第4話


 その夜の向こう側



       ※


 病院の北側を流れている庄乃川は、東から西に流れている。堤防の上で流れていく遠くを眺めてみると、緩やかな曲線を描くように大きく曲がっていた。川に沿って歩いていくと、西に向かっていたのがいつの間にか南を向こうようになる。

 歩いている堤防の高さは、マンション三階に相当する。そこから眺めると、多くの照明が鮮やかな星空のように見えた。道は片側一車線で車も通るため、ちょくちょくヘッドライトが後ろから追い越したり、正面から向かってきたりする。

 川にかかる橋に点けられた橙色の照明が水面に反射して幻想的。たまに水の音が聞こえると、水面に魚が跳ねたことが分かる。河川敷に生えている雑草の方から虫の音。夜ではあるが蒸し暑く、包まれている空気は肌に張りつくようで、歩いていると汗が次から次に噴き出して仕方がない。

 愛名市は太平洋に面していて、この辺りは河口が近い。横を流れている庄乃川は川幅が広く、目測で五十メートル以上ありそう。

 病院の広場からここまでずっと歩いてきて、まだまだ終着点の海を眺めることはできない。ふと視線を横に逸らすと、愛名市駅前にある聳えるいくつかの高いビルが見えた。最初あの明かりは南西方向に見えたが、今は真南よりも東側に見えるようになっている。それだけの距離を歩いてきたのだろう。

 さきほど小学校の遠足で歩いてきた緑地公園を過ぎたところ。勇耶は遠足以外にもこの辺りに釣りにきた思い出があり、よく鯉が釣れた。今日は魚釣りではないが、できることなら『違うコイを一本釣りしたいものだ』とうまいこと考えて、頬を緩めたものだが……冷静になると、そんな悠長なことを考えている場合ではない。

 なんといっても、家出である。

 栞にはそれをするだけの理由があり、こうして夜の堤防を歩いている。のんびり恋愛モードに浸っている場合ではない。

(…………)

 遠くの方から救急車のサイレンが響いてきた。同調するように犬の遠吠えが聞こえる。それらが、夜の道を漠然と歩いていく勇耶の胸をざわめかせていく。なんとはなしに、テレビで台風の爪痕で崖崩れの被害を目にする気持ちに似ていた。

(…………)

 ここまで一時間ぐらい歩いてきたと思う。その間に、断片的にだが、栞が家を飛び出した理由を聞いた。家庭の事情であり、そこにはなんとも複雑な思いが交錯しているようである。


 栞には近所に住む親戚がいて、いつもお世話になっている大好きな人なのだという。

 けれど、あろうことか、栞のせいでその親戚を不幸にしたらしい。さらに、そこには陸上部顧問の森乃山も関係しているという。だからこそ、去年から急に栞と森乃山の関係がぎくしゃくしていたのだった。

 栞は、どうにかしてその親戚を助けてあげようと奮闘するも、どうにもできない。そればかりか、今日、取り返しのつかない事態に陥ったことを知り、精神的なショックは存在を崩壊させるほど大きなものとなっていた。置かれた状況に、中学二年生の栞では処理できず、かといって誰にも相談できるような内容でもなく、どうにもできない八方塞がりの状態であり、火中の栗が臨界を突破して弾けるように家を飛び出してきたのである。

 その件に関し、勇耶も勇耶なりにどうにか円満にいく方法を考えてみたが……どうにもいい案を思いつくことができなかった。力になれなかったこと、経験値不足に知識不足を突きつけられた気分。もっと頼りになる男であれば、栞に笑っていてもらえるものを。

 悔しいが、どうすることもできない。

 どうしたところで、勇耶は子供なのだから。


「あのね、下釜くん。わたし、ハイエナになりたい」

「はあぁ!?」

 ぐるりっと一回転するような、素っ頓狂な声。

 よくよく思い返してみると、勇耶はこうして栞と二人で話しているとき、『はあぁ!?』と驚かされてばかり。

「ハイエナって、あのハイエナだろ?」

 ネコ目ハイエナ科の動物。

「サバンナなんかで、ライオンの食べ残しの死体を漁ってるような……えっ、斑美って、あんな風になりたいのぉ!?」

 ハイエナを人間で想像すると、捨ててあるごみを漁っている行動に結びつき……勇耶は首を大きく横に振る。とても栞になってほしい姿ではない。

(そんなのホールレスじゃん)

 絶対に反対だった。

「どうせならライオン目指そうぜ。ハイエナなんて、あんなの意地汚いだけじゃん。斑美は陸上界の百獣の王になるんだ、その素質も充分あるし」

「ハイエナは下釜くんが思ってるような動物じゃない。って、わたしもこの前テレビを観るまでは、そういった悪いイメージ持ってたけど、でも、本当は違う」

 自分が勘違いしていたことを素直に反省し、ハイエナの魅力をハイエナに代わって主張するよう、力説していく栞。

「どうしてハイエナがライオンみたいな肉食動物の食べ残しに群がるかっていうと、それはハイエナの噛む力が強いから。ライオンの二倍ぐらいある。それで、ああしてライオンが食べ残した骨を食べてる」

 ハイエナは骨を噛み砕き、中にある有機物を摂取しているのである。

「だから、食べ残しに群がるっていうより、そこに食糧があるから食べてるだけ。賢い。ライオンの行儀が悪いから食べ残してるのを、きれいにしてるってこと。ハイエナ立派」

「うーん、それは考え方だと思うけど……噛む力が強くて、骨を食べるか。だったら、わざわざ狩りなんてしなくても、ライオンが食べ終わるのを待ってればいいもんな。それって、賢くもあるけど、単に怠け者なんじゃ」

「それも違う」

 勇耶の発言に憤慨するよう、栞は首を強く横に振った。瞳は鋭く光られ、真剣そのもの。

「ハイエナは自分で狩りをする。群れで頭脳的に狩りをして、獲物を捕らえる。でも、それをライオンに横取りされる」

「えっ、ライオンに横取りされてるの!?」

「そう。ライオンは力が強いから、ハイエナが捕えた獲物を力づくで奪って、我が物顔で食べてる。ハイエナは力が弱くて逆らえないから、奪われた獲物をライオンが食べ終わるのを待って、残り物を食べる」

「へー、そうなんだー」

 知らない事実を受け、勇耶はいかに世論を鵜呑みにしているかを実感する。ライオンが百獣の王で格好よく、ハイエナはそこに群がる意地汚い動物という印象があった。だというのに、驚きの真実を告げられ、勇耶を形成している地盤を引っ繰り返された気分。

 にしても、思うことはある。ただただ疑問。

「ハイエナになりたいってことは、斑美は顎を丈夫にして、骨を食べたいってことなのか?」

「そんなわけない。馬鹿にしてる?」

 ぶすっと頬を膨らませると同時に、栞は下唇を出した。

「わたしはハイエナが協力し合って生きてるところが素敵。ハイエナって常に群れで行動してて、雌がリーダーで、全員に順位っていうか、地位みたいなのがある。例えば十五頭の群れだったら、ナンバー一から十五まで全員が位置づけられてる」

「結構シビアなんだな」

「で、その順位は、雌が優先されて、次が子供の順番で、最後が雄なの」

「随分と男に厳しいな。えっ、ってことは、斑美は女が支配する社会で、男どもを扱き使いたいってことか。恐ろしー」

「違う違う」

 乗用車が後ろから追い越していった。右側は川で暗く、左側には住宅街の明かり。しかし、この堤防の上にはあまり照明が設置されていないため、足元が薄暗い。隅の方を歩いているので、気をつけていないと、踏み外してしまいそう。

「自然界にいる動物って、怪我をしたら生き残れないイメージあるでしょ?」

「まあ、そうだな。怪我したら、治療なんてできないから、どんどん弱まって死んじゃうだろうな。狩るか狩られるか、なんて世界じゃ、怪我した瞬間、自分が餌になることが決まるだろうし。うん、生きていけないと思う。さすが自然界、厳しいことこの上ないな」

「それもそうだし、怪我した動物は自分で餌を調達できなくなる。だから、生き残れない。けど、ハイエナは違う」

 ハイエナは群れで狩りをして、群れで暮らし、怪我をしたハイエナでも群れの中で暮らしていくことができる。そうやって群れで支え合いながら自然界を生き抜いてきた。

「さっき言った群れの地位っていうのは、怪我をしても変わらない。だから、怪我をしたハイエナは今まで通り群れで狩りをした餌をみんなと一緒に食べることができる。そうしてハイエナは群れっていうか、親戚で協力し合って生活できてる。だから、ハイエナはいいなって思った。わたし、ハイエナになりたい」

「うーん、いい話ではあるね。あるけど……それってさ、結局のところ人間も同じなんじゃない? 世間には障害者って人がいるわけじゃん。目が不自由だったり、歩けなかったり、喋れなかったり、未熟児だったり……けど、そういった人たちと一緒に暮らしているのが今の社会なんだから。って、詳しくは知らないけど……とにかく、社会で支え合って生きてるなら、ハイエナにならなくても、人間で充分だと思うけど」

「ううん、人間じゃ駄目」

 栞はどこか悟ったような感慨深い瞳を揺らして、小さく首を振っていた。顔は進行方向に向けられているが、どこでもない遠い世界を夢見ているよう。

「人間にはどうしても家族の間に壁がある。けど、ハイエナはそうじゃない」

「家族の壁?」

「どんなに親しい親戚でも、同じ屋根の下で、同じ家族のように暮らせない。けど、ハイエナは違う」

 正面からヘッドライトが迫ってくる。栞は左側に寄りつつも、歩を止めることはない。

「自然界の動物って、怪我したらそれでお終い。もしそれがお母さんだったら、子供は乳がもらえずに、すぐ死んじゃう。けど、ハイエナは群れに何頭もお母さんがいる。しかも、家族の壁がないから、自分の子供じゃなくても分け隔てなく乳を与える。そうして、みんなで協力して生きてる。わたしもそうだったらいいと思う。だから、ハイエナみたいだったらいい」

「ふーん、そんなに協力し合って生きてるんだ。随分とイメージが違うんだな、ハイエナって。なんか損してるぞ、絶対……」

 この瞬間、勇耶は栞がハイエナに憧れを抱いている気持ちが理解できた気がした。

 前提として、栞には母親がいない。それは栞にとって当たり前のことだが、やはり母親のいない生活は寂しいのだろう。もしハイエナであれば、母親がいなくても別の母親と生きていくことができる。

 きっと栞は、その温もりを求めているのだろう。

「動物って、自分の子孫を残すために、他の子供を殺すって話も聞くから、ハイエナみたいに協力しているのって珍しいんだろうな。そう言われると、確かにいいと思う」

「ハイエナはいい。うんうん」

 自分が褒められたわけではないのに、栞がどこか誇らしそうに胸を張った。ハイエナについての理解者が一人増えたこと、心の底から喜んでいるように。

 そんな喜んでいる栞を目にして、勇耶も自然と口元を緩めていた。こんな状況なのに、心がぽっと温かくなる。

 この気持ちになれただけでも、こうして夜の堤防を歩いてきてよかった。

(……それにしても)

 時計がないから確認できないが、病院のベンチを出発してからどれだけ時間が経っただろうか……後ろを振り返ったところで十階建ての病院はもう見ることができない。徒歩とはいえ、相当な距離を歩いてきたのは間違いない。

 周囲を見渡してみると、暗い夜道は勇耶の知らない世界。進行方向に流れていく川は相変わらず太い闇の道で、緩やかなに左方向に曲がっている。川の両側には街明かりが確認でき、最初見た頃よりは光の量が減っている気もする。その分夜が深っているのだろう。

 前方にはこれまで通り抜けてきた三つ目の橋が見えた。今、長い光が左から右に流れていく。きっと電車が走っていったに違いない。とすると、ここまで長時間歩いてきたつもりだが、まだ終電の時間になっていないみたいである。

 そうやって時間を気にすると、急に胸が圧迫されるように苦しく、不安な気持ちに苛まれていく。家を出た自分はランニングの途中で、もちろん連絡していないので家族に心配かけていることになる。申し訳ない。すぐ体を反転させて帰るべきなのだろうが……しかし、このまま栞を一人にしているわけにはいかなかった。でないと、不安定に揺れる栞の心は、下手した死を選んでしまうかもしれないのだ。包まれる雰囲気からそれほどの儚さが感じられる。勇耶は家族に申し訳ないと思いつつも、今はこうして栞の横を歩いていく。いざというときは、体を張ってその命を守るために。

(しかし、暑いなー……)

 歩いている堤防の上は、夜だというのに蒸し暑さが輪をかけていている。額の汗は、拭っても拭っても止まることがない。ずっと水分を摂取していないのに、底なしで自身の内側から溢れてくるから不思議。たまに風が吹くと、Tシャツが胸に張りつくようで気持ち悪かった。

 歩いている堤防上の道は、時間帯が影響しているのだろう、交通量は激減していた。ほとんど車のライトを見なくなり、二人の間で会話がなくなると僅かな星空の下を黙々と歩いていく。

(…………)

 静寂に溶け込む虫の音は、空間を覆い尽くさんばかりであり、迫ってくるようでもあって不気味。

 右手は河川敷で、草が短く刈り取られている。照明がないのでよく見えないが、ちゃんと整備されていて、全力疾走やサッカーの練習ができる広さはありそう。

 反対に左手は土手であり、緩やかな下り坂。長い草を抜けるとすぐ住宅街で、近くでライトアップされている携帯電話の看板が見えた。ライトアップされている橙色がとても色鮮やか。近くには黄緑色のコンビニエンスストアの明かりも見えた。あの色はファミリーマートで間違いない。

 すぐ前に信号が設置されている。進行方向はずっと青で、随分前から変わることはない。見てみるとこの堤防を渡す方が押しボタンだからこそ、通行人のいない暗い時間だと信号が変わることがない。

 この信号のある場所は、前後に架かっている橋と橋の中間地点に位置する。斜面にも人工的な階段があり、近くの住人はここから堤防を越えて河原へいくのだろう。

 その信号を通過する。この先に待っている目的地の海を目指して。まだその目にゴールを確認することはできないが、とにかく歩く。歩いていく。

(…………)

 歩く。

(…………)

 歩く歩く。

(…………)

 歩く歩く歩く歩く。

(……っ)

 両耳がぴくりっと反応した。静かな空間を打ち破るように、車のエンジン音が響いてきたから。視覚としても後方からライトが迫ってくるのを感じ、左側に寄るが……目に映った光景には、これまでにない異変が!

(わっ!?)

 最初に眩しい赤色が目に飛び込んできた。サイレンこそ鳴らしていないものの、周囲を警戒するように車上のランプは点滅させている。と思ったら、勇耶たちが歩いている三十メートル前方で停車。まるで予定を変えて急遽そこに停車したみたいに。そんな場所、何もない。堤防の上で、右にも左にも斜面を下る道はないのに、パトカーがそこで停車した。

(…………)

 喉が大きく鳴る。ごくりっ!

 勇耶は犯罪者でないので、別に警察に厄介になるような悪いことをしたわけではない。けれども、なぜだか身が引き締まるというか、どこにいても警官を目にすると、萎縮してしまう。相手は自分たちを守ってくれている人だというのに。

 そしてそして、今はいつもにない警報が頭に鳴り響いている。目の前で点滅しているランプよりももっと強烈なものが、勇耶の存在に大きな危険を示していた。

(っ!?)

 瞬間、勇耶は自分が身を置いている状況を思い出す。同時に、抱いている危機感がどういうものであるかをはっきりと認識する。

 とすると、まずい。

(……駄目)

 前方で停車したパトカーの扉が開く。周囲が静かなため、開く際の『がちゃりっ』という音が鮮明に聞こえたほど。同時に暗かった車内に照明が点いていた。警官は意味があってパトカーをそこに停め、目的があって降りてきたことを意味する。けれど、周囲を見渡したところでいるのは勇耶たちのみ。だとすれば、用があるのは、勇耶たちに関すること。

 非常にまずい。

(駄目だ)

 断じて悪いことをした覚えはない。という認識でいても、客観的に考えてみれば自分たちは家出している。その事実、世間一般でいうところの悪いことに該当するだろう。警官に見つかれば補導されないわけがない。

 なぜなら勇耶たちは、こんな深い時間に外を歩いていていいはずのない、未成年の少年少女であるから。

『ちょっと君たち、こんな所で何をしているの?』

 と声をかけられると同時に、勇耶は弾けるように行動を起こしていた。警官に背を向けたかと思うと、一目散に駆けだすことに対して一切の躊躇はない。隣にいる栞の手首を掴み、暗闇へと疾走する。

『あっ! こらあぁ!』

 と後ろから怒鳴られたところで、待つわけがない。待つぐらいなら最初から逃げたりしない。走ってすぐに信号があり、斜面を下る階段がある。雑草に挟まれた階段を駆けてきた勢いのままに下っていった。階段両側には長い雑草が茂っていて進行方向を妨げており、足元が暗くてよく見えないが、逃げる勢いと後押しする重力に身を任せて一気に下っていくと、どうにか道路まで辿り着く。

 振り返ると、警官のシルエットがまだ堤防の上に見える。

 勇耶は鼓動の強さを認識しながらも、見知らぬ住宅街に入っていく。電柱の照明が自分たちを照らすので、咄嗟に手をつないでいない方の腕を顔の前に。

(っ!? っ!? っ!? っ!?)

 逃げているのは自分の体だというのに、自分が何をしているのかうまく把握できていなかった。酸素がうまく脳に回らないのか、今は思考回路が停止状態で、ただただ緊迫する衝動に身を任すままに駆けていく。そうしていないと、世界が終焉を迎える絶頂の恐怖に迫られている気がして。

『こらあぁ! 待ちなさいぃ!』

 静かな闇を裂くようにして警官の怒鳴り声が響いてきた。全身に稲妻のような衝撃となるが、だからといって改心するわけにはいかない。背後から迫る国家権力に身を震わせながらも、二階建ての住宅街の角をすぐ左折していく。

 猛獣に追われている小動物の気分で。

 決死。

(ぃ!)

 角を曲がる際、ハプニングが発生する。十字路で左折しようとする判断が一瞬遅れ、体が急に左方へと向いた影響で脚が絡まって転倒した。直後に激痛が走る、全身が痺れるように。けれど、痛がっている場合ではない。跳ねるように立ち上がると、また栞の手を取って駆けだしていく。すぐの次の道を右折。駆ける駆ける。

 首だけで後ろを振り返ると、警官の姿が確認できないため、逃げるよりも身を隠そうと近くの建物に入っていった。五階建てのマンションで、オートロックではなく誰でも玄関ロビーに入ることができる。一階にエレベーターが待っていたが乗ることなく、近くにあった階段を駆け上がっていく。

 勇耶は、コンクリートの階段に靴音が響くのをおっかなびっくり感じながら、二階と三階の踊り場に腰を落とした。

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ!」

 乱れる呼吸。周辺が静まり返っており、声を出すわけにはいかない。口元に手を押さえつつも、どうしても荒れる息遣いが漏れてしまう。苦しい。堤防の上から五百メートルも走っていないはずで、普段ならこんなに息が切れることはないのに、急に体を動かしたことで全身がパニック状態に陥ったかもしれない。心臓は暴れ馬のように激しく脈動している。分泌される大量の汗が頬を伝って、足元のコンクリートに黒い点を作っていた。

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ!」

 呼吸と呼吸の間に喉を鳴らし、また乱れていく……視線を逸らして隣を見ると、同様に呼吸を乱して前屈みの栞がいた。髪の毛が前に垂れていて表情をうまく確認できないが……五秒もすると栞は息を整えて顔を上げた。『どうしてこんなに苦しい目に遭わなくてはいけない!?』と双眸を見開かせている……そんな栞の表情を見ていたら、荒々しくざわめいていた心がゆっくりと静かなものになっていく。それは波が引いていくように、さーっと。混乱しているときに、さらに取り乱している人を見ると落ち着くとテレビでやっていたが、どうやらそれに近い状態にあるようである。

「はぁはぁはぁはぁ……はぁはぁはぁはぁ……」

 心は落ち着けても、息はなかなか整ってくれない。勇耶は意識して、大きくゆっくり深呼吸。

 すーはー……。すーはー……。

 音が漏れてこの場所が感づかれたら大変である。

 すー……はー……。すー……はー……。

「……わっ、まだいるよ」

 今いる踊り場は建物の西側に位置する。手摺りの隙間から堤防の上にパトカーのランプが見えた。すぐ顔を引っ込めて、階段の下の方に顔を向ける。

「もうちょっとここで様子を見よう」

 しゃがみ込み、勇耶は小さく表情を歪める。穿いているジャージの裾を持ち上げ、転んだ際に打ちつけた左膝を確認すると……痛みから想像できた通りに、皮が剝けて血が滲んでいた。小学生のときに自転車で転んだときのように。

「はぁはぁ……痛たたたっ」

「あぐっ!? 下釜くん、膝、血が出てる!?」

「しぃ、声が大きいよ。こんなの大したことじゃないから。いつも練習で怪我してるし。ちゃんと走れたから、骨に異常はないみたいだし」

「大したことなくても、ちゃんと消毒した方がいい。どこかに水道あると思うから、そこで洗おう」

「それはいいけど、もうちょっとしたらな。今はあのパトカーをやり過ごさないと」

 もう一回顔を出して、変わらず堤防の上にパトカーが停車していることに、小さく舌打ち。ちぃ。勇耶たちを不審に思い、応援を要請していたら厄介である。

 隣では、同様に栞が顔を出してパトカーを確認していて……その首が小さく傾いていく。

「ねぇ、下釜くん。どうしてわたしたち逃げなきゃいけなかった? 急に下釜くんが走り出したから、そうしなきゃいけないと思って走ってきたけど、よくよく考えてみると、別に逃げなくてもよかったんじゃない?」

「よくないだろ。よくよく考えたのなら、どう考えても逃げなきゃなんない場面だったじゃないか」

「どうして?」

「小首傾げられても……あのままだったら、おれたち捕まってたんだぞ。って、逮捕ってよりは、未成年だから補導になるんだろうけど。そんなの面倒なことになっちまうじゃないか」

 補導された同級生の話を聞いたことがある。外で煙草を吸っていて警官に補導され、警察署まで連れていかれた挙げ句に両親を呼ばれて、学校にも報告されて謹慎となり、それはもうさんざんだったらしい。警察に世話になるということは、職員室に呼び出されるなんて比較にならないほど過酷な目に遭い、親はもちろん大勢の人に迷惑をかける。苛まれる罪悪感はとても大きくなるに違いない。

 そんなの、ご免である。

「補導なんかされたら、困るだろ?」

「でも、正直に打ち明ければ許してもらえるかもしれない」

「しれなくないよ。んなもん、もらえるわけないじゃん。家出してきたことを正直に話したら、間違いなく連れ戻されると思うけど」

「でも、逃げるよりは正直にした方が……」

 栞は小さくぺこりっと頭を下げる。警官を前にしたシミュレーションするように、口を開けた。

「刑事さん、今日はほんの出来心でした。見逃してください」

「……素直なのはいいけど、罪認めてるから間違いなく補導されるよ」

「仕方がなかったんです。最近、旦那が構ってくれなくて、それでつい目の前にあった白滝しらたきを鞄に……」

「……あれ、罪が万引きに変わってる!? 専業主婦が私生活に刺激求めてる場合じゃないから。白滝って……」

「今回は、ほんの身代金目当てでした」

「……おれが誘拐されてるじゃないか!?」

「身代金目当て、だそうです」

「……おれが誘拐してんじゃないか!?」

 緊迫した状態でありながら、こんな馬鹿馬鹿しいやり取りをできること、とても心地いい。違和感なくふざけてられる現状は、二人の関係がこれまでない進展を迎えていて、勇耶にとっては喜ばしくある。

 できることなら、このままの勢いで互いのことを名字でなく、名前で呼び合う関係になりたいが……なかなか踏み出せなかった。

「いいか、斑美。よく考えてみろよ。警察に捕まったら、海にいけなくなっちまうんだぞ? そんなの駄目だろ? せっかくここまで歩いてきたのに」

「へっ……?」

「な、なんでそんなにきょとんとしてるんだよ!? 海にいくんだろう? そうやっておれのことを誘ったじゃないか? おれはそう決めたのなら、やり切りたい。お前と二人、海が見てみたい。お前はそうじゃないのかよ!?」

「そうそうそうそう。海、いかないといけない。お母さんと約束した。するっきゃない」

「だろ?」

 外で何かが動く気配がした。咄嗟に口元に指を当てて静かにするように相手に促す。

 周囲の空間は凍りついているみたいに、巨大な静寂に包まれている。心臓の音すらも聞こえそう。

 頭上にある照明に体当たりしている蛾の音が、恨めしくあった。

(…………)

 そうしてそのまま、勇耶は自身に迫ってくる大きな不安に覆われつつ、どこかのマンション踊り場で、栞と肩を寄せながら、流れていく時間に身を置いていく。今も自分たちのことを追っているだろう警官に怯えつつ、ここにいる自分たちの目的を果たすことを誓い、今はじっと身を縮めて静かに耐える。

 それが今の勇耶たちであった。

(……にしても、走りやすい格好でよかったー)

 ランニング途中の勇耶と、家を飛び出して病院の広場にいた栞は、二人が二人とも示し合わせたようにTシャツにジャージ姿。走るのには最適であり、最初から警官から全力で逃げることが想定されていたみたいに。

 もちろん偶然だが。


       ※


「ごめんごめん。急にそういうことになっちゃって、連絡するの忘れてた。うんうん、明日には帰るから。昼、までには、なんとか、だと思うけど……うん。うん。ごめんってば。謝ってるじゃん。うん、ごめん。ああ、もういかないといけないから。じゃあね」

 勢いよく受話器を置いて、ちゃりんちゃりんっと出てきた小銭をポケットにつっこんでいく。

(あー、帰るの憂鬱だな……)

 マンションの踊り場で三十分ぐらいじっとしていたら、堤防の上に停車していたパトカーがなくなっていた。きっと諦めたのだろう。

 その後、マンション一階の駐車場にある水道を拝借して、怪我をした左膝を洗うと、それはもう涙がちょちょ切れるぐらい水が染みた。悲鳴を上げたいところだが、心配そうにしている栞の前なので、奥歯を食い縛って我慢。

 堤防の上からファミリーマートの緑色が見えていたから、休憩することにした。家出をしてきた栞は、何の準備なく衝動的に飛び出してきたので財布を持っていない。に対して、勇耶はランニング途中だったが、帰りにポカリスエットを買う予定でポケットに五百円を忍ばせている。立ち寄ったコンビニでペットボトルを二本購入。店内にはあまり客は見当たらず、店員は若い男性。中学生がこんな時間に立ち寄ったら通報されるかもしれない。びくびくっと怯えていたが、アルバイトとされる男性店員は気にすることなくレジで盛大に欠伸している。ほっとした。

 トイレを借りて出ていくのと入れ替わるように栞がトイレに入っていた。そのタイミングを逃さず、外に設置されている公衆電話から家に連絡し、激怒している母親に『走ってる途中で友達に会って、天体観測することになった。今日は友達の家に泊まるよ。んっ? 誰って、母さんの知らないやつだよ。ごめんごめん』といった言い訳をしては、怪しまれる前に受話器を戻した。明日帰ったら間違いなく怒られるだろう。気を重たくしながら、ポカリスエットのペットボトルに口をつける。おいしかった。どんどん体内に吸収されていくのを実感することができる。自分がスポンジになった気分。

 その後、コンビニからまた堤防へと戻っていき、周囲に警戒しつつも川が流れていく方向へと歩いていく。目的地は、この先に待っている海。

「…………」

「そうそう、はい、飴」

 栞は筒状の飴を手にしている。十個入りのかりんのど飴。

「どうぞ」

「あれ? 飴なんて持ってたんだ」

「ううん、さっきコンビニで」

「あれ? 金持ってなかったんじゃ」

「うん、だからもらってきた」

「もらって……って?」

 目をぱちくりっ。

「どういうこと?」

「こんなのみんなやってる。って、わたしは初めてだったけど。結構どきどきした。店員の人、あんまりやる気のありそうな人じゃなかったし、もう二度といかない店だろうし」

「って、万引きじゃないか!」

 受け取ったのど飴。大きな文字で『十三種類のハーブエキスを配合』と記載されている。

「言ってくれたら、買ったのに。これぐらいだったら買えたから」

「でも、緊急事態だったから」

「……満面の笑みを浮かべられても」

「これで栄養補給」

「補給ね……」

 すでに口に入れているため、共犯になるのだろう。りんごにも似た甘みがあるが、勇耶にはどこか苦々しい味に感じられた。


 夜の帳に溶け込むように歩いていく二人の間に、一切会話はない。だからといって重々しい雰囲気があるわけではなく、蓄積される疲労によって喋るゆとりが失われていた。

 前に向かって、川の下流を目指して黙々と歩いていく。コンビニに寄った直後はパトカーのことを警戒していたが、三十分もしないうちにそれもなくなり、ただただ前だけを向いて歩いていく。

 視線を巡らせてみると、病院を出たとき南西方向に見えた愛名駅前の高層ビルが、今は北東方向に見える。その変化こそが、ここまで歩いてきた距離の長さを物語っていた。事実、立ち寄ったコンビニで見た時計は午前一時を回っていたので、かれこれ五時間は歩いてきたことになる。

 右手にある真っ黒の部分は面積を増やしており、そうして膨張することで街明かりを少しずつ消しているよう。それほど川幅が広くなったことを示していた。

 前方に緩やかなアーチ型の巨大な橋が見えた。その照明が水面に反射して輝いている。普段なら眺めることもできるが、今はそういった感情が芽生えるだけの元気はない。

 その胸は、左右に引っ張られているような苦しさがある。警察に追われ、母親に怒られたぐらいから罪悪感を抱くようになり、栞の万引き行為にショックを受けて、胸にある苦しみはきっと精神的なものであろう。味覚でいうところの、すっぱいものを食べた直後のように、自然と眉が潜んでしまう。

(…………)

 徒歩。あの病院の広場からここまでずっと徒歩。勇耶は動かしている足を止めることなく、白いベールに覆われるような朦朧とする頭で、ぼんやりと今日一日のことを振り返っていく。そんな気分であった。

(えーと……)

 本日は八月八日の火曜日。夏休みに怠けて朝は九時に起床。起きたときは全身汗びっしょりで、風呂に入ってシャワーを頭から浴びた。さっぱり。遅い朝食後に学校にいき、グラウンドでサッカー部の練習。隣のグラウンドでは陸上部が練習していた。つい目がいってしまう気持ちをぐっと抑え、練習に集中すべく、一心不乱に声を出し、サッカーボールを追いかけていく。昼休みは体育館前の日陰で横になると、すぐ眠りにつくことができた。ぐっすりである。ほんの一時間程度のものだが、目覚めたときはやけに爽快である。午後はぐんぐん気温が上昇していく炎天下での練習。過酷な環境下で苦行に耐えるように三年生中心のレギュラー組の相手をして、まだ空が茜色に染まる前に練習は終了した。下校時にコンビニで紙パックのジュースを飲み、一日の達成感を得る。家に帰って食べた晩ご飯は……そう、かつ丼だった。夏ばて防止のために無理してお代わりをしたのが遠い日のよう。少しテレビを観て、習慣であるランニングに出るために玄関を後にして……考えてみると、家を出る午後八時までいつも通り。だというのに、その数時間後の現在、どことも分からないこんな暗い夜道を歩いている、という非日常に身を置いている。奇妙でおかしな因果に巻き込まれているとしか思えなかった。けれど、その因果に自ら進んだのだから、どこにも感情をぶつけることはできない。今は目的地に向かって歩いていくのみ。そもそも、なぜこうして堤防の上を歩くことになったかといえば……ランニング途中に病院のベンチで栞と会い、家出している事実を知り、海にいくことを誘われた。歩いている間に栞の悩みを聞くも、解決できるようなアドバイスをすることができず、自身のことを情けなく思ったこと、今でも心が鈍くなる。歩いている堤防の上は暑くて、それでも最初は栞と二人で歩いていることが嬉しくて、ずっとずっとこのまま歩いていたくて、けど、一台のパトカーに阻まれた。急いで逃げた際に転倒し、隠れたマンションの踊り場で息を潜めたこと、心臓がばくばくっ! であった。パトカーがいなくなってから駐車場の水道で打ちつけた左膝を洗ったとき、どれだけ痛かったか、今でも思い出すと顔が引きつるものがある。苦笑。そう意識すると、歩いている今も左膝に針が刺さるような痛みを得た。痛い痛い。その後。コンビニの公衆電話で親に連絡し、そこで飲んだポカリスエットがとてつもなくおいしかった。それを飲むためにこれまで生きてきたのかも、と思えるぐらい。大げさかもしれないが、一生忘れることはないだろう。多分。そして栞からもらった飴を口にしながら、また堤防の上を歩いている。栞と二人、覆われる闇を掻き分けるようにして。

(…………)

 ここまでの疲労が出てきたのだろう、急に体がだるく、重たくなってきた。負傷した左膝は変わらずに痛くずきずきっするし。そんな現状において、目的地はまだ見えてこない。自然とその口からは、大きな息が漏れてしまう。

「はあぁー……」

 三十メートル前方に外灯がある。ぽぉっと空間を浮かび上がらせ、道路の両側に生えている雑草が小さく揺れていた。

 その明かりに近づくと、隣人の顔を確認することができる。ぐったりとしていて、口が半開きになっており、どこか間の抜けたものと化していた。普段の陸上部ホープには珍しい姿。極度の疲労感は、栞のかわいらしさを劣化させていた。

 その瞬間、『千年の恋が冷める』というのは大げさかもしれないが、ぱっと夢から覚めるような思いが走る。

 だからこそ、不満も含めて言葉が口から出てしまう。そんなこと、この段階で言うべきことではないと分かっているが、口を止めることはできなかった。

「……あーあ、いったい何やってるんだろうね、おれたち」

 子供が家出なんかして。

 夜の間、ずっと堤防の上を歩いてきて。

 警官から逃げて、疲労が蓄積された体が鉛のように重いというのに。

「なんでこんなことになったんだろ?」

 自分自身に疑問。こうして堤防の上を歩かなければならない理由、勇耶には見当たらない。ただ病院の広場で見た栞がとても不安定に見え、とても危うく感じた。このまま一人にしてはいけないと、無謀と思えることについていくことに決めたが……改めて考えてみれば疑問である。こんな夜の深い時間、いったい何をしているのだろう?

「おれたち、どうしてこんな場所歩いてるんだっけ?」

「家出してるから」

「それはお前がだろうけど……海にいく必要あるんだっけ?」

「お母さんと約束したから」

「それもお前がだろうけど……ははっ、家出するのに海を目指すって、まったくさぁ! 意味が分からん!」

 強まった感情に奥歯をぐっと噛みしめたくなる衝動に駆られ、無性に頭が痒くなってきた。かきかきかきかきっ。暑い。胸がむしゃくしゃしてしまう。かきかきかきかきっ。ここにいるだけで、苛立ちが募っていくようだった。

「こんな変な形で頑張らなくてもさ、海にいきたきゃ、明日電車でいえばよかったんじゃないのぉ!?」

 勇耶の語尾は随分と刺々しくなるが、今はどうすることもできない。

「なんでわざわざ歩いてるんだよぉ!? 馬鹿じゃないのぉ! こんな苦労しなくても、電車でいけばいいんじゃないかぁ!?」

「お母さんとの約束は、歩いていくこと」

「それはお前がなぁ! おれじゃないぃ!」

 栞の発言もそうだし、こうして歩いている行動も、暗い周囲の風景も、肌にまとわりつくような空気も、ありとあらゆるものがむしゃくしゃして仕方がない。勇耶は、疲れている体を鞭打って声を荒げていく。

「なんでこんなわけの分かんないことになってんだぁ! もう意味分かんないよぉ!」

 思考は、どす黒い無数の糸に雁字搦めに縛られているみたい。感情のコントロールを失い、口から吐き出される言葉のすべてが栞を責め立てるものとなってしまう。

「家出なんてお前のわがままだし、お前が子供だからこんなことになってるんだろうがぁ!? そんなの、現実から逃げてるだけじゃないないかぁ! 直面してる問題に向き合えずに、ただそこから背を向けてばっかでさぁ!」

「……わたし」

「いい加減、認めないといけないんだよぉ! お前はまだ子供で、子供だからこんな無意味なことでしか今から逃げる術が思いつけないんだぁ! 家出ってぇ!? しかも海を目指すってぇ!? いったいどうなってんだよぉ!? いやなことがあるからって、逃げ出そうとするなぁ! 目を逸らすなよぉ!」

 本来、こんな風に栞を追い込むようなことを言うべきではない。それは分かっているが、激情が勇耶の内側から湧き上がってくるように吐き出されていく。そうしていないと、もうこの場に立っていられないほど、情熱が沸騰しているから。

「お前は逃げるだけなんだぁ! 本当に見なきゃいけないものを見ずに、自分のわがままでこんなわけの分からない状況に陥ってさ、いったい何がしたいんだよぉ!?」

「…………」

「はんっ! お前の家の事情だから、詳しいことはおれには分からないけどさ、けど、抗議したいならこんな形以外の方法はあったと思うぞ。お前だって本当は分かってるんだろう、自分がいかに無力で無意味なことしかできてないかってこと? これが正しいって思い込んで家出したところで、何も進展しない。じゃあ、なんでこんなことしているかっていうと、それはお前に何かを変える力がないから、目の前のものから逃げてるだけなんだよぉ!」

「…………」

「おれたちは子供なんだ。体が大きくなったところで、義務教育を受けてるような子供なんだよ。理不尽に思えることだってたくさんあるだろうし、それをどうこうする力はないさ。子供だからな。だろ? 社会なんて知らないし、アルバイトすらしたことないから金だって稼いだことないし、親に養ってもらえないと生活だってできないし」

 できないできないできないできない。

「生意気な口はきけても、何もできないんだよ。だから、できないこと、子供であることを、しっかり自覚すべきなんだ。しんどいことがあると、それから逃げ出すことを考えるんじゃなくてさ。金がないからって、万引きなんてすんなよ」

「……わたし、子供だってこと、知ってる」

「だったらぁ! 今やろうとしていることが意味のないことぐらい、ちゃんと分かってるだろぉ!? 海にいきたいなら、歩かなくても電車でいけばいい。こんな遅い時間じゃなくて、ちゃんと家の人に断っていけばいい」

「……わたしは、自分が子供だってこと知ってて、何かを変えられるだけの力がないことも知ってる。ちゃんと分かってる、そんなことは……」

 ぐっと息を呑み、栞は言葉をつなげる。決して下を見ることなく、意思を告げるように正面を向いて。

「それでも認めたくないことはある」

 そういう強い思いがある。

「変える力はないけど、どうしても譲れなかったから、だから今回は抵抗する方法がこんなことしかなかった。けど、これがあるなら、やってみたい。無益なことだって分かっても、わたしはする」

 スピードが徐々に遅くなり、一度止まりそうになる栞の足であったが……しかし、断じて止まることはない。次の一歩を前に踏み出していく。これまでにない力を込めて。

「こんなことでも、わたしにとっては、大事。譲れないことを譲らないことだって大事だと思う。それがどういった結果になるか分からないけど、でも、やってみたいって思った」

 それが栞の主張だから。

「それに、こうして歩いているのは、お母さんとの約束だから、意味はある」

 遠い日のことを思い返すように、視線を前方に瞬く星に向けていく栞。

「お母さんが入院したとき、その、うまく言えないけど……もう駄目だって思った」

 当時小学二年生でありながら、日々の経過とともに顔色が優れなくなる母親に対し、死を察していた。身近な人物の死を体験したことがないのに、栞に灯る一つの生命が、目の前の命の終焉を悟っていたのである。

「けど、そんなのいやだから。お母さんが死んじゃうなんていやだから。だから、いっぱい約束した。お母さんといっぱいいっぱい約束した」

 春になったら花見にいこう。

 川を越えたとこにある田んぼでおたまじゃくしを捕まえよう。

 ディズニーランドに遊びにいって、ミッキーの耳を頭につけよう。

 河原にある花で互いの王冠を作ろう。

 一緒にランニングをして体を鍛えよう。

 クリームいっぱいのパフェを食べよう。

 秋になったら青願公園の銀杏祭りにいこう。

 運動会で一番を目指そう。

 いろんな本をいっぱい読もう。

 雪が降ったら雪だるまを作ろう。

 初詣にいって、お汁粉を飲もう。

 お父さんの大学に遊びにいこう。

 いっぱいいっぱい楽しい思い出を作っていこう。

「お母さんが退院した後のこと、いっぱいいっぱい約束した。約束すればするほど、お母さんが無事に帰ってきてくれる気がして」

 約束の数が多ければ多いほど、大切な存在を失わずに済むと栞は信じていた。それが叶わぬ夢であると悟りながらも、栞は今できる最大の笑顔を浮かべていったのである。

「病院から庄乃川を眺めることができたから、いつか川沿いを歩いていって、一緒に海にいくこともお母さんと約束した。だって、そうできれば、お母さんはもう元気いっぱいなはず」

 けれど、約束したすべてを叶えることはできなかった。一度も退院することなく、他界したから。

「……遅くなっちゃったけど、今からでもお母さんとの約束を叶えれば、約束を果たすことができる。そうしないと、約束が約束じゃなくなっちゃう」

 母親は栞に一度だって嘘はつかなかった。ならば、あの約束はまだ叶えられていないだけで、これからだって果たすことができる。そうすることで、栞の中にいる母親の存在を感じられるから。

「わたしは、お母さんのことが、好き……」

「…………」

「だけど、やっぱりお母さんは死んじゃった」

 この世にいない人。

 一瞬、栞の瞳が鈍っていくが……光は決して失っていない。

「でも、こうやってお母さんのことを思っているのも、大事。大事だけど、わたしは生きてるから、死んじゃったお母さんも大事だけど、今いる人の方が大事だと思う」

 死んだ人を思うだけではなく、今ある世界を見ていかないといけない。栞はそれも分かっている。

「ちゃんと今を考えていかなくちゃいけなくて、お母さんとの約束はなかなか果たせなくて、大変。けど、頑張らないといけない。それがわたしにできること」

「…………」

「……ごめん。なんか、自分でも言ってることがよく分からなくなってきた。ごめん」

「…………」

「下釜くん、こんな無茶苦茶なわたしに付き合わせちゃって、ごめん。家を飛び出してきたのはいいけど、自分でもどうすればいいか分からなくて……ごめん」

 栞は右手の甲で目の下を擦る。そうして込み上げてくるものを抑え込むように。

「海、いきたい」

「…………」

「わたしの、わがままで、迷惑、かけて……ごめん」

「…………」

 空間には呟くような栞の言葉につづいて、小さく鼻を啜る音が聞こえてくる。それを右耳にする勇耶は、心の大切な部分に深い傷を負った気分。前以外に視線を向けられなくなってしまう。

 荒々しかった気持ちは過ぎ去り、今は静かな水面を慎重に歩いている。

(おれは……)

 勇耶が見ていた栞は、いつも気丈であった。陸上部のホープで、学校の成績もよくて、学級委員に選ばれて……常に強くて、どんなことも無難にこなし、眩いばかりに輝く存在。

 けど、隣にいる栞には輝きのかけらも見出せなかった。ここにいるのは、一人のか弱い少女。安定しない視線を彷徨わせたまま、現実から背を向けることでしか存在を保つことができない。その足取りは弱々しいもので、しかし、目指す前に向かって足を動かしていく。そうあることがその存在の意義であり、意地であるみたいに。

 勇耶は、感情を荒げてぶつかったことを反省しつつ、隣を歩く栞の支えになってあげたいと思った。できることなんて限られているだろうけど、今なら世界中の誰よりも栞のことを支えることができる。こうして隣で歩くこと、勇耶にしかできないことだから。

(……頑張らないと)

 具体的にどう頑張るかは分からない……こうしているだけで支えになれているか定かでないが、しかし、勇耶は失いかけていた気力を胸に、明かりの瞬きが消えていく夜の帳を歩いていく。

 その瞳は真っ直ぐ前を捉える。遠い道だとしても、諦めさえしなければ必ずゴールできると信じて。

(…………)

 眼前に広がる世界の闇は、こうして模索しながら歩いている自分たちを示しているようであった。


       ※


 独特の球体な輪郭が、暗い夜の世界に見えた。はっきり視認したわけではないが、ガスタンクであること、なんとなく分かる。

『なぜガスタンクはあんな球体をしているのか?』

 以前疑問に思ったことがあるが、まだ答えを得ていない。この夏休み中に調べておこうと頭の片隅に追いやるも、きっとそんなことはしないだろう。なぜなら、今は半分開けられた口もろくに閉じることができない疲労困憊の状態では、浮かんだ疑問はすぐ忘却の彼方へ追いやられていくから。

「…………」

 深い霧の中にいるみたいにぼんやりする頭でここまで前だけを見て夜の闇を歩いてきた。前方にはアーチ状の鉄橋があるが、乗用車の明かりが横切ることなく、世界は静寂という無音でかちこちっに凍りついているみたい。前方の信号は点滅していた。勇耶たちの方は赤色が点滅していて、もう一方の方は黄色が点滅している。『あっ、故障してる。大変だ』と思うも、交通量がない現状ではその役目を果たしていないので慌てる必要もないし、そもそも慌てる気力も残っていない。一応視線だけで左右の安全を確認して渡っていく。

(…………)

 交差点を越えてこれまでのように堤防の上を歩いていこうとするも、背よりも高い柵が設置されていて前に進むことができなくない。進路を塞がれたことに少し首を傾けて、迂回することに。朦朧とする意識でも、どうにかその選択をすることはできた。

 堤防の上から見渡してみると、この辺りには住宅が少ないようで、深い暗闇が広がっている。すぐ近くに二メートルほどのコンクリートの塀があり、それに囲まれた広大な土地があった。いくつもの煙突が見えるので何かの工場だと推測できる。建物からも明かりが漏れてくるので、こんな深い時間でも工場は動いているのだろう。

 工場の塀沿いに歩いていくと、信号に突き当たった。こちらは点滅しておらず、赤である。赤は止まれで進むことができない。立ち止まっていることが辛く、近くのガードレールに腰を落として……瞬間、眠りの世界に落ちていった。視界が真っ黒となり、そのまま吸い取られるように意識が失って……体ががくんっと落ちる反動とともに、反射的にバランスを取るように体を起こす。視界にある信号は青に変わっていた。体の芯から痺れているような重たい体を動かしてゆっくりと腰を上げる。動作は錆びついているみたいに鈍いものとなった。同様に隣で舟を漕いでいる栞に声をかけ、工場の塀沿いを歩いていく。

(…………)

 歩いている道は誰も通りかからない。電柱に設置された街灯の明かりを頼りに歩いていき、歩いていって歩いていって歩いていって歩いていって……突き当たった階段を体に鞭打つように上がっていくと、再び堤防の上に戻ることができた。

 視界には光のない真っ黒な世界が広がっている。地の底から迫ってくるみたいに重厚な水の音により、目の前にある闇が庄乃川であることが分かる。周囲を見渡しても、もう愛名駅前のビルを確認することはできない。暗くて川は見えないが、自分たちが歩いてきた方向を確認して川が流れていく方向を確認し、また次の一歩を踏み出していく。

(…………)

 この時間、普段はベッドの中だから気にならないだろうが、何時間もこうして歩いてきて、飴しか食べていないからきっと空腹を得ているのだろう。しかし、今はそれを超越する疲労感により気になることはない。重たいのも引きずるような鈍い両足も、今の勇耶には気にかけているゆとりはない。ただ今は、前へ。前へ。

 その足取り、歩いているというよりは、ふらついているという方が的確である。ふらっとした足が前に出て、進む。またふらっとして、進む。前にふらっとして、前に進む。

 進む……進む……進む……進む……。

 夢遊病者のように。

(……っ)

 不意に鼻に違和を得た。鼻腔をくすぐるものがあったからで、それは吹きつけてくる風に含まれている。じめっとしている空気に、草木よりももっと青々しく生々しい匂いが含まれていた。

 そう意識した瞬間、これまでほとんど機能を失った勇耶の嗅覚を大きく埋め尽くしていく。

(……これって)

 細胞を刺激する懐かしい感じ。田舎の祖母の家にいくとき、電車から降りたホームで感じる潮風に直結した。

(……海)

 肌が海を感じる。まだ真っ暗で、世界をまともに見ることができないというのに、その体は追い求めていた世界を見つけることができた。

「海、だ……」

 顔を上げると、遠くの方に明かりが見える。形が特徴的な『干』になっているから、小学校の遠足で訪れた港ビルである確信を持てた。少し視線を横に逸らせば、ぼんやりと蒲鉾のような屋根の水族館も確認できる。観覧車はこの時間に照明は点けられていないが、あの辺り一帯が遊園地のシーランドに違いない。

「ああ……」

 ついにゴールを視界に捉えることができた。

 現実に背中を向けた栞についてきて、終着点の見えない深い闇をただ前だけを向いて歩いてきて、歩いて歩いて歩いて歩いて、ようやく希望の光を見つけたのだ。

「斑美、見てみろよ。ほら、海だ」

「……うん」

「やっと、やっと」

「っ」

「あ、おい!」

 突如として駆けだした少女に対し、勇耶は反射的にその背中に手を伸ばすも、掴むことができなかった。呆然とその背中を見つめていて……ただ、じっとしているわけにもいかず、重たい足を持ち上げるようにして駆けていく。

 上半身を前に出し、体を傾けてまで右腕を前に出す。少しでもそちらに近づけるように。

(待て)

 待ってくれ。

(海に)

 置いていかないでくれ。

(一緒に)

 一緒にゴールしよう。

(斑美)

 もっと速く。目の前の背中に追いつけるように、横に並べるよう、駆けていく。

 駆けて駆けて駆けて駆けて、大切な存在を追い求めていく。

「斑美」

 駆けて駆けて駆けて駆けて……動かしているのは自分の体であるが、あまりにも感覚が希薄となった。そんな全身を鞭打ち、向かってくる潮風に顔からぶつかるように駆けていく。

 今まで緩やかに流れていた闇が、急激なスピードで迫ってきては後ろに流れていく。そうして、ずっと覆われることしかできなかった闇の世界を、次々と突き破って。

「斑美!」

 観覧車が随分と大きく感じられるようになり、隣接する巨大なショッピングモールの長方形な輪郭が見えるようになる。

 目指したゴールは、もう目と鼻の先!

「斑美!」

 駆ける駆ける駆ける駆ける。

 少し前をいく栞の背中に、腕を精一杯伸ばせば手が届きそうで、届かない。

 駆ける駆ける駆ける駆ける。

「斑美ぃ!」

 体が熱い。心が熱い。世界のすべてが熱い。

 視界にある『干』の形をした港ビルは防波堤ぎりぎりに建てられているが、それが今は巨大な壁のよう。

 勇耶はすでに港公園に入っており、枝葉の揺れる木々が目立つようになっていた。設置されている照明は、青々とした樹木をぼんやりと浮かび上がらせている。

「斑美ぃ! 斑美ぃ! 斑美ぃ! 斑美ぃ!」

 駆ける駆ける駆ける駆ける。

 前をいく栞の背中を見失わないよう。

 懸命に駆けていく。

 その命を振り絞って。

 心のすべてをぶつけるように。

「斑美いいいぃーっ!」

 茂みの間にある狭い道を抜けていくと、目の前に膨大な漆黒の闇が広がっていた。心が吸収されてしまいそうなほど、深い闇色。

 その手前に栞が立ち止まっている。ようやく追いつくことができた。そこには勇耶の腰ほどの高さの手摺りがあり、栞はその向こう側を見つめている。

 視線を横に逸らすと、今までずっと前に見えていた『干』の建物が横に聳えていた。

 その耳には、大量の水が押し寄せてくる波音。

「……着いた」

 確認するまでもない。海である。一晩中目指してきた海に、とうとう辿り着くことができた。

 肩を激しく上下させながら呼吸を整えて、勇耶は安堵の息をつく。

「着いたんだ……」

 これまで何度も諦めかけそうになり、辛い思いを投げ出すことで楽になりたかった。けれど、挫けることなく、隣人の存在を感じながら歩いてきて、黙々と淡々と懸命に精一杯歩いてきて、ついに辿り着いたのである。

「海だあああぁ!」

 絶叫。夜の闇に広く響いていく。

 ここから先、勇耶の視界を阻む建物はない。終点のない大宇宙すら感じるほど膨大な海と膨大な夜空が待ち受けている。

 勇耶は手摺りから上半身を乗り出し、腹の中心に力を込める。あらゆるすべての細胞を解き放っていく。

「わあああああああああああああああああぁぁぁぁぁーっ!」

 絶叫。そうする意味は分からない。ただ、勇耶の存在が全身の隅々から叫び声を上げている。

「わあああああああああああああああああぁぁぁぁぁーっ!」

 全身は激しい疲労感によって麻痺しているようで、すぐにでも膝から崩れていってしまう。けれど、込み上げてくる叫び声を上げることが、今の勇耶であるように、自身が発する絶叫が空間を木霊していく。

「わあああああああああああああああああぁぁぁぁぁーっ!」

 叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ。ここまで走ってきた苦しさも息の乱れも関係ない。全身がスピーカーになったみたいに叫び声を上げていく。

「わあああああああああああああああああぁぁぁぁぁーっ!」

 そんな勇耶の横では、やはり栞が同様に声を出している。勇耶同様に意味のない言葉を咆哮しているようでもあり、誰か大切な人の名前を叫んでもいた。

 隣にいる栞のこと、今の勇耶には構っている余裕はない。一緒にここまで歩いてきたが、今は自分のことで精一杯。

 瞼を閉じて、手摺りから上半身を乗り上げて、押し寄せてくる波を打ち返すように、ありったけの大声を発していく。

「わあああああああああああああああああぁぁぁぁぁーっ!」

 目の前の闇は、ずっと抱いてきたさまざまな感情をすべて吸収し、きれいに浄化してくれるみたいであった。


       ※


「…………」

『変な叫び声を出している動物が港にいる、と通報されたらどうしよう?』そう客観的に思った、今までの自分たちのことを。勇耶の頬は自然と緩んでいき、全身から力が抜けていく。

 設置されているのは、古いランプを思わせるような照明。それに照らされるベンチがあった。背もたれつきのベンチで、ぐったりと深く寄りかかっていく。

「…………」

 この場所に立っていること、心の限りに叫び声を上げたこと、それらにより巨大な達成感に包まれていた。徒歩でこの場所まで辿り着けたこと、一つの神秘に遭遇したみたい。気がつくと、今まで感じた理不尽な思いややり切れない理由が、どこか遠い地に飛んでいった。

 草原を吹き抜ける風に頬を撫でられるような心地よい気持ちで、向かってくる潮風を受け止められている。眼前の深い闇からくる波音に小さく耳を傾けていく。

「なぁ、斑美……やっぱりおれたち、子供なんだな」

 それは隣人に話しかけている言葉であるが、しかし、自身に言い聞かせる言葉でもある。

「笑っちゃうよな。たかだか海きたぐらいで、こんなにやり切った感があるなんて。大人だったら、こんなことでこんなに喜ばないだろうから」

「でも、大人の人、車使うから、こんな感動ないと思う。歩いてきたこと、ほんとに凄い」

「ああ、それはそうかもな」

 充実感で漲る今は、どうしていたところで口元が緩んでしまう。『箸が転んでもおかしい年頃』のようなものであり、『オリンピックで金メダルを首からぶら下げている』という印象でもある。確かなのは、存在が充実しているということ。もしかすると、細胞が活性化されているのかもしれない。勇耶はこの日を境に大きく成長することは間違いなかった。

「なあ、斑美」

 今の自分は、これまでの自分ではない。この世界を満たしている大きな充実感に背中を押されるようにして、気持ちが素直に表に出ていく。

「おれは斑美のことが好きなんだぜ」

「うん」

「一年なのに県三位になって、尊敬に近いものがあったかもしれないけど、今はちょっと違う」

「うん……」

「本当に大好きなんだ」

「…………」

「おれなんかじゃ役に立てないっていうか、お前の悩みを解消してやれないかもしれないけどさ、でも、一緒に悩んでやることはできるから」

「…………」

「あのさ、斑美。その……」

「…………」

「ほら、今は真っ暗だけどさ、次に太陽が出るとき、おれ、お前の彼氏になれてるかな?」

「…………」

「…………」

「…………」

「……斑美?」

 全身から振り絞った勇気を胸に、告白できた。あとは相手からの返事待ちであるが……別に急ぐ必要はない。今でなくても、家に帰ってからでも、夏休みが終わってからでも、栞が抱えている悩みが解消してからでも構わない。

 ただ今は、こうして隣にいられるだけで幸せだから。

「斑美、もしかして、寝てる?」

「すー……」

「……そりゃ、眠いわな」

 勇耶の全身が激しい脱力感に苛まれていく。

 一晩中歩いてきたのだ。しかも、前日は部活の練習があった。ベンチに腰かけたら、落ちるように眠ってもおかしくない。それは勇耶も同じで、そう思うと、体から力が抜けていく。

「斑美、おやすみ……」

 勇耶も重たい瞼が下りると同時に、意識が途切れていく。

 しかししかし、だがしかし、眠りの世界に落ちる寸前、隣から声が届けられた、気がした。きっと気のせいだと思うが、希薄となった勇耶の意識では確認する術はない。

『これからよろしく、下釜くん』


       ※


 次に目覚めたとき、太陽が水平線から顔を出していた。真っ赤な火の玉が世界を闇から救い出し、それは勇耶にとって、父親の田舎にいったとき以来の光景である。感動的な色合いであるが、世界にとっては毎日ある当たり前の色なのだろう。

 立ち上がろうとして、顔を歪めることになる。硬いベンチで寝ていたせいか、体の節々が痛かったから。

 横を見てみると、すでに栞は目覚めており、にっこりと微笑んでいる。

『もう帰ろう』

 そして二人は、朝の涼しい空気を肌に感じながら、ベンチを後に。朝になると、港には何年も前に役目を終えた南極観測船を眺めることができた。『立派なものだな』とすぐ横を通り過ぎていって……問題に直面する。さすがにこの距離をまた歩いて帰るのはしんどい。すでに体が悲鳴を上げている。だとすると公共交通機関に頼る必要があり、地下鉄の駅は近くにあるが、所持金は勇耶が所持している百五十円のみ。これでは中学生二人は乗車することができず、半額の小学生に成りすましたとしても一人しか乗れない。

『果たして帰路はどうしたものか?』駅前で頭を悩むことになるが、その問題は栞が解決した。駅前にあった交番に栞が入っていき……二十分後に千円札を手に戻ってきたから。

 曰く、『財布を落としたことにして、お金借りた』らしい。こんな朝早い時間に、Tシャツとジャージ姿の女子中学生が、人気のない港公園にいること自体、かなり怪しいものがあるが、その辺は栞がうまくやった様子。『水平線の日の出を観察することが学校の宿題になってる』と立ち振る舞ったらしい。さすがは栞である。問題解決力が備わっており、度胸満点であった。きっと勇耶ならぼろが出て、補導されていたに違いない。

 警察にお金を借りたという事実、昨日警官から逃走した身なのに、随分と図々しいものがある。なんとも心苦しい思いを抱きながら、地下鉄に乗った。

 始発から三番目の電車は、人気がまるでない。ホームも静かで車内もわざわざ席を探す必要がなく、入ったすぐの座席に腰かけていく。

 座席に座ると、また眠りの世界に誘われ、小刻みに揺れる電車が走る暗闇を抜けていくと……あっという間にくろかわ駅に到着した。家の最寄り駅。

 時計を見ると、地下鉄に乗ってから四十分経過していた。つまりは、勇耶たちの一晩の大冒険は、地下鉄四十分の意味合いしか持たないことになる。たったの四十分……なんともやり切れない思いに駆られてしまった。

 二人とも、体を引きずるようにして地上に出て、まずは国道の交差点に向かっていくが……駅前の交差点において、突然正面から声をかけられた。見てみると、そこに理科教師の森乃山が仁王立ちしていたのである。

(っ!?)

 瞬間、全身が凍りつく思いだった。どう反応もできずに、ただただその場から動けずにいると……森乃山は血相を変えて駆けてきて、一目散に栞の頬を叩いていた。

 ぱーんっ!

 乾いた音が交通量の少ない交差点に響く。

 瞬間、すべてが終わった気がした。これまでのことも、これからのことも。ただただ口を半開きにして、目の前の光景を見つめるしかなかった。

(…………)

 勇耶の横を風が吹き抜けていき、その僅かな時間で勇耶の意識が状況を把握しようとする際……隣にいる栞の肩が小さく動き、その瞳から涙が溢れ、まるで幼子のように泣きじゃくっていった。両手の甲で涙を拭っていきながら、国道を歩いていく。声を上げ、泣くことが今できるすべてであるように。

 交差点の真ん中、高速道路の下、朝早く出勤していく背広姿が訝しいように見つめてくる。状況としては大人が少女に暴力を加えている、というもの。下手をしたら警察に通報されるかもしれないが、そんなことを言い出せる空気でなかった。

 とにかく泣きじゃくる栞、肩を上下させて激昂している森乃山、死刑を待つように身を強張らせる勇耶。当然自分も叩かれるのを覚悟したが……物凄く不平等なことだが、森乃山から制裁を受けることはなかった。ほっとすると同時に、胸には罪悪感が濁るように広がっていく。どうせなら叩かれた方が楽になれたかもしれないのに。

 その後、まずは栞の家まで送り届け、それから森乃山とともに家に帰る。親の顔を見ずに森乃山が帰っていってくれたこと、助かった。そうしていたら厄介指数が上昇していただろうから。

 家に帰ると、髪の毛を逆立てる母親にとことん説教され、眠って起きてからもまた母親に雷を落とされることとなり、さんざんだった。救いがあるとすれば、今日部活の練習がなかったことぐらい。あったら、とても動けそうになかったから。

(あー……)

 過酷だった一晩の大冒険の名残は、なんとも後味の悪いものとなる。

 嘆息。


       ※


 そうして夏休みの一日は過ぎていった。一生忘れられない夜になったことは間違いない。

 あれだけの過酷な一夜を過ごしたのだから、勇耶を取り巻く世界は一変する……と思ったが、そんなことはなく、世界は日常を形成していく。

 同級生が経験したことのない夜を越えたところで、みんなに英雄視されることなく、そもそもあの夜のことは誰にも打ち明けておらず、相変わらずサッカー部では試合に出られるようにレギュラーを目指して汗している。盆休み明けの大会初戦で敗退し、三年生は引退した。勇耶はいよいよ最上級生となり、新チームが始動していく。三年生がいる間は試合に出ることができなかったが、去年からつづけているトレーニングが功を奏してか、ベンチには入れるようになったので、これからがチャンスである。秋の大会に向けて練習に精を出していく。


 そして、長いと思っていた夏休みはあっという間に過ぎていった。二学期は文化祭や体育祭といった行事で忙しく過ぎていき、中間テストが過ぎると、十月下旬の日曜日となる。

 東凪中学校の陸上部が県大会に挑む日。

 勇耶は陸上部関係者でないが、競技場まで応援にいき、見事に走り高跳びで栞が優勝する場面に居合わせることができた。栞は夏休みを経て、スランプを脱していたのだ。勇耶が見ても、体が軽々とバーを越えている。まるで背中に翼でも生えているみたいに。相変わらず練習のときは顧問の森乃山と衝突しているみたいだが、以前あった絶望的な距離感は随分縮まった様子。

 表彰式でメダルを首からかけた栞の姿に、勇耶も『今度は自分が!』と熱く拳を握る。去年触発されたのと同じように。

 大会閉会後。陸上競技場の外、陸上部の輪を見つけ、遠目で見ていると、そこから手招きされた。勇耶のことを呼んだのはクラスメートの神田林藍。小柄。喜色満面のにやにや顔が気に食わなかったが、そこは気づかない振りをして近づいていく。輪の中心にいる制服姿の栞を前にして、声をかける。

「優勝おめでとう、

 勇耶の声に、栞は頬を大きく緩ませ、幸せに満たされた笑顔を浮かべたこと、とても嬉しかった。ここまで生きてきて本当によかったと思えるほどに。

 二人の間を吹き抜けていく秋の風には、もうあの夏の日の暑さは含まれていないが、新たな季節は新しい生活をこの世にもたらしていた。

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