第3話 人生

 「おはようございます。朝刊が来ましたよ」

威勢の良い声で仮眠室に入ってきたのはアルバイトで朝刊だけやっている大学生である。

仮眠室で寝ていた中谷は、布団から這い出るとストーブに火をつけてから外に出た。

すでに数人がトラックから朝刊を降ろし始めている。


 一束100部の新聞を約30束全員で降ろし終えると、各自決まった場所に自分の配る部数の束を持っていき、新聞の束のビニールカバーを剥ぎ取りテープをカットしたのち、前の日にパートのおばちゃんによってセットされたチラシを新聞の間に挟んでいく。


 「今日はチラシが少なくて楽ですねえ」

サラ金を踏み倒して一週間前に新聞募集でこの営業所に来た脇田が、調子のいい声で言った。


 すると、脇田の隣で一生懸命慣れない手つきでチラシを入れながら泣きそうな顔を向けたのは女房子供を捨てて逃げてきた沢松だった。

「本当ですよね。今日は月曜日だからチラシが少ないけど、金土日と週末になると新聞よりチラシの方が厚いんですよね。全くチラシ配りしてるようなもんですね」

彼もここへ来て十日前後であった。


 「何つまんない事言ってんの君たち、さっさとチラシ入れないと、今日も七時過ぎちゃうよ。学校行く女学生に見られたら恥ずかしいでしょ。早く、さっさとおやんなさいよ。ねえ、中谷さん、そうでしょ」


 声をかけたのは、三か月前にこの営業所に来た自称ヤクザで最近足を洗ったという堀江である。


 「そのとおり」

中谷はそう言って頷きながらバイクに自分の新聞を積み込んだ。

一年以上のベテラン組は彼ら新米組を相手にせず、サッサと新聞を各々のバイクに積み込み、営業所からそれぞれの区域へと夜明けの暗がりの中に消えて行った。


 中谷は自分の区域を早々に配り終えると、仮眠室へ戻ってストーブに冷え切った両手をかざし暖をとった。

しばらくするとベテラン組も帰ってきて、余ったスポーツ紙を読んだり、早速食堂で朝食をとったりしながら、三々五々それぞれのアパートに寝に帰る。


 中谷はいつの間にか新米組を世話する係りも兼ねていて、最近では彼らの帰りを朝刊を眺めながら待つようになっていた。


 「ただいま帰りました。中谷さん、今日はミスゼロですよ」

と言って入ってきたのは元ヤクザの堀江である。

堀江は最近ようやく新聞配達のリズムに慣れてきたようで、世話係の中谷に親しく話しかけてくるようになった。


 「そりゃ良かったね。まあこっち来て暖ったまんなよ」

と中谷が声をかけると、

「ああ寒、寒、俺もこんな仕事いつまで続くかなあ」

毎朝同じセリフを言いながら、手袋を脱いで手をストーブにかざすのであった。


 しばらくして中谷は、読んでいた朝刊を閉じると堀江に向かって何気なさそうに言った。

「ところで堀江さん。東町一丁目の角のMSビル二階の鈴木さん、入れた?」

ちょっと間をおいて堀江は、

「あ、いけね。また忘れた。今日は間違いなく入れたと思ったんだけど、残念!」

と言って、急いで脱いだ手袋を再びはめ直すと、夜明けの空へ飛び出して行った。


 後から来る新米二人も、堀江と同じように必ず入れ忘れ(業界用語で不着という)を中谷に指摘され、元来た道を取って返すのであった。

中谷は、この営業所のすべての区域に精通しているので、新米がどの家に新聞を入れ忘れるか良く心得ている。


 不思議なもので、「不着」になる家は何度でも繰り返されるのである。

別にその家が目立たない場所にあるとかポストがわかりづらい所にある、というのではなく、配達している流れの中でいつの間にか飛ばされてしまうのである。


 そのような、

「忘却の家」

が、中谷の記憶によると一人の受け持ち区域の中に三軒から五軒は常時存在している。

新米は毎日そのいずれかに入れ忘れることになっている。


 中谷は、朝刊から帰ってきた新米の顔をみるなり、それぞれがどの家に入れ忘れたか、ほとんど100発100中に近い確率で言い当てるのである。


 配達員は各自、「順路票」という手帳を持たされるのであるが、それに常時目を通しながら配るのでは時間がかかるので、一週間も配ればほとんど自分の記憶に頼るようになる。

そして、必ず入れ忘れを起こす結果になる。


 中谷が毎朝彼らに指摘すると、彼らの記憶の回路が瞬時につながり、

「あ、いけね」

と反射的に反応するようになっている。

そして、だれもが素直に今来た道を引き返すのである。

しかし、どうして中谷がいつも彼らの入れ忘れを適確に言い当てるのか、誰も疑問に思ったことはない。


 中谷自身ですら、そのことが特別な能力だなどと未だかつて心に上ったこともない。

ただ言えることは、中谷がいつも彼ら一人一人にタイミングを見計らって、

「あそこ、入れた?」

と聞くとき、言われた相手が必ず同じ反応をすることに、中谷自身が無上の快感を感じることだけは確かである。


 これは、一種の射幸心を満足させるものであるかもしれないが、いずれにしても中谷にだけ感ずることのできる世界なのである。

又、言われた相手が堀江のように元ヤクザであろうが過去に人を殺めたも者であろうが決して中谷の言ったことに逆らわず一律に同じ反応をするところにも妙味がある。


 これは中谷一人だけが知っている大切な秘密なのである。


 そしてこの事は、彼らの少ない給金にも実に大いに貢献しているとも言えるのである。

もし、入れ忘れを放っておいて帰ると、必ずその家の者から営業所に電話がかかってくる。

その電話を受けるのは宿直の者で、そいつが代わりに新聞を届ける。


 それは後に、一軒につき一点減点となり、給料から差し引かれる仕組みになっている。従って彼ら新米は、大いに中谷に助けられていることになるが、言われた相手は中谷に助けられているなどという恩義のようなものは微塵も感じない。

と同時に、中谷の内に、彼らの少ない給金が減らないようにといった慈悲にも似た感情はひとかけらも見いだせなかった。


 これは真に、中谷一人だけの喜びであり、楽しみであり又、人生でもあった。



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