鞭を打つ鬼

 三蔵。母屋の奥、居室があると思われる一角に足を進めている。彼が通った後を追って示すように、あちらこちらに骸が転がっているが、それを顧みることはない。

 廊下の、その突き当たり。ふつう、そこに主人は起居する。

 その襖の前に灯された明かりに、影がひとつ揺れている。

「騒ぎになっていると思えば。これは、とんだ鼠もあったものだ」

「残念ながら、何人で束になろうとも、あの手の連中は、俺は得意な方でね」

「何者だ、お前は」

「人に名乗るような名はないね。そして、お前さんに用もない」

 明かりに揺れる男は、ふと口許を歪めた。

「言ってくれる。ここにいるということは、あれだけの伊賀者をことごとく屠ってきたのだろう。どのみち、ただ者ではあるまいて」

 男は、四十の末くらいであろうか。寝巻姿ではありながらきっちりとした武家装束であることから、板倉の直々の家臣と見えた。侍ならば、伊賀者などよりもいくらか御しやすいから、三蔵には助かる。

「抜くのかね。俺は、お前さんの後ろの襖の、その向こうに用があるんだがね」

「侍たるもの、主を置いて己のみ逃げおおせることなどはせぬ。用があるなら、私を斬り、そのかばねを踏んでからゆくがよい」

 廊下のことである。男は迷わず脇差を抜いた。小太刀を修めているのかもしれず、狭い室内での戦闘において大刀が不利だと知っていて、それを自然と体現できる経験があるのかもしれぬ。

「侍ってのは、難儀なもんだ。お前さん、今、その襖の向こうにお前さんの主がいると、はっきり言ったぜ」

「お前が生きてこの襖を開くことはないのだから、同じことであろう」

 三蔵は苦笑し、ゆったりと両腕を下げた。一見隙だらけの構えのようであるが、いかなる仕掛けにも即応することのできる、彼が長い長い夜の中で身に付けた構え方である。

「お前さんの主とやらは、逃げたな」

 男の眉が、ぴくりと動いた。図星らしい。板倉は既に庭の方に逃れていて、この男は時間を稼ぐためにここに留まったのだろう。それならばさっさとこの男をたおし、それを追わねばならない。しかし、そういうわけにもいきそうにない。男が、そのことを言った。

「お前――」

 殺気を放ってはじめてその姿を現した三蔵を見て、男は眼をすがめた。

「――息が、上がっているのか。無理もあるまい。ここに至るまでに詰めていた伊賀者は、五十。それをことごとく屠ったのならばな」

「なぜ、伊賀者を飼う」

 つとめて言葉を交わそうとしている。その間に、少しでも息を整えるつもりである。あまり時間を食ってしまっては板倉が姿を隠してしまうから、難しいところではあるが。

「彼らとて、食い扶持に困っておる。先日、べつの伊賀者を飼おうとしていたが、首領が女であったためか、うまくまとまらず、結局仲たがいをしてことごとく死んだという」

「死んだのか」

「知っているのか」

「少し、な」

 伊賀者を、飼う。この太平の世で、何のために。いや、太平の世というのは名ばかりで、たとえば大坂や関ヶ原のような大戦おおいくさこそ無いにしても、その分水面下では個と個が己の利と欲の上にあるその存在を削り合うような乱れが濃くなっている。考えようによっては、伊賀者とはそういう中でこそ力を発揮するとも言える。

 それならば、板倉は、この世の中で何か大きなことを、それも大っぴらに人に誇れぬような手段でもって為そうとしていると見ることができる。

 権力か。かの板倉勝重の傍流でありながら、たいした役目ももらえず家柄の良さだけをもってして格で吊るされているような格好に、不満を抱いたか。なにごとかを用いて力ある者の座を揺らし、その後ろ盾として伊賀者の存在をちらつかせ、恫喝するつもりか。あるいは、ほんとうに目障りな者どもを、闇に葬るつもりか。

 仕掛け。そのために、唯を使うつもりか。たとえば唯をまた誰かに玩具のようにしてくれてやり、興を買う。あるいは憎む誰かが、別の高貴な女との間に設けた隠し子か何かであると明らかにし、立場を揺さぶるか。秘密を喋らぬよう、声が出ぬようにしてある、とでも言えばよい。

 どのように使うにしろ、板倉が今さら唯を求めるということ自体、あり得ぬことなのだ。あるとすれば、また物のようにして己のためにそれを使おうとする以外にない。


「来ぬのか」

 男が、揺れた。

 来る。

 息は、やや整っている。腕は変わらず重く、腕のみならず身体全体が鉛で覆われたようである。疲れているのだ。

 しかし、やらねばならぬ。

 斬撃。不規則な円を描くようにして襲ってくるそれを半歩退がってぎりぎりで空振らせ、懐の刃物を抜く。

 さすが、脇差は小回りが利く。ひらりと翻って三蔵の手の中のそれを叩き落とし、そのまま喉を突きにかかってきた。懐に入って耳の横ぎりぎりを通るようにして頭を滑らせた三蔵が、膝で男の腹を襲う。上がった腿に弾かれ、はらわたをひっくり返すことはできなかった。しかし、おかげで脇差を横薙ぎにされて耳を落とされるのは避けられた。

 いつも、こうである。生と死とが同時に存在する時間の中で、ことさらに己の身体を死に近づける。そうすることで、よりはっきりと掴むべき生が見える。そういうものである。

 三の太刀、四の太刀と男は三蔵の息をできるだけ溜めさせぬよう、脇差を繰り出してくる。これが大刀ならば大振りになった隙を突いて一息に払い落としてしまうところではあるが、そういうわけにはいかない。

 ふと、外はどうなっただろうか、と思った。争闘の気配は、ここまでは届かぬ。経過したであろう時間からして、もうとっくに終わっていてもおかしくはないはずである。

 新九郎は、死んだのか。特に暗い技を持つでもない、ふつうの侍である。それに、傷も受けている。生きているはずがない。自らそれを選び取り、当人が納得をしているならばそれまでのこととはいえ、死とはただそれだけで虚しいものである。

 三蔵が今している戦いも、人が見ればそうなのだろう。

 しかし、違う。三蔵にとっては意味のあることなのだ。奪われてはならぬものを、奪われぬため。守らねばならぬもののため、いのちを燃やす。それは、老いて朽ちるのを待つ身体をなお使うための動機になり得る。


「おう」

 野太い気合の声を発し、振り下ろしてくる右腕の肘のところを掌底で叩き上げた。そうすると人の手はぱっと開くものだから、男の脇差は自然に手から離れた。この至近距離では、大刀を抜くことはできない。

 これが三蔵の、いや、鬼の間合い。そのまま膝の付け根を踏み下ろして皿を砕き、地についた足で転がった自らの短刀の柄を強く踏んだ。白木のそれが乾いた音を立て、明かりに揺れる中に上がる。

 男は、目を見開いていた。脇差を落とし、膝を砕かれてもまだ目を開いているというのは、並のことではない。おそらく、ふつうの侍ではせぬような刀の振るい方も、ずいぶんとしてきたのだろう。この家臣を見ているだけでも、板倉という人物がどのようなものであるのかが分かる。

 男の目線が、上がった。乞われるようにして、吸い上げられるようにして三蔵の手に収まる短刀を、見たのだ。

 ──嫌だねえ。

 刹那の思考で、そう思った。

 ──死に取り憑かれた人間は、死ばかりを探し、見たがる。そうなっちゃ、おしまいだ。

 口にすることはなく、逆手に握った短刀を男の首の後ろに突き立てた。そのまま、輪を描くようにして喉笛まで回し切った。こうされれば、鬼でも羅刹でも必ず死ぬ。ただし、はげしい出血を伴うから、時と場は選ばねばならぬ。

 今は、なりふりなど構ってはいられないとき。だから、三蔵は崩れ落ちる男が噴き上げる地の雨を逆さに浴び、その身を血に濡らした。


 室内へ。やはり、人の姿はない。代わりに縁へ出る雨戸が開かれていて、夜が覗き込んでいた。

 そこへ、踏み出す。

 血で濡れ、乾かぬ汗がそれを薄めて流れている。息は、胸を病んだようにしてぜえぜえと音を立てている。

 目の前が暗くなりかけ、膝をつきそうになった。しかし、踏みとどまった。もともと暗いのだから、今さら目の前が暗くなったところで、どうということもない。

 板倉兵庫。この敷地から出る前に殺す。そして、唯を救い出す。

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