温もりの対価

 江戸。徳川家康がここに入ったときは、あしばかりが生えた湿地帯であったらしい。でこぼことしたこの土地の、低いところを埋め、高いところを削り、やがて街が出来た。本格的に都会化が進み、一定の完成を見せたのは二代将軍秀忠のときで、それ以来、アジアはおろか世界的に見ても有数の大都市となっている。

 この頃はまだ山の手は武家、下町は町人と元々はっきり分かれていた居住区分がやや入り乱れつつある発展途上の時期ではあるが、江戸時代の後半になるとその人口は百万人を超え、当時世界一の人口であったとする説もある。


 日によっては霜が降りることもあるが、面している海が暖かいため、江戸の冬は柔らかい。この地が未開拓であった頃、雨の度に溢れていたであろう河がもたらした豊かな黒っぽい土を踏みながら、三蔵、ゆい、それに新九郎の三人はゆく。長く、三蔵はこの江戸を避けてきた。それなのにまたこの地に足を踏み入れたのは、唯のためでもある。


 あの勧進橋近くの宿を出たあと、新九郎は三蔵に行くあてについて問うた。

「お前さんと一緒さ」

 と、三蔵は端的に答えた。

「伊勢へ参られるわけでは、ないのですね」

 三蔵は、口を開けて笑った。

「伊勢は、遠すぎる」

「たしかに、唯どのを連れての旅は、足が進まぬでしょう」

「実際、じじいだからな」

「三蔵どのは、何かから、逃げておられるのですね。それも、唯どののために」

 そう新九郎は予測をした。三蔵は、きょとんとした顔をしている。

「そうなんだな。なるほど、こいつのために、逃げている、か」

 今初めて気付いたような口ぶりであるから、新九郎は苦笑を禁じ得なかった。

「あえて、問いますまい。人には、事情があるもの。もし、三蔵どのが、どこかに身を隠したいと考えておられるならば、いっそ、人の多いところへ行ってみてはどうでしょう」

 人の多い場所。たしかに、この小さな宿場町ではかえって目立つし、山奥の農村などに籠るわけにもゆかぬ。三蔵自身、唯をどうしてやるのがよいのか、分かっていないのだ。


 とりあえず、騒ぎを起こした三蔵に追っ手がかかっていることは間違いない。目ッかしの利八というのは、異様なまでの執念を持つ男であるとあの一帯では評判であるし、組と利八の名に傷を付けた三蔵をただで逃がすわけがないのだ。

 昔なら、利八の組ひとつくらいなら一人でも簡単に潰し、憂いを断てたかもしれない。しかし、三蔵は、彼の言う通り、実際、老いている。


 瞬間的な勘は若い頃よりもある意味で冴えている部分もあるのかもしれぬが、身体が思うように動かぬ。爪の先にまで無意識の意思をゆき渡らせ、相手の動きを読み、それを制することは出来る。だが、息が続かぬものをどうしようもない。

 唯と出会ってから、久方ぶりに戦うことが増えた。それをひとつくぐる度、肩で息をしている自分に気付くのだ。


 三蔵は、知っている。これまで幾度となく戦いの場にその身を置いては来たが、自分が決して無敵ではないことを。正面きって刀を構えてくる武士を殺したこともあるし、眠っている町人を刺したこともある。だが、彼はらその全ての場において、死ななかっただけであるというだけのことなのだ。


 ゆえに、ひとたび唯の手を引いて連れ出したからには、無用な戦いを出来るだけせぬ方がよいのだ。人の多いところに進んで入り込み、身を隠すというのは妙案だと思い、新九郎の案に乗った。それで、江戸に入った。


 また、木賃宿である。

 下町の路地裏のそれに入り込み、しばらく滞在した。しかし、江戸は物価が高い。新九郎が渡してくれた路銀は、結局三人分の宿賃と食費で見る見る減ってゆくから、その対策を講じなければならなかった。

「旅をするには、まず金」

 新九郎は、三蔵らのいた藩に召し抱えられていた中流階級の武家の子であるから、金の苦労というものをあまり知らないらしく、ここにきてそのことを言い出した。

「どうにかして、金を得なければなりませんな」

 三蔵は、苦笑した。

「犬もお上も、金さえありゃ、黙る。そういうものさ」

 唯は、申し訳ないと思ったのか、自分が与えてもらった蒸かし芋をじっと見つめ、三蔵と新九郎の方に差し出した。

「唯どの。それは、そなたが食べる分だ」

 新九郎が微笑みながら、辞退する。

「唯どのは、何故なにゆえ、それほど無口なのだ?」

 唯は、眼を伏せるのみで答えない。三蔵は、もしかしたら、唯は話さないのではなく、口がきけないのではないかと思っている。それが何故なのか唯自身に問うことは出来ないから、あの武士の家で飼われていたときかその前かにひどい仕打ちを受けていて、そのせいであるのかもしれぬと思っている。


「話したくなれば、話すさ」

 だから、代わりに、三蔵が言ってやった。唯は笑うでも困るでもない表情を見せ、また芋に口を付けた。

 江戸の冬がいくら柔らかいとはいえ、冬であることに変わりはない。綿入れを羽織ってはいるが、隙間風が入ってきて寒い。


「炭を焚こうか」

 火鉢に火を入れようとしたが、肝心の炭がない。求めようにも、金も僅かしかない。しかし、寒い。

「炭、か」

 三蔵は、ちょっと考える素振りをした。

「ちょっと、炭屋に行ってくる」

 そのまま、ふらふらと木賃宿を出て行ってしまった。

「三蔵どのは、炭の求め先に、何か心当たりでもあるのであろうか」

 新九郎が一人呟き、唯も合わせて首を傾げた。


 吐く息が、白い。それを後ろへ後ろへと流しながら、三蔵は通りに出た。そのまま足をある方に向け、進んだ。

「山笠屋」

 という屋号のたな。その裏口から、ぬらりと屋内に入った。昼日中のことであるが、三蔵の来訪を知る者はない。そのまま、勝手知ったる足取りで、店の表の方に向かって廊下を踏んでゆき、店に出る手前の部屋の襖を、無造作に開いた。


「――三蔵か?」

 一瞬の硬直のあと、店の主人らしい男が口を開いた。

「親父。久しいな」

「いつぶりだ」

「さあ。親父は、変わりないか」

「お互い、だいぶん老けたらしいな」

「実際、爺だからな」

「それで、今日は?こんな時間に、珍しいじゃあねぇか」

「ああ、炭を買いにな。木じゃねぇ方の炭だ」

「火の点きやすい方か?点きにくい方か?」

「点きやすい方だ」

「ちょっと、待ってな」

 主人はそのまま下がり、しばらくして戻ってきた。手には、なにかの帳面。

下総しもうさ屋惣兵衛」

「下総屋、惣兵衛」

「こっから、ずーッと、隅田川の方に行ってみな。そしたら、滅法でけェ寺がある。宝徳寺、つったっけかな。その角を北に曲がって、三筋目。小せェ店だが、看板が出てる」

「わかった」

 三蔵は、差し出された小さな袋を受け取り、懐にねじ込んだ。

「親父。得物を、借りられねえか」

「なんだと。持ち合わせてねェのかよ」

「そんな物騒なもん、持ち歩いてねえ」

「へっ、鬼の三蔵が、よく言ったもんだぜ」

 主人は文机の引き出しから短刀を取り出し、投げ与えた。

「くれてやらァ。大したもんじゃねえ」

「そうか、悪いな」

「鬼がこの世に、帰ってきた。そいつは、祝いの品さ」

 三蔵は曖昧に笑い、店を出た。


 鬼がこの世に、帰ってきた。山笠屋の主人は、そう言った。

 その鬼は、だんだん傾きかけてゆく江戸の陽を背に、自らの影を追うようにして歩いていった。



 陽が暮れても、三蔵は戻らぬ。新九郎も唯も、心配そうにしている。

「三蔵どのは、どこまで行ったのであろうな」

 新九郎は、三蔵が炭、という言葉から着想した調の方法について、無論知る由もない。ましてや、大通り沿いにあった山笠屋という炭屋が、江戸のあちこちにある闇稼業の受け口――いわゆる口利き屋――であり、三蔵がかつてそこに出入りしていたことなど、知るはずもない。


 極端な倹約令により、経済は混乱を見せた。普通のやり方では商人はその存続すら危ういため、様々な知恵を絞り、生き残りを図っている。そのうちの一つが口利きであり、この時期、山笠屋のような暗い仕事の斡旋をするような店が、急激に増えた。


 陽が落ち、月が出た。うす白い夜が、新九郎と唯のいる部屋の中にも漏れ入ってくる。その間も、二人は三蔵を待った。そうするうちに月は粗末な木賃宿の真上に差し掛かり、部屋の中に白い夜は差し込まなくなった。

「なにがなんでも、遅すぎる。何か、あったのではないか」

 新九郎は、様子を見に行こうと立ち上がった。唯も、それに続いた。


 そこへ、ちょうど、ぎしぎしと階段を鳴らす音がした。

「戻った」

 三蔵が、闇の中から、のっそりと現れた。

 手には、炭袋。それを火鉢にくべるべく、新九郎と唯の横を通り過ぎ、しゃがみこんだ。

 いつも体臭の強い三蔵であるが、このときは、新九郎はさすがに顔をしかめた。

 血の臭いがしたのだ。


 灯された火が、炭に移される。炭はあかあかと燃え、この部屋の中に温もりをもたらした。

「ついでに、油だ」

 三蔵は瓢箪に入れた油を少しだけ油皿に注ぎ、芯を切って火を灯した。その頼りない光が、闇を揺らしながら払った。

「どうだ、唯。暖かいぞ」

 唯は嬉しそうに笑いながら火鉢に駆け寄り、両手をかざした。そして三蔵を振り返り、頷いた。

「そうだろう。これで、寒くないぞ」

 三蔵も笑い、共に火にあたった。


 新九郎は、察した。三蔵が、この僅かな炭と油のために、何をしてきたのかを。

 その是非について三蔵に問うべきかどうか、迷った。

「お前も、突っ立ってないで、当たれ」

 三人でその温もりを分かち合ううち、温まって眠くなった唯が、三蔵にもたれかかって寝息を立て始めた。新九郎は、それを起こさぬようにそっと布団に運んでやる三蔵の背を見つめるほかなかった。

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