第13話ようじょ、あらためてワインというものに向き合う
寧子は眠気でうつらうつらとしながら、念仏の様な大学の講義を聞いていた。
初めてのアルバイト、ブランインドティスティング、お高いワイン、そして沙都子と仲良くなれたこと。
一時過ぎに帰宅しても、興奮は全く冷めず、ほとんど眠ることができず今に至る。
(さすがにもう限界ですぅ……)
瞼が落ち始め、意識が緩やかに閉じて行く。
「アンリ四世曰く、よき料理、よきワインがあればこの世は天国」
講師のそんな言葉だけが、寧子の耳に響いた。
全くその通りだと思いつつ、なんで特に親しくない講師が、まるで寧子のことを見透かしたようなセリフを吐いたのか?
寧子は眠りに落ちる直前、自分が【ヨーロッパ文化概論】の講義を受けていたのだと思い出したのだった。
●●●
今日の講義は午前だけだった。講義を全部寝て過ごし、すっかり元気を取り戻した寧子は葉が赤く色づき始めた木の下にで、幅の広いベンチにちょこんと腰かけていた。
そうしてすかさず取り出したスマホの検索エンジンへ”ワイン”と入力する。
すぐさまずらりと検索結果が並び、数えるほども億劫な情報が表示された。
ここ最近、時間さえできれば同じようなことをしていた。
そして正直なところ、”ワイン”というものにはまっている自分が少しカッコいいような、特別な存在のような気がして、これまで検索していたところはおおいにある。
だけど今は少し違った。
アルバイトを始めたと言うのもある。
たとえアルバイトでも、ワインを扱うならば、お客さんからみれば寧子はワインバー:テロワールの従業員。つまりワインのプロということだ。
失礼な対応はできないし、したくはない。
――何よりも、ワインに対してストイックに、そして真剣に取り組んでいる沙都子の影響があった。
彼女に追いつきたいとか、肩を並べたいとか、そんな大それたものはない。
だけど寧子は、もう少し真剣にワインに向き合おうと思った。
ミーハーな気持ちや、ブラフでは無く、本当に自分が好きになった、興味を持ったことに真剣に向き合うために。
まず調べたのはワインがどのように
ワインの原料はもちろんブドウ。
収穫したブドウを
破砕し――ブドウの実を皮や種ごと潰すこと。
そうして果皮や種と共に発酵させ、樽で一年ほど貯蔵する。結果できあがるのが【赤ワイン】
対して【白ワイン】は一般的に果皮や種と果汁を分離して、果汁のみを発酵させて作られる。
どのブドウも皮を剥けば白くて瑞々しい果肉が姿を現す。
真っ赤な赤ワインの色は、ブドウの果皮の色なんだと寧子は理解した。
次にワインの産地には”旧世界”と”新世界”という分類があると知る。
旧世界――すなわち、古くからワインを産出していたヨーロッパ諸国、フランスや、イタリア、ドイツにスペインといった国を指す。
新世界――俗にはニューワールドと呼ばれる区分で、近年になってワイン醸造を始めた国々を指す。アメリカやオーストラリア、ニュージーランドなどが有名らしい。
これが指すところは何か? 気候の違いがワインの原料たるぶどうに大いに影響を及ぼしている。
例えばアメリカの一大ワイン産地:カリフォルニアは気温が高く糖度の高いぶどうが取れやすい。逆にフランスはカリフォルニアと比較して気温も低く、日照時間も短い。
そうした気候の違いから、同じワインであっても、まったく異なる方向性のワインが生まれてくる。
太陽を一杯浴びたブドウは力強い味わいのワインとなり、冷涼な気候で育ったブドウからのワインは華やかででエレガントな仕上がりになるそうだ。
同じブドウを使っていても、育った環境によって味わいの方向性が大きく変わる。
それはまるで人のように。それぞれの違いがあり、個性がある。
(面白いです……!)
季節は既に秋を過ぎ、冬へと向かっている。
寧子は、11月の秋風で指先を悴ませながら、それでも夢中になってスマホのタップを続けるのだった。
●●●
「寧子ちゃん、ブラインドティスティング、手伝ってくれる……?」
テロワールでのバイト終わり、同僚の沙都子がおずおずと聞いてくる。
カウンターで洗物に勤しんでいたラフィさんも「ちょっとだけなら良いよ」と快諾してくれた。
寧子に先日のブラインドティスティングでの興奮が蘇った。
沙都子がどんなワインを出してくるのか? 彼女はどんな表現をするのか? そして寧子自身は。
気持ちが自然と高ぶり、小さな胸の奥で心臓がトクトクと鼓動を放つ。
寧子はラフィさんから自分のも含めてティスティンググラスを四脚借り、その間に沙都子はロッカールームから、抜栓済みのなで肩をした白ワインボトルを二本もって来ていた。
「背中向けてるからその間に注いで」
ボックス席で対面に座っていた沙都子は背を向けた。
寧子は一本目のワインを手に取った。
(これが”シャブリ”ですか)
勤務まで夢中で読み漁ったワインの知識が早速役に立った。
【シャブリ】とは、フランス・ブルゴーニュ地方の中で最も北方に位置する地域のことだった。
かつて海の底にあったその地域はキンメリジャンという、太古の貝殻の化石と泥灰質が混じった土壌に覆われているそうだ。
その土壌と冷涼な気候から、クリーンですっきりとしたシャルドネを使った白ワインが作られる。
対するもう一本はアメリカ・カリフォルニア州ナパヴァレーから産出されたシャルドネの白ワイン。
カリフォルニアの中でも最も有名で、傑出したワインを産出する地域である。
きっと沙都子はこの間のエールダルジャンでの失敗を反省に、国ごとのワインの癖を見極めようとしているのだろう。
そんなストイックで真面目な沙都子に感心しつつ、寧子はティスティンググラスへ同じブドウを使っている筈なのに、全く色合いの違うワインを注いでいった。
「準備できましたですよ!」
寧子がそういうと、沙都子は二杯のワインへ真剣に向かい始めた。
「濃いイエローの外観、粘性は豊かで、成熟度が高い。第一印象でしっかりと感じられる、ココナッツミルクのような樽、パイナップルや、マンゴーのニュアンス。MLF(マロラクテック)発酵由来の、ヨーグルト、発酵バター。味わいもはっきりとしていて、アルコール由来の甘みとしなやかな酸味の調和し、コクのある苦みがある。余韻はやや長く、おおぶりなグラスで提供しても良い―― 一杯目はアメリカ・カリフォルニアのシャルドネ」
相変わらず流暢で、迷いのない、沙都子によく似合うカッコよかった。
「ややグリーンがかかった外観。粘性はさらりとしているが、しっかりと存在し質の良いブドウを使っている。爽やかな青りんご、ほんのすこしだけライム。ミネラル感のある香りが清涼感を感じさせる。甘みは殆ど無く、爽やかな酸、コクのある苦みがスマートでエレガントな印象を与える。小ぶりのグラスで、8℃から10℃で提供するのが良い――二杯目はフランス・ブルゴーニュのシャブリ……ふぅ……」
「凄い! 両方とも正解なのです!!」
寧子は弾むように賞賛し、それを受けた沙都子は頬を真っ赤に染めて、少し恥ずかしそうだった。
「良いコメントだったね。さすが沙都子ちゃん!」
カウンターのラフィさんもニコニコ笑顔を浮かべていた。
「でもそのワイン、抜栓済みだから初めて試すわけじゃないでしょ?」
「うう……そうです」
「じゃあ~」
っと、ラフィさんはカウンターからさグラスが四脚乗った銀のトレーを手に出てきた。
寧子と沙都子の前に、新しいワインが二杯ずつ提供される。
「さっ、沙都子ちゃんの実力をみせて?」
「は、はい!」
「寧子ちゃんもご一緒にどうぞ♪」
沙都子のように上手くできる自信は無かった。
だけども寧子はワクワクが止まらず、ティスティングを始める。
ラフィさんが提供してくれたのは沙都子が試していたシャルドネとほぼ同じような色合いだった。
片方が薄く、もう片方は濃い。
「あっ、これって……?」
香りを嗅いだ途端に、記憶が呼び起こされる。
花や蜜のような香り。口当たりも冴え渡るような酸味があって、この感覚に覚えがあった。
矢継ぎ早に二杯目の香りを嗅ぎ、覚えのあった記憶と少し違うと感じた。
一杯目と同質の、しかし強い蜜や花の香り。しっかりとした甘みと酸味の調和。
(
香りも味わいも近い。
しかし質感がまるで違う。もっと優雅で、繊細で、ボリュームの感がある。
「寧子ちゃん、どう? わかんなくても良いから感想聞かせて?」
タイミングが良いのか悪いのか、ラフィさんが聞いてきた。
「えっと、記憶にあるような無いような、そんな味なのです。お花や蜜のような匂いがして、酸味がしっかりとあって、でもどっちもほんのり甘いような気がしますです。シュヴァルツカッツやリープフラウミルヒに近いようなきがしますですけど、やっぱりちょっと違うような……だけど、好きです。こういうワイン、とっても」
「そっか。寧子ちゃんの好みはこういうのなんだね。意見ありがとう。凄いよ、きちんと分析できてて! 沙都子ちゃんはどう?」
「これってどっちもドイツの”リースリング”ですよね?」
沙都子は迷わず即答し、ラフィさんは「さすが!」と拍手した。
【リースリング】とはシャルドネ、ソーヴィニョンブランと並ぶメジャーな白ワイン用ブドウ品種の一つ。
主な原産国はドイツやオーストラリアで、ミネラルな雰囲気、白いお花のような香りと、爽やかな酸味が特徴である。
ドイツより産出される”シュヴァルツカッツ”や”リープフラウミルヒ”は基本的に、複数のブドウをブレンドして造られ、その中にはリースリングも含まれる。
(なるほど……だからシュヴァルツカッツやリープフラウミルヒと似たような雰囲気を感じたのですね)
そしてこれをもって、寧子は白ワイン用ブドウ品種の主要なものを全て口にしたことになった。
凄く得したような、また一歩前進できたような気がした。
「沙都子ちゃん、この調子で行けば来年の”ソムリエ試験”は合格できるんじゃない?」
「あ、ありがとうございます。でも、私は”エキスパート”ですよ」
「えっ!? 沙都子ちゃん、そんなに凄いのにソムリエじゃなかったですか!?」
寧子は驚きのあまり声を上げる。
すると悪いことをしていないのに、まるでしたみたいに沙都子の顔が暗くよどむ。
「ごめんなさい。だって受験資格無いから……」
「あ、ご、ごめんです! あの、えっと受験資格って?」
「ソムリエは”20歳以上でかつ、飲食業で三年以上働いている”ことを条件に受験ができるの。まだ私、このバイト初めて三か月くらいだし、申し込みの時はまだ20歳じゃなかったから……」
「だから来年、エキスパート受けるんだよね? ”ワインエキスパート”っていって、内容はソムリエ試験とほぼ一緒の、20歳以上なら誰でも受験できるものなんだよ」
ラフィさんが補足説明をしてくれた。
更に細かく説明を聞いてみると、日本には【日本ソムリエ協会】という、世界的に実力を認められたソムリエ達が組織する、一般社団法人が存在する。そして協会が年に一回実施する”呼称資格認定試験”を通過することで、初めて【ソムリエ】と名乗ることができるらしい。
ただし【ソムリエ】を受験するためには、ワインの販売やサービスといった業種に三年以上従事することが求められる。
そのため一般向けに【ワインエキスパート】という、同様の資質を問う試験が同時に実施される。
「最近のエキスパートはホント難しいんだよね。愛好家の方などが対象だから、試験のレベルも結構高くてね。まぁ、ソムリエも楽じゃないんだけど。そんなちょっと難しいのに挑もうとしているし、わたしに”厳しい指導”をお願いしている沙都子ちゃんって、やっぱドMさんなのかな?」
「ち、違いますよ……」
ラフィさんの歯に衣着せぬものいいに、沙都子はたじたじな様子だった。
「でもじゃあなんで”エキスパート”を受けようとしているですか? 就職してからでも遅くないと思いますですけど?」
寧子がそう聞くと、沙都子が顔を上げる。
怒っているわけではない。しかし瞳は真剣さを帯びていた。
「少しでも早く、実家の役に立ちたいから……」
「実家?」
「私の実家、山梨で小さな酒屋やってるの。でも年々お酒が売れなくなって、お店も苦しくて、でもこうして大学にも通わせて貰って……だから私は少しでも早く【ソムリエ】になって、美味しいお酒をたくさん紹介して、いっぱいお客さんに来てもらって、お店を私が小さかった頃みたいに元気にしたい。ううん、するの私が……!」
静かだが、それでも強い意思を感じる沙都子の言葉に、寧子の身体が震えあがる。
単なる酒というかワインにはまっただけの自分とは違い、実家のために困難に立ち向かおうとしている同年代の沙都子。
その意志、その姿は本当にかっこよく、寧子に沸き立つ何かを感じさせる。
しかしその沸き立った”何か”の正体を、寧子はまだ知らない。
「さぁ、今日はもうお開きだよ! 二人とも今日もありがとうね! お疲れ様!」
店主のラフィさんの一声で、その日は解散となった。
帰りの道中、寧子は沙都子から日本でも有数のワイン産地である”山梨”の話を聞く。
田舎で何もないけど、静かで、のどかで、そこら中にブドウ畑や、ワイナリーやワインがあって、ご近所さんも結構な確率でワインというものに関わっている。
今の寧子にはどんなアミューズメントパークよりも、”山梨”という土地が魅力的に思えて仕方がない。
(いつか山梨行ってみたいですね。その時はしょうがないからクロエも連れってってやるのです。ただしあいつはドライバーですけどね)
そんなことを考えながら、寧子は沙都子と共に岐路にへ着く。
もっと色々と知りたいという気持ちは、寧子の中で無尽蔵に膨らみ続けるのだった。
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