Kapitel.5 Schwarz und weiß

#1

「宣告する、貴官は――」


 自分に降り注ぐ声が何を告げているのか、リアセドにはよく聞こえなかった。そこに意味はもう感じられない。

 ただ、あるのは、自分がもう天使でなくなってしまったということだけ。


 牢獄に向かう自分に注がれる視線。

 感じ取る無数の侮蔑、失望……それに、僅かな憐憫。

 もはやどうでもいい。何もかもがどうでもいい。

 彼らと自分は、違うのだ。


「――刑の執行まで、貴様はここに拘留される」


 これまでとは明らかに違う対応。

 その冷たい声と共に、リアセドはそこに閉じこめられた。


 光の少ない、セピア色のタイル張りの牢獄。

 どこかで水滴がしたたり落ちて、むなしい反響を呼び起こす。

 冷たい地面。両手足には枷。どれだけかきむしっても、決してほどけやしない。

 ――最低限の調度品だけがそこにあった。

 彼女はもう、誰からの敬意も受けない立場にいるのだと言うことが、はっきりと分かった。

 ……そこは、煉獄だった。

 死へのカウントダウンは、そこで始まった。



 飢えや病気にならない巧妙な仕掛けが施される中で、無為な日々がすぎていく。


 リアセドは今や、自分の記憶すべてを疑うほどに消耗していた。かろうじて自分を成り立たせているのは、記憶の底にあるイリルの顔――そして、ミカエルへの信奉のみ。

 その二つがあれば、天使ではなくなったとしても、彼女は彼女だった。


「……馬鹿らしい」


 それがあったから、なんだというのだ。自分はもうすぐ、死ぬというのに。

 ――笑おうとした。

 しかし、渇いた喉は、奇妙な音を鳴らしただけだった。



「――やあ。ここでの生活はどうかな」


 ……隣から声が聞こえた。

 自分の左右にも牢があって、それぞれの様子が筒抜けであることに、そこで初めて気づいた。

 声は右側からだった。

 リアセドは僅かに顔を傾けて、そちらを見た。


 そこにいたのは、髪をごく短く切りそろえた若い女性だった。

 むろん、羽が生えていた。元・天使なのは間違いない。

 だが、リアセドよりも遙かに衰弱していた。頬はやせこけて、声は枯れていた。その目の下には、半月のような隈が刻印されている。


「……貴女は」


「第一級天使、ヨルンだよ。貴女とは担当地区が違ったから、あまりお会いすることはなかったけれど……その活躍は聞いている」


「……ああ」


 ――知っている名だった。

 実力者であると耳にしていた。そんな彼女が……ここにいるという事実。


「驚いたかな? そう――私も罪人なんだよ。もう、天使じゃないと言うわけ」


 ……驚いた、というのは本当のことだった。

 だが、釈然としない。


「あなたほどの天使が――どうしてここへ。一体何を……?」


 リアセドは聞いた。自分のことを棚に上げているということには、無自覚だった。


「ははは、知ってどうする?」


「……」


「少なくとも、あなたが考えているような通り一遍の理由ではないよ。私の心は、今もなお凪いでいる」


「では、何故」


「……それに答えるためには、身振り手振りを交えたいところだけど。あいにく、これがそうさせてくれない」


 そう言って彼女は、手足の枷を見せつけた。

 ……『嘆きクラーゲン』。その名を冠する特殊電流が流れている。天使の力を抑止する力。首筋の装置にも使用されている。


「……そうか」


「では、君は。君は、一体どうしてここへ?」


 リアセドは、問われた。

 答える必要があるとは思わなかった。

 だが、もはや守秘義務もなにもない。


 ゆえに、リアセドは語って聞かせた――自分が、いかにしてこの場所にたどり着いたのかを。過不足なく丁寧に、まるで他者について語るかのように。イリルについては、伏せたまま。


 意外なほど楽だった。自分のことをここまで掘り下げても、欠片も動揺がなかった。それは、今自分が完全な諦めの境地に居ることを意味しているわけだが、リアセドにはある種の癒しとさえ言えた。


 そして、語り終わる。

 ……最後は。

 ミカエルへの許しと、彼女への変わらぬ信奉について短い言葉で綴った。それがすべてだった。


「……ふむ」


 彼女は、考え込むようにして聞いていた。

 謎めいた反応。

 しばらくして……ヨルンは、言った。


「では――リアセド。君は」


 次に継げられた言葉は、さらに謎めいていた。


「君は、ミカエルが完全な存在だと……未だに信じているのか」


「……なんだと」


 それはやがて、ふつふつと沸き立つざわめきに変わった。いらだち、と言っても良かった。砦になっているものに、杭を打ち込まれたような気持ち。続きを促そうと思った。


「……何がいいたい、ヨルン」


「そのままの通りさ。――君は、あれの言っていることを、ほんとうの真実だと思っているのか?」


 ――やはり。

 やはり、この者もそうだ。

 イリルと同じ。ミカエルのやり方に疑問を抱いた存在だったということだ。


「ふざけるな。それ以上は聞きたくない」


 リアセドはかぶりをふって、顔を背ける。


「ねえ、リアセド。私は――」


 そこで。

 上階のドアが開き、誰かが降りてくる音がした。

 それから、声が降ってきた。


「――第一級違反者・ヨルン」


 それは。

 箴言だった。帯の光と共に、ヨルンへ突き刺さる。

 彼女はにわかに、打ち据えられたように背筋を伸ばした。それから、顔に生気を取り戻す。光によって照らされる埃の粒をまといながら、彼女は瑞々しさを取り戻していた。


「……ああ」


 彼女はぶるりと身を震わせて、ゆっくりと立ち上がる。

 光の向こう側から、何人かの天使がやってくる。

 リアセドの隣を、開錠する。

 それが、意味すること。


「リアセド――お別れだ」


 ……そういうことだった。

 彼女はこれより、処刑される。


 ――ヨルンは、笑っている。一切の恐怖を見せずに。

 そこには透明な微笑だけがあった。ぞっとするほどに空虚な笑みだった。

 彼女はそこにいて、そこに居なかった。


 ――一歩、二歩進む。武装した天使達のところへ。

 ……リアセドは。

 そこで、衝動的に叫んでいた。


「待て――あなたは一体、なにをしてここに来た!?」


 すると、彼女は振り返って言った。

 死の光の中で。


「ミドロ、ヘルガ、トイディ――みな、死んでいった。真実を知ったから。そして私も、それによって死ぬ」


 その一言だけを残して。

 彼女はもう、リアセドのほうを向かなかった。


 彼女は、連れ去られていった。欠片の抵抗も見せずに。


 十数分後。

 乾いた銃声が複数回、はっきりと聞こえてきた。

 後にはもう、名にも聞こえなかった。

 そこにはリアセドだけが居た。


 だが、最後の言葉が、はっきりと耳に残っていた。


 

 ――『真実』。

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