第8話ようじょ、マリアージュを体感する


「ネコちゃん、サボタージュネ?」

「違うのです。次の授業が四限ですから暇なのです」


大学の中庭のベンチで本を読んでいた寧子はクロエへぴしゃりと言い放つ。


「何読んでるネ?」

「ワインの本です」


【誰でも分かる! 超初心者ワインガイド!】


 以前、たまたま隣に座っていたクールな女の子が読んでいたものと同じである。ネット通販で購入し、昨晩ようやく届いたそれを寧子は夢中になって読み続ける。しかし、【超初心者】向けとなっているが、実際は良くわからない横文字が並んでいたり、レストランでのマナーや、醸造方法、はたまたワイン法やテロワールなど、初めて目にする情報の数々に若干押され気味であった。


 だがそんな情報の渦の中でも、一番とっつきやすいページがあった。


 綺麗なカラーの写真と共に、様々なブドウの品種とその概要が書かれているページを寧子は開いていた。



 ワインはブドウを発酵させて作る”醸造酒”の一つ。

 ブドウはそのものだけでも発酵が可能な糖分を含有している。

そのため他の酒とは違い、糖化の工程が必要なく、故に”ブドウ品種の個性”が色濃く反映されるアルコール飲料である。


 との、ことらしい。

だからこそ、本の冒頭には何十種類ものブドウ品種の写真と名称が並んでいた。

しかしこの本によれば、掲載されているのはこれでもほんの一部らしい。

若干、眩暈を覚えた寧子だったが、だがしかし!

どんな世界でも”メジャー”と”マイナー”は存在する。

それはブドウ品種も然り。


 ワイン用のブドウ品種のメジャーどころをピックアップすると、おおむね10品種にも満たない。

それでもちょっと多い気がしたので、寧子は更に絞り込み白ワイン用のブドウ品種に着目していた。



『白ワイン用のメジャーなブドウ品種』


【シャルドネ】

 世界中の様々なところで栽培されている。フランスのブルゴーニュや、カリフォルニア、オーストラリアなどのシャルドネから傑出したワインが生み出される。味わいは上品でまろやか。醸造方法によって千変万化する、変幻自在のブドウ品種。



(ふむふむ。となると、次のターゲットはこの子ですかね? この子を狙い撃つのです)


 他には「ソーヴィニョンブラン」「リースリング」「甲州」とあったが、まずは白ワイン用ブドウ品種の項目で、最も大きく最初に掲載されていた【シャルドネ】というブドウ品種に狙いを定める。


 やはり何事もメジャーを押さえて外殻を掴んで、次第に深くマイナーの世界へと潜ってゆくのが、その世界を知るのに最も効果的な方法だと寧子は思っていた。


「ネコちゃん、すっかりワインの虜だネ?」


 寧子の肩越しにクロエも楽しそうに本を覗き込んでいる。

アスティの一件以来、クロエも少しお酒というか、ワインに興味を持ってくれたようだった。

友達が自分の好きなことに興味を持ってくれたことが嬉しく、寧子の小さな胸の奥が喜びで疼く。


「クロエ、放課後一緒にOSIRO行きませんか?」

「ジュ シィ ディズリィ……今日はサークルに顔を出さなきゃいけないのネ」

「サークルなんていつのまに入ったですか?」

「入ったっていうか、呼ばれたっていうか? ヨーロッパ文化研究会に? 前に良くしてくれた先輩の頼みだから断れないのネ……」」

「ああ、そういえばお前フランス人でしたっけ」


 寧子の辛辣な突っ込みにも笑顔で「YES!」とクロエは相変わらず英語で答えた。

クロエは心底残念そうだし、寧子もちょこっと残念に感じていたが仕方がない。


 寧子はその残念さを、シャルドネで作ったワインへの想像で覆い隠して、早く放課後が来ないかと願うのだった。



●●●



 今日の講義を消化し終え、寧子は愛車の真っ赤なベスパを走らせ、早速リカーショップOSIROを訪れていた。


 未知のシャルドネへの期待を胸に一歩を踏み出すと、まだ距離があるにも関わらず、まるで寧子を招き入れるように自動ドアが開いた。


「あっ」

「あっ」


 寧子は素っ頓狂な声を上げ、自動ドアから出てきた彼女も同じく声を上げた。

少し青みがかかった長い黒髪に、すらりとした体つき。シンプルなタートルネックのセーターとロングスカートが良く似合っている大人びた、寧子とは違う世界に住む人間に見える彼女。

だけども、彼女が肩からぶら下げている布製のエコバックからは、共通点である黄色いワインキャップが何本か頭を出していた。


「ど、どうもです!」


 寧子は勇気を出して、以前自分の隣でワインの本を読んでいた”大人びた彼女”へ挨拶をしてみた。

すると彼女はやや遅れて”ペコリ”と会釈を返して来てくれた。

住む世界が違うと思っていた彼女からの返答は、寧子の小さな胸に喜びを齎す。


「ワイン、好きなんですか?」

「あ、うん……貴方、も?」


 緊張が声から伺えたが、邪見にはされていないと寧子は感じた。


「はいなのです! と、いっても最近始めたばっかりで、まだ右も左も良く分からないですけどね。今日は初めてシャルドネを試してみようと思ったです」

「そう、なんだ。だったら、カリフォ……」


 どこからともなくけたたましいアラーム音が鳴り響いて、意外に小さな彼女の声をかき消す。

彼女は慌てた様子でスカートのポケットから銀色のシャープな印象のスマホを取り出す。


「ご、ごめん! また!」


 彼女はスマホを見るなり慌てた様子で駆けだした。


 短い時間ではあったが話ができた。

”ワイン”という共通項があったからこそ、「ようじょのような寧子」と「大人びた彼女」と言葉を交わすことができた。

寧子は満足感を感じながら、意気揚々と酒屋の自動ドアを潜る。


「しゃせー」

「佐藤さん、こんにちはなのです」

「お、おう、石黒さんか」


 相変わらず恥ずかしがり屋な佐藤は仏頂面を少し朱に染めていた。


「ワインか?」

「はい! 今日はシャルドネを試してみようと思いまして。もしよかったら助言いただけますか?」

「シャルドネか……で、どこのシャルドネが良いんだ?」

「へっ?」

「シャルドネつっても、世界中で作ってるからな。値段もピンキリだし、シャンパーニュもある」


 確か本の中でも”千変万化”や”ブドウ品種界の女優”なんて記述があったと思い出す。


「じゃあ、まずはチリの【自転車のワイン】で試してみるか」

「チリの【自転車のワイン】? 埃を被った自転車ですか?」

「んな、まずそうな銘柄あるかよ。南米の国だよ」

「分ってますです。冗談です」

「なっ……!」

「くふふ、佐藤さんって真面目なのですね?」


 寧子は佐藤をからかいつつ、彼に案内されてワイン売り場へ。

そこの一角にある通常よりも小さいハーフボトルサイズのコーナーへ案内された。


「これがチリ産の【自転車のワイン】のシャルドネだ」


 佐藤が差し出してきたワインには確かに【自転車の絵】が描かれていた。

 ハーフボトルのコーナーを見渡せば、赤や黄色、紫といったキャップの色違いは有れど、同じく自転車の絵が描かれたワインが何種類か並んでいる。


「チリ産の中じゃ結構有名なヴァラエタルワインのシリーズだ」

「ばらえたるわいん?」

「ラベルにブドウ品種の名前が書いてあるだろ? それぞれのブドウ品種の持つ個性を前面に押し出して、品種ごとの違いを楽しむアイテムをヴァラエタルワインっていうみたいなんだ」

「なるほど! じゃあわたしみたいな初心者にはうってつけのシリーズなのですね。さすが佐藤さんです!」


 値段も600円程度、サイズも通常のワインの半分。

色々と試そうと思うならば、このシリーズ程頼もしいものは無い。


「あとついでもこれも一緒にどうだ? 結構びっくりするぜ」


 と佐藤は【自転車のワイン】シリーズで、キャップが明るい紫色をしたボトルを差し出してくる。


「ゲヴュルツトラミネール? スパイスですか?」

「良く知ってるな。ゲヴュルツがスパイスって意味」

「一応第二外国語はドイツ語を選択してましたのです! ふふん」


 良きワインの相談相手で尊敬している佐藤に褒められて、凄く誇らしい寧子なのだった。


 これが佐藤の営業戦略だったのかは定かでなかったが、寧子は謎のブドウ品種”ゲヴュルツトラミネール”の白ワインも購入する。

予算は2,000円と決めていたし、2本も買ってお釣りがくるなら今日のお買い物は大成功。

寧子は”大人な彼女”と話せたことと、面白そうなワインを2本買えたことに大変満足し、帰路に就く。


 晩御飯兼おつまみにと、佐藤の助言に従ってシャルドネに合わせるべく”クリームソースベースのエビドリア”をコンビニで購入するのだった。



●●●



(さぁ、シャルドネ初体験なのです!)



 寧子は早速、黄色キャップが目印の【自転車のワイン】のシャルドネのスクリューキャップをパキンと開け放った。


 グラスの注がれたワインはやや黄色味がかっている。色の度合いはシュヴァルツカッツやリープフラミルヒと比べるとやや淡い。


 まずは香りを確かめてみようと、グラスを手に持ち、鼻を近づける。


「んー……?」


 思ったほど、香りが強くは無かった。しかしそれはあくまで、”これまで寧子が飲んできたワイン”と比較してだ。

 香りの質としてはパイナップルに近い、甘さを感じさせる香り。ほんの少しばかり、ミルキーな乳製品のような香りも感じる。


 これはこれで穏やかでありだと思った寧子は、一口ワインを口へ運んだ。


 相変わらずインパクトは少ない。甘さはほんのわずか。

そして、味わいはソフトで優しい。

 酸味はやわらく飲みやすい。


「こんなものなのですかねぇ?」


 ちょっと想像と違って、少しがっかりな寧子は、ホカホカと湯気を上げているエビドリアを一口含む。


「あっ……!」


 すると、口の中でワインの香りがふわりと広がった。

クリームソースの濃厚な香りと、ワインが元々持っていたクリーミーな香りが合わせって、拡大する。

ほんのわずかに存在する甘みが、クリームソークの味わいと、エビの風味を引き立てる。


 気づけば寧子はエビドリアをもう一口含み、そしてワインへ口を着けていた。


 先日クロエの口にした『マリアージュ』という言葉が思い出された。


 ”結婚”を連想させるその言葉が意味するように、口の中でエビドリアとワインが一つになって、手を取り合う。

 まるで料理にワインというソースがかかることで、旨みを増幅させていた。


(インパクトは少ないですが、これは凄く良いのです……!)


 新しい体験に満足のできた寧子さん。

ふと、もう一本のワインのことを思いだした。


 スパイスの意味を持つ、ゲヴュルツトラミネールというブドウ品種を使った謎のワイン。

次はこっちにいってみようと、紫のスクリューキャップをパキンと開けた。


 グラスに注がれたのは、シャルドネよりも遥かに黄金に近いワインだった。


「ッ!!」


 液面へ鼻を近づけ、衝撃が走った。


 【ライチ】


 そう表現するに相応しい、強く衝撃的な香りが鼻を支配する。

衝撃度合いはシュヴァルツカッツ、リープフラウミルヒ以上。

口に含むと少しとろっとした舌触りを感じるも、やはり甘さは殆ど無く、酸味も柔らかい。

少し強めの苦みがそれが旨みとなって残り、長めの余韻を発生させる。


「これ良いですねぇ……さすがスパイス」


 香りと味わいにうっとりした寧子はエビドリアを一口ぱくり。


「……?」


 しかしワインの香りが強すぎて、どうにもエビドリアの味がとぼけて感じられた。

というか、ワインの香り以外あまり感じない。


 もう一口同じことをしてみたが、結果は同じ。


 ではシャルドネはというと、相変わらず料理の味わいを引き立てる。


(なるほど。エビドリアの風味が、ゲヴュルツトラミネールの香りに負けちゃってるのですね)



 単体では少々物足りなく感じるシャルドネ。

単体では楽しめるが、エビドリアとの相性はあまり良いとは言えないゲヴュルツトラミネール。


 だけどもはっきりと云えるのは”どれも十分に美味しい”ということ。


(ワインって奥深いですねぇ……)


 近いうちにクロエに同じようなことをして驚かせてやろう。

そう思いながら寧子の夜のひと時は過ぎて行くのだった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る