七歩

 また、風。

 そして、潮の音。その二つを塗り替えて余りある炎。そして、それが起こす風が、また。


 二つの修羅が、互いに向かい合っている。

 互いに、言葉は薄くなりつつある。重ねれば重ねるほど、呼吸が合うのだ。しかし、重ねても重ねても、混ざり合うことはない。

 仏の教えにおいての修羅とは、人よりもよいものを着、人よりもよいものを口にすることができるという。しかし、何を食っても泥の味しかせぬという。

 今の二人こそ、まさしく。一つは己の求めるもののため、もうひとつは己が物ではないと証すため、そしてどちらも戦いと血の中に立つ己しか知らぬ。その向こう側に、人になった己があると信じ込み、自ら戦いに身を投じる姿こそ、修羅であろう。


「なぜ、一党の者を」

 まるで切っ先を軽く当てて出方を窺うように、竜が口を開いた。

「あんたには、関係ないね」

 なるほど、竜には関わりのないことである。仲間割れと言えばそれまでだろうが、伊賀者にも色々とあるらしい。

「あたしは、一人になったんだ。もとより、一人だったんだ。それだけのことなのさ」

 こういう薄い言葉を途切れ途切れに交わすことを続けた。気を抜くことはできない。七歩の距離など、どちらかがその気になれば一息に詰めて相手の身体に刃を付けられるだろう。

「あたしは、物じゃない」

 熱を出した子供のうわ言のような口調で、水仙が呟く。

「人のいいように使われ、手を汚すか。思えば、こんな時代に伊賀者として生きるということは、並のことではないのだろうな」

「そうさ。こんな時代だ。侍は侍であることをやめて己の身を守り利を貪り、商人はお上の言いつけを守る限りは何をやっても上手くはいかない。畑は荒れ田は萎え、誰もが困じ果てているじゃないか」

 確かに、そうである。人の心とは自らの経済的、心理的豊かさを後ろ盾にしてはじめて成り立つ。それなくしては心の土壌は痩せ、咲く花も咲かなければ実る実も実らぬ。まだ、せめてはっきりと姿形を持った敵でもいれば話は別であろうが、この時代にはそのようなものすらない。ただただ、世が、人がと言って嘆くしかない世が、このような修羅を作り出したのかもしれぬ。


 目の前の女を見て、竜は心底哀れに思った。本来なら、年相応の娘として花も目を背けるようなその美しさを振り撒き、近くにあるものを笑ませるのだろう。傷付く人があれば気遣い、苦しむ人があれば共に屈みこんでやるような、そんな生があったものだろう。

 しかし、水仙にはそれはなかった。だから、彼女は彼女として生きるために刃を握り、自らの内から生じる笑みや言葉の代わりに相手の血を振り撒いてきた。そうしてその日を生きてはじめて、明日も生きられるかもしれぬという思念の中で眠りにつけるのだろう。

 それを、心底哀れに思った。

 思って、やはり自分も変わりないと思った。自分がどこで生まれ、どこから来たかなど、竜にとってどうでもいいことである。無論木の股から自然に生まれたわけはないならば親もあればそれが与えた名もあろうが、今生きているのかどうかすらも彼は知らぬ。名など、とっくの昔に捨てた。いつ捨てたのかも、覚えていない。とにかく、竜が竜として夜の中に目覚めたとき、竜は竜であったのだ。

 ──いびつな生き物ばかりが、いやがる。

 この場で揺れる二つのいのちのことを見て、そう思った。

 歪んでいることは分かっていても、それをどうすれば正すことができるのかは分からない。誰しも、そうだろう。だから、足掻くのだ。抗うのだ。

 水仙。何を思い、何を見ているのか。その黒目は確かに瞬いているが、その奥にある何をも映してはいなかった。


 目の前で静かに腰を落としている男。これほどまでに手を付けづらい姿が、他にあろうか。水仙は、竜を見てそう思った。全て隙であるように見えて、どこにも隙はない。身体の全てが、自分のいのちに刃を届けるために働こうとしているのが分かる。

 少しでも動けば、すなわち死。この七歩の距離が、唯一自分のいのちを守る盾だった。しかしその距離を保つ限り竜は殺せぬわけだから、どうにかしてそれを縮めて竜の身体に自らの刃を食い込ませ、殺さねばならない。

 すでに、数十の人間を葬り去るような戦いをした後である。腕は上がらず息は浅く、足は砂粒に粘りつくようになっている。しかし、心は静かであった。つい昨日まで、いや、さっきまで自らを支配していた想念がそばで猛る炎に吹き消されたかのように消え去ってしまっているのだ。

 自分は、物ではない。生きるべくして生きる、人なのだ。それを、証すのだ。ただそのことだけが頭にあり、夜空に毎日こびりつく月のようなその他の想念は、どこを探しても見つけることができなくなっていた。

 さながら、さくの夜だった。月というものが頭上にあれば人はそればかりを仰ぎ、そのことばかりを口にするものであるが、月が無くなってはじめて夜の暗さを知ることもあるし、星の明かりが夜道やそこに咲く梅の花を浮かび上がらせることも知る。なんとなく、そのような心境を楽しむような気持ちになりかけていることに、自分で鮮やかな驚きを感じている。

 影のようにその姿を滲ませながら、はっきりと炎の明かりに立っている目の前の男は、何を思うのか。ふと、訊ねてみたくなった。しかし、これ以上の言葉を交わすことはないと分かっていた。

 何の恨みがあるわけでもない。何の思い入れがあるわけでもない。ただ、目の前にいる歪んだ生き物に、なにかとてつもない親近感を覚えている。

 父に、似ているのかもしれない。父の方がもう少し歳は上であったが、なんとなく、竜と父が似ているような気がしたのだ。

 気がしたからどうだということはない。ただ、そう思ったのだ。


 轟音。燃え盛る小屋が、崩れたのだ。水仙が顔に降りかかる火の粉に目を閉じた。それは、ほんの僅かな時であった。目を閉じている間に時間が流れ去るほど長くはなく、一瞬と呼ぶには長いほどの間であった。

 竜の姿が、消えた。

 いや、いる。崩れてなお盛んに上がる炎を背負い、今まさに踏み込もうとしている。

 水仙も応じ、身体を半身にして向けながら地を蹴った。

 どちらかが生き、どちらかが死ぬ。それこそ、一瞬のことであろう。二人を守っていた七歩の距離は、竜が大きく横に移動して炎を背負う位置に動き、水仙も踏み込んだため、どれだけ縮まっているのか分からない。

 一気に距離を詰め、水仙が刃を手元に引き寄せる。腕を伸ばして突くつもりだろう。あるいは、突くと見せかけて首筋をすれ違いざまに薙ぐつもりなのか。

 今にも踏み出しそうな竜であるが、踏み出さない。ただ、右手を柄にかけた。かけたと思ったらすぐさま抜いて、大振りに振るった。

 水仙との距離は、その刃が届くほどには縮まっていない。しかし、振るった刃が、燃えて傾いている柱を斬った。ぱっとそれは弾け飛び、激しい火の粉を巻き上げた。

 風の向き。夜は、海から陸へと吹く。この立ち位置なら、すなわち竜の方から水仙の方へと。竜はその風を使えて、なおかつ炎の光を背負う位置に身体を滑らせていたのだ。

 今まさに刃を振るおうとしていた水仙の顔を、それは激しく襲った。

 水仙の刃。竜の肩に、乗った。しかし、それが肉を引き裂くことはなかった。そこから連なる腕の先にある胴体に竜の刀が深々と突き立っていて、血濡れのそれが背から飛び出している。

「冥土の土産だ。取っときな」

 竜が、呟く。

「──あたしには、必要ない」

「いいや、誰でも、死んだあとは必要になるそうだぜ」

 六文銭。ほとんど密着しながら、竜が片手でそれを握っている。

「──あたしでも?」

「ああ、お前でもだ」

「あたしは、物じゃない」

 口から、血泡を吐いた。同時に、血の色とは似ても似つかぬ透明な雫が、美しい瞳から。

「だったら、尚更だ」

 水仙は何も言わず、掌を差し出した。そこに、竜は六文銭をこぼしてやった。

「とんだ殺生だぜ」

「どうして?」

「女には、血と涙は付き物なんだろう。だけど、こんな形で流しちゃいけねえや」

「後味が?」

「ああ、最悪だぜ」

 なぜか、水仙は少し笑った。笑うと、年相応の娘の顔になった。

 炎が、二人を照らしている。血と刃で繋がり合った二人は、しばし、身体を寄せていた。そののち、水仙が掠れた声を上げた。

「あたしは、そうでもない」

「そりゃ、何よりだぜ」

 竜も笑ってやり、一息に刃を引き抜いた。背と腹から血を噴き出させながら、水仙は崩れ落ちた。

 はじめ七歩あった二人の距離は、今は無い。だが、一人は生き、一人は死んだ。その間を隔てるものは、あまりにも大きい。


 竜は、亡骸になった水仙を、仲間が焼かれた同じ炎に預けてやり、しばらくそれを見つめたあと、不意に背を向けて唯に声をかけた。

「行こうか、唯」

 物陰から姿を現した唯が、頷いた。竜の顔を見上げてしばらく考えたあと、腰から風車を抜いて差し出した。海からの風を受け、緩やかに回っている。

「ありがとよ。お前は、優しいな」

 唯は困ったように笑い、首を傾げた。

「さ、行くぞ」

 竜は受け取った風車を唯の腰に戻してやり、歩き出した。

 三蔵のもとへ。

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