベーターに乗り込む紫がカナエを見つけて手を振ってきた。新田の妻のユイが乗るまで扉を開けて待つ。カナエは紫をジロジロと見上げていた。


「どうしたのかな?」


紫があんまりジロジロ見てくるカナエに、もしかして如月さんの事で何か気付かれた?、とかビクビクしているとカナエが花びらを見せてきた。


「落とし物だよ、お姉さんから落ちて来たんだよ」


そう言ってカナエが手のひらに載せていたのは見覚えのあるあの『きぼう』の花冠だった。

それを覗き込んでいた紫とカナエの目の前で、花冠は雪が溶けるようにすうっと消えてしまった。


「消えちゃった……?」


二人は同時にあー、と残念な悲鳴をあげる。


「どうしたんですか? 何かあったんですか?」


新田ユイが不思議そうにかがんでいる二人を見下ろしていた。


「白いお花をお姉さんが落としたんだけど……?」


そうカナエが言ってる間にもエレベーターが止まって紫は、「ごめんね」そう言って降りて行く。カナエがとても残念そうな顔をして見送る。が、紫が出て行く時にまた落ちたのだろう、カナエの目の前にふわりふわりとあの『きぼう』のバラが一つ、二つ、三つ……


「うわわわ……」


エレベーターの中で妙な踊りを始めたカナエにユイが行儀良くしなさい、と叱ってくる。が、カナエは手のひらに受け留めた花冠にご満悦だった。


(消えないで……)


カナエは五階に着くなり猛ダッシュで父親の新田裕介の所へ駆け着けた。


「パパー、見てっ!」


その時、夕食をとっていた新田がびっくりしながら娘の手から零れ落ちたものを受け取る。


「これは……」


それが何かすぐわかった。


「あー……」


新田には見慣れた懐かしいあの白いバラは彼の手のひらの中ですうっと消えてしまった。

新田の脳裏に笑っている如月の顔が浮かぶ。


「お花屋さんのお姉さんから落ちてきたの。不思議でしょう? 消えちゃっうんだよ」


(紫ちゃんから?)


不思議、かと言われるとそうでもないな、と新田は思う。


(あの若店長が入れ込むような子だ。何かあってもおかしくはないな、そうか、そうか……、あの白いバラに魅入られた子なんだ、紫ちゃんは……)


新田は手のひらを見つめながら久しぶりに声を上げて笑った。何に笑えるというわけではない。何か心が暖かくなって嬉しくなっていた。


「パパー?」


「カナエはこれを捕まえてパパに持って来てくれたのかい?」


「うん、きっと妖精さんの秘密の花だからすっごく魔法が詰まってると思うの。パパに持ってきたらすぐ良くなると思ったから、カナエ一生懸命走って持ってきたの。

パパ、早く良くなってね」


そう言って愛くるしい笑顔を見せる我が子。大切な存在。かけがえの無い、唯一無二の存在。


「カナエ、ありがとう、パパ頑張るよ」


抱き寄せる小さな体のカナエが愛おしい。新田は目頭が熱くなってくるのと同時にカナエに心の中で謝っていた。

自分の中にある如月への想いはどうあっても消せそうに無いのを入院してからますますはっきりと自覚していた。


(愛しているのは誰か?)


そう問われたら答えは……。


新田は唇を噛みながらカナエの小さな肩を抱きしめ続けていた。


☆☆☆☆☆☆☆☆


「きれい、本当にきれい………」


紫は公也くんの病室に入るなりそう呟いた。戸辻夫妻が揃っていた。二人と目が合うときちんと一礼をして挨拶をする。


「公也くんに会いに来ました」


と、紫はとびきりの笑顔を返す。一緒にいた若店長が「おやっ?」と思うほどに柔和な微笑みを浮かべる。

入ってくる時も何か白いものをこぼしてるな、とは思って見ていたが、よく見ると……、

紫がじっと公也くんの顔を覗き込むように見つめていた。

そして、若店長は目を見張った。

紫は公也くんの額に軽くキスをする。

戸辻夫妻も驚いていた。が、更に若店長は口を開けて止まってしまう。


「きぼうのバラが……」


まるで紫の体から流れ出すような勢いで公也くんの回りにたゆたい浮かんでいく。


「まあ、紫ちゃんたら……、可愛い事……、ありがとう、紫ちゃん」


そう言っている戸辻夫人には、今や溢れんばかりに公也くんを包んでいるこの白いバラの花冠の花束は見えていないようだった。


「お部屋の中とてもいい香りがしますね。公也くんも気付いてくれるといいですね」


紫が妖しいまでに妖艶に微笑む。


「ええ、きっともう、いい香りがすると思ってるはずよ。香りを今は楽しんでるはず………」


戸辻夫人はそう言ってわずかに微笑む。連日公也くんに付きっ切りで疲れているようだった。


その間にも紫のその体からは若店長が見ていて楽しいくらいに白いバラがポロポロ、ポロポロと飛び出てきていた。


やがて公也くんを取り囲んでいた『きぼう』の白いバラは泡が消えるようにすうっとなくなってしまった。


「まじ、すげぇわ………」


若店長は大満足で他の人には全く見えていないこの状況を楽しんで見ていた。


「君には見えているのかい、紫ちゃん」


紫の耳元でコソッと若店長が話しかける。紫は首を横に振った。


「はっきりと見えてません。なんとなく白い『きぼう』のバラがあるなーって感じで……、公也くんの為に持って行ってくれ、そう言われて………」


「えっ? 誰に!」


「誰?………うーん、来る前に『きぼう』の庭に下りたのは覚えているんですけど………、気がついたら病院に着いてて……。誰にとかは………、よく、わからない……です」


ニコッと紫は屈託無く笑う。若店長は唖然としているのに紫は当たり前みたいな顔をしている。


若店長には益々楽しい奇妙な話しではある。


(これは……、何か、出たな………)


その何かに最大の感謝を届けたかった。

生き物には精霊が宿るというが、日々バラや花々を相手にしていると時々そういったことに出会うことがある。

紫もそれに出会ってきたらしい。『きぼう』のバラが力を与えてくれたようだ。

紫ちゃんとは初めて会った時といい今といい驚かされる。


「紫ちゃんって………、不思議な子だね」


「私が不思議なんじゃありませんよ。『きぼう』が不思議な力があるんですよ。そうでしょう、店長。」


「目の当たりにするのはこれが初めてだ。

やっぱり紫ちゃんがいてこそだと思える」


紫は頰を緩めながら微笑む。


「少しだけでも店長の手助けが出来て良かったです」


「なんだか………、奇跡が起きそうな気がしてきたよ」


若店長は穏やかににっこりと紫を見つめながら微笑んでいた。



若店長は紫を病院で見送り、如月にバラを頼むね、と仕事を任せる。仕事を任せられる……そんな相手がいるのがこんなにも心強いものかと思えた。




十二月とは思えない青い空と暖かな日差しが射す午後。


喪服を着た人々が弔問に訪れ、いよいよ出棺を向かえようとしていた。

読経が流れる中、公也くんの棺に若店長は用意したバラの花を添えていく。甘い香りが芳しい大輪の白いバラ、アイスバーグと言う品種。

戸辻夫人も素敵な花だと喜ぶ。


「店長さん、この子の人生にたくさんの花束を貰ってありがとう。

最後はあのお部屋一杯の花束を貰って公也もとても喜でいたと思います」


「そう言って貰えると……、救われます。

花屋に出来る事は少ないなとつくづく思っていたので………、公也くんにも結局花しか贈る事しか能が無くて………」


「それ以上をして貰いましたよ、店長さん」


戸辻夫人のご主人が若店長の肩を叩く。


「最後に公也が目を開けて笑ってくれたのは、本当に………部屋一杯の花のおかげだと思っています」


「お医者様もびっくりしてたわよね」


人工呼吸器を外すと途端に公也くんの胸の動きも弱くなって行った。最後の数分かと誰もが思っていた時、大きく深く深く力強く肺を膨らませた公也くんが目を開けた。

居合わせた者はみな唖然と見守っていた。

ほんの数秒だけだったが確かに公也くんは意識を取り戻して、まるでお別れを言いに来たようだった。


ほんの数秒、公也くんのその目は何を見ただろうか?


母その人を見ただろうか。


父その人を見ただろうか。


色彩で溢れかえる花々だったろうか。


そして、満足したように口元に笑みを浮かべるとそのまま静かに旅立って行った。


「良い香りに誘われて……、そんな感じで……、一杯の花束を持って行っちゃったわ……」


公也くんの安らかな顔を見ながら夫人は公也くんの最後を思い返していた。


夫人が握っていた最後のバラを公也くんの顔の横に置きながら呟いた。


「いつも、いつもお店に買いに行かせて貰った花に込めた想いはたった一つでした」


棺の公也くんの上にポタポタと涙の雫が落ちた。


「生きていて……、今日で終わりです」


棺が静かに閉められる。


十二月の青い空に向かって花束をいっぱい抱えた公也くんのあまりにも早い旅立ちだった。



(生きていて……)


若店長は戸辻夫人の言葉が耳に残って離れなかった。


(生きていて……)


若店長は棺を見送りながら自分が途方もない間違いを犯しているんじゃないかと思い始めていた。


新田さんがバラに込めた想いは———、


愛してるでもなく、

さよならでもなく、


「生きていて……か」


たった今死ぬかもしれない自分が愛する人に何を語るだろう? 如月に何を語るだろう? 残される人に何を語るだろう?


新田は想いをバラに代えて何を語っているのだろう?


愛してるでも、

さよならでもなく、


生きろ……


自分がいないくってもしっかり生きろ


新田の想いは

バラに代わり

如月の手で

百万本にして

想いを返す


生きていて………と。


今でも彼らはバラで繋がっている。

そして、それは永遠に枯れないのだ。


若店長は二人の愛の深さに愕然となっていた。



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