第3話 オースターの秘密

〈汚染〉は数日をかけて、じわりじわりと平野を侵していった。

 影に触れた草は不気味にただれ、水はあっという間に腐り、異臭をたちのぼらせるようになった。

 あとの調査でわかったのは、〈汚染〉はアラングリモ公爵領の三分の二を呑みこんだところで、ようやく拡大をやめたということ。呑まれたのはアラングリモ領だけでなく、ドファール公爵家の領地を含め、国土の四分の三にまでのぼったこと。

 特に、隣国と接した北部の被害は、壊滅的だった。

 北部の民は、南部にあったために〈汚染〉の被害を免れた首都ランファルド市に移住を余儀よぎなくされた。今では〈汚染地帯〉とのに、〈北の防衛柵〉と呼ばれる汚染拡大監視所が置かれ、機甲師団が常駐している。

 戦後十年が経った今でも、〈汚染〉の原因はわかっていないが、二つの大国のどちらかが使用した兵器の副産物だとする説が有力だ。

 なんにせよ、〈汚染〉は北方の国のどこかではじまり、隣国を経由して、ランファルド大公国を北部から呑みこみ、南部の首都に到達する前に停止した――。

 アラングリモ家は、領地を捨てた。

 領民とともに首都ランファルド市に移り住んだのは、オースターが六歳の頃だ。

 〈汚染〉を免れた三分の一の領地は、国営計画農産地として国に提供することとなり、領民もまた農産地の従業員として召しあげられた。


『アラングリモの名にふさわしく、誇りあるふるまいを』


 亡き父は、幾度となくオースターにそう教えこんだ。

 祖先の名に恥じぬよう、誇りたかくあれ――アラングリモ家の家訓である。

 だが、守るべき領民はもういない。領地の運営も手から離れ、豊かな土地にしてやろうという気概だって持ちようがない。

 それでもオースターが品位や誇りに気を配るのは、ひとえに父の教えを守ってのことだ。

 ……なのだが。


『空っぽな答えだな』


 トマの声が脳裏をよぎり、オースターはむうっと頬をふくらませる。

「前言撤回。やっぱりトマは気に入らない」

「大いに賛同いたしますよ、オースター様。――それにしても、どうしてまた下水道掃除夫なのです? この間まで、『僕は機甲師団になるんだ!』と息巻いていらしたのに」

 どきりとした。ルピィにはめられたことは、ラジェには内緒にしているのだ。

 従者に話したら、母にまで伝わってしまう。母は父を亡くしてからずっと病床についておられる。余計なご心痛を与えたくなかったし、なにより己の問題を自力で解決できない無能者とは思われたくなかった。

「……それは……その……おもしろそうな仕事だなあ、と思って」

 もごもご答えると、ラジェは目の下のクマをより濃くした。

「もっと自覚をお持ちください。オースター様は成人とともに爵位を継ぎ、いずれは大公の座を継ぐお方なのですよ。おもしろそうなどという浅はかな理由で、次期公爵にふさわしからぬ仕事を選ばないでいただきたい」

 オースターはむっとした。

 自分の軽はずみな返答のせいで説教されたのだとわかってはいたけれど、従者に言われなくたって自覚なんて持っているのだ。

 持っているからこそ、ルピィの卑怯な嫌がらせに対して、逃げずに正々堂々立ち向かおうと決めた。アラングリモ公爵家の嫡子として、誇らしく、立派にふるまおうと決めたのだ。

 オースターの苦労は従者にはわからない。

「なにかご不満が?」

「……べつに。それより、大公の座を継ぐって話、いい加減に聞き飽きたよ。夢物語もたいがいにしてくれ」

「大公殿下にはお世継ぎがおらず、妃殿下もすでに鬼籍に入られた。そうとなれば、アラングリモ家、ドファール家、どちらかの公爵家の子息が大公の座を継ぐ……古くからの決まりではありませんか」

「そうだよ。だから殿下は一年前、ルピィを皇太子に選んだ。僕ではなく、ルピィを!」

 いらだって、オースターは声をあげる。

「ラジェ。僕は凍結された公爵位を取りもどすことができれば、それでいいんだ。僕に与えられた役割は、それだけだったはずでしょう?」

「奥様はそれ以上をお望みです」

 胸の奥がずきんと痛んだ。

「僕だって母上のご期待に添えず、心苦しいよ。でも、ルピィが選ばれたんだから仕方ないじゃないか。そうでなくても、僕は皇太子にはなれない。それは母上もよくご存知のはずだ」

 オースターは太もものうえの拳を、ぎゅっと握りしめる。

「ラジェだって……どうして君まで、大公の座なんて大それたことを言いつづけられるの? ラジェはわかっているはずじゃないか」

 ラジェはオースターがなにを言おうとしているのか、早々に察した様子で「それ以上は結構」とぴしゃりと言った。

 だが、オースターは突き動かされたようにつづける。

「誰も知らない。でもラジェは知ってる。僕と、母上の”秘密”を。なのにどうして……!」


「オースター様!」


 鋭い声。オースターはびくりとして口を引き結ぶ。

「奥様から、お薬が届いていますよ」

 ラジェは口調をやわらげ、黒檀こくたんづくりの小箱を差しだしてきた。

「注射、お手伝いいたします」

 オースターは顔を曇らせた。

「……いい。自分で打つ。お風呂に入るから、着替えを用意してくれ」

 塞いだ気分で小箱を受けとると、ラジェはため息まじりに衣装棚の戸を開けた。




 学寮の中央棟の三階には、中等部の寮生専用の浴場がある。

 オースターは入り口にラジェを立たせ、ひとり広い浴室に入った。湯気にくるまれ、湯船に肩までつかると、ほうっと息が漏れた。

(身分を盾に、湯船を独占できるのはラッキーだったなあ)

 今ごろほかの生徒たちは、直立不動で殺意を放出しつづける従者に恐れをなし、自室に戻っていることだろう。ラジェを押しのけられるのは、ルピィぐらいなものだ。

(アラングリモ家とドファール家。大公殿下にお世継ぎがないときには、僕らの家のどちらかに大公の座を明けわたす仕組み)

 そして、その事実がふたつの公爵家の間に深い溝をつくっていた。

 特に、よわい七十歳になる現大公にお世継ぎがいない今は。

(小さいころは仲がよかった)

 なにに対しても疑問を抱くルピィ。好奇心旺盛なオースター。顔を合わせるたび、子供なりに白熱した議論を交わしあった。

 この世で、ただひとりきりの同じ立場の子供。鏡を合わせたみたいに心を通わせられた。


 けれど一年前、大公殿下はルピィを皇太子に指名した。


 オースターは驚かなかった。

 ルピィが皇太子に選ばれることは、最初からわかっていたことだからだ。

 父の戦死により、アラングリモ公爵位は一時凍結された。オースターが成人して爵位を継ぐまでは、アラングリモ家は厳密には「公爵家」ではない。

 だから、オースターが皇太子に選ばれることなどありえないことだった。

(でも、ルピィはそうは思っていないのかもな)

 ルピィがいやがらせをしてくるようになったのは、春の乗馬大会以降のこと。優勝して、大公殿下からお褒めの言葉を賜るオースターを見て、ルピィはオースターが皇太子の座を奪う気でいると誤解したのかもしれない。

「でもルピィ、僕が皇太子になるなんてありえないんだよ」

 オースターは湯船のふちに腕を乗せ、母から送られてきた小箱の蓋を開ける。

 中に入っているのは、青色の液体が入ったガラスの小瓶と、注射器だ。


「だって僕は、女なんだから」




 大公家の血筋に生まれた母は、アラングリモ公爵家に降嫁してから、長いこと子に恵まれなかった。そんな母に対し、今は亡き祖母や親類はずいぶん厳しくあたったと聞いている。

 爵位を継ぐことのできる直系の男児を産むために、母はありとあらゆる努力をした。マルゴの先進医療を頼ることはもちろん、ペラヘスナの高名な薬学師を屋敷に招くこともした。しまいには、心霊治療などという怪しげな民間療法まで頼った。

 その甲斐あってか、結婚から十四年、ようやく第一子となる女児を授かった。さらにその一年後には、男児「オースター」が生まれ、アラングリモ公爵家は待望の嫡男の誕生にわきたった。

 だが、母の安堵は長くはつづかなかった。


 男児「オースター」が、四歳のとき、熱病で


 父が戦地にいるときの不幸な出来事だった。

 そのときすでに、母は長年の無茶な不妊治療によって、子供を産めない体になっていた。「オースター」はアラングリモ家にとって、最後の希望の光だったのだ。

 母は絶望した。そして、決断した。

 男児「オースター」の死を隠蔽いんぺいするという決断を――。

 母は、死んだのは女児のほうであると、世間に公表することにしたのである。

 屋敷の男使用人は戦争にとられ、侍女も故郷に帰していた。真実を知る者は、乳母と、乳母の子供であるラジェだけ。

 そうして母は、男児の遺体を墓所の闇に封じると、先に生まれた女児のほうを嫡男オースターとして育てることにしたのである。


 それが、アラングリモ公爵家の”秘密”――。

 


(この薬を打ちつづければ……)

 小箱の中身は、母がどこからか入手してくる薬だ。

 初潮がくる前から毎日打ちつづければ、成人するころには体が男に作りかえられているのだという。

 年齢的にはもう初潮がきていてもおかしくはないが、オースターにその傾向はない。薬が効いているのだ。

(僕は、アラングリモ公爵家を存続させるためだけにいる)

 父は弟の悲報を知ることなく、戦地で亡くなった。

 母は心労のために体を壊し、床につくことが多くなった。

 オースターが爵位を継がなければ、アラングリモ公爵家は断絶。そうなれば、三百年守られてきた家名は、母の代で途絶えてしまう。

 先祖の栄誉を受け継ぎ、高め、さらに子孫へとつないでいく……貴族にとってはそれこそが誇りであり、それこそが使命。三百年の歴史が己の代でついえることは、耐えがたい恥辱だ。母はきっとそれを受け入れることはできないだろう。

 オースターが男になるほかないのだ。

 爵位を継ぎ、資産を残し、妻を娶って、次代の公爵となる男児を生んでもらう。

 もう、そうするほかないのだ。

 たとえそれが周囲を欺く行為であったとしても。拒絶を知らない幼少の頃に、母に勝手に決められてしまった運命だとしても。

「空っぽ公爵、か……」

 オースターは「はああ」と大きくため息をついた。

「トマの奴。僕だって最初から男として生まれてきていたら、もっと立派な大志を抱きたかったさ。男らしく野望を持って、いっそ大海原にでもくりだして、命をかけた大冒険を――!」


『奥様はそれ以上をお望みです』


 突きあげた拳をゆるゆると湯の中におろす。

 母はオースターが本当は女であることなど忘れてしまったのだろうか。

 もちろん、このまま順調に男になれたなら、新たな夢を見ることもできるだろう。

 けれどこの体はまだ女でもない、男でもない、どちらでもない状態なのだ。

 大公の座を望むなど、あまりに大それている。

 母にはたびたび手紙を送っている。返事がきたことはない。すべてラジェを通して伝えられる「指示」だけだ。


(ひとりぼっちになっちゃったみたいだ)


 そう思ってから、首をぶんと振る。

 いけない。このままだと際限さいげんなく落ちこんでしまう。

 オースターは湯からあがり、湯冷まし用の椅子に腰かけ、慣れた手際で小箱から取りだした注射器を腕にあてがう。

 薬を体の中に注ぎながら、オースターはふっと股の間に視線を落とした。

(アレが生えてきたら、ちゃんと使えるんだろうか、僕……)

 うまくいけば、ここにアレが生えて、生殖機能もそなわるらしい。

 けれど、具体的な使い方は誰に聞けばいいだろう。ラジェでいいのだろうか。

 いや、それはなんだかすごく、教育上よろしくない気がする。

「やめやめ!」

 顔が火照ほてってくるのを感じて、オースターは注射器を片づけた。そのまま脱衣所の扉を開き、棚に置いたタオルに手をかける。


「オースター様。ルピィ様が――」


 ふいに、ラジェの焦る声が聞こえた。

 オースターはぎょっとなる。

「お早く。もう廊下のすぐそこまで」

「ま、待って! 止めておいて!」

「さすがに皇太子を止めるのは無理です」

「努力してよーっ」

 ズボンに足を通すが、濡れているせいでうまく履けない。急いで腰紐を結び、やっとシャツを手に取る。


「そこをどけ、犬」


 ルピィの声だ。ラジェを押しのけて、湯煙のただよう脱衣所に入ってくる。

 ――ルピィ・ドファール。

 ドファール公爵家の次期当主にして、いずれはこの国の頂点に立つ男。

 腹が立つぐらいに長身だ。銀色の髪を几帳面に後ろになでつけている。青色の瞳の下にはほくろがあって、社交界では「セクシーな皇太子様」と評判らしい。

 それに対して、自分の評判は「可愛らしい方だけど、まだお子様ね」らしいから、めらめら嫉妬の炎がたぎる。

「オースター。入り口に従者を立たせて、風呂を独占とは結構なご身分だな」

 ルピィが口角を皮肉げに持ちあげ、迫ってくる。

「それで? 物好きにも下水道掃除夫の職場体験を希望したそうだが、仕事はどうだ。教えろ」

 かろうじてシャツを羽織ったオースターは、止め切れなかった前ボタンの前を上着で隠しながら、ぶんぶんと首を縦に振った。

「う、うん、おもしろい仕事だよ! すっごくね!」

「……ほう」

 ルピィは期待がはずれたのか顔をしかめるが、それでも薄笑いを浮かべると、後ずさるオースターを壁に追いつめ、肩を掴んで耳元に顔を近づけた。


(ち、近い近い近いってー!)


 ばれるばれる。オースターは蒼白になる。

「それは結構なことだ。だが、次から風呂に入るときは、私の後にしろ。下水の汚れが移ってはかなわないからな。わかったか? アラングリモ」

「あ、うん、もちろんだともー」

「…………」

 ルピィが変な顔をする。

 オースターの様子を不審に思ったのか、しげしげとつま先から頭のてっぺんまでを観察してくる。


「……おまえ。なぜびしょ濡れのまま、服を着ているんだ?」


 まずい――。

 そう思った瞬間、視界が真っ暗になった。


「大変申し訳ないことです、ルピィ様、オースター様。私としたことが、つまづいた拍子に誤って電灯を消してしまいました」

 ナイス、ラジェ!

「じゃ、おやすみ、ルピィ。ごゆっくりー……」

 オースターは暗がりの中、摺り足でルピィから後ずさった。

 扉にたどりつくと、ルピィがなにかを言うよりも早く、ぴゅーんと脱衣所を飛び出した。

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