第26話

 突然「真尋」と名前を呼ばれて、私はどうしたらいいかわからないまま死神さんを見つめ続けていた。今まで決して私の名前を呼ぶことがなかった死神さんが、優しい声で、懐かしいトーンで、私の名前を呼んだ。

 死神さんの頬を伝ったであろうしずくが、ぽたりぽたりと零れ落ちていく。私の位置からは見えないけれど、きっと病室の床に小さな水たまりを作っていることだろう。


「し……」

「これでやっと約束を果たせるよ」


 私の声に重なるようにして、死神さんは口を開いた。


「約束……?」


 いったい、何の話だろうか。


「死神さん……?」


 私は、死神さんへと手を伸ばした。けれど上手く上がらなかった手は、宙を掻くようにして落ちていく。けれどその拍子に、指先が何かに触れた。

「あっ……」と、思ったときには遅かった。私の指先は、死神さんのフードの端にかかるようにして触れ、そして気付いたときにはフードがパサリと落ちていた。


「っ……」


 視界がかすんでよく見えないはずなのに、それでもはっきりとわかったのは、きっとずっと忘れることができなかったから。

 視線の先には――私がよく知っている、少年の姿があった。会いたくて、会いたくて仕方がなかった、あの人の姿が――。


「どう、して……」

「…………」

「どうして、廉君が……いるの……」

「黙っていて、ごめん」


 よく似た他人だと否定してほしかった。でも、死神さんは――廉君はもう一度「ごめん」と言うと、あの頃と同じように優しい目で私を見つめた。


「なん、で……」

「…………」

「だって、廉君は……元気になって、退院したはずでしょう……?」


 あのとき、みんな言っていた。廉君の退院が決まったと。おうちに帰れるのだと。置いていかれるようで寂しかった。でも、廉君が元気になったのならよかったと、会えなくなるのは悲しいけれど、本当に良かったとそう思っていたのに……。

 けれど、廉君は私の言葉に首を振って、悲しそうに微笑んだ。


「もう手の施しようがないぐらい、あの頃の僕の身体は悪かったんだ」

「そん、な……」

「だから……」

「じゃあ、あれは……そんなっ!」


廉君の、その一言で全てが分かってしまった。あの退院が決して明るいものではなかったことが。

 あれはきっと、最期に廉君が生きる場所を、病院ではなく、廉君が廉君としていられるところで、と――たくさんの人が彼を思った結果だったのだということが。

 だから、廉君はあのとき「また会いに来るから」と言いながら、首に手を当てていたのだ。もう二度と、会えないことが分かっていたから……。


「退院してから、一度も会いに来られなくてごめんね」

「っ……」

「約束の年にも、来られなくてごめん」

「そんな、こと……」

「遅くなったけど、やっと会いに来ることができたよ」


 ああ、廉君だ。本当の本当に、廉君なんだ。

 私の魂を取りに来た死神さんが廉君だったなんて、そんな偶然あるんだろうか。ううん、あるから今こうやって彼が目の前にいるんだ。だから、今こうやって話をすることができているんだ……。


「廉君が、私の死神さんだったんだね」

「……ああ」

「そっか、そうだったんだ……」


 思わず笑ってしまった私に、廉君は不思議そうな表情を浮かべる。

 でも、悔しいから言わないんだ。廉君だと知らずに、死神さんを好きになったこと。

 なんとなく、悔しいじゃない。顔が見えなくても、廉君だって知らなくても、もう一度廉君のことを好きになってしまったなんて。


「どうしたの?」

「ううん、なんでもない。……それよりも、約束って……?」

「ああ、うん。その前に――」


 そう言って、廉君が取り出したのはあの頭の欠けた星が書かれた手帳だった。


「それって……」

「そう、真尋の名前が書かれた僕の手帳だよ。ここに名前がある限り、君の死は避けられない。どんなに治療を受けても、必ず」

「っ……」


 そんなの、わかっている。それを教えてくれたのは、ほかならぬ廉君。あなたなんだから。「それがなに……」と言いかけた私の言葉を遮るようにして廉君は言った。


「約束しただろう」

「だから何を……」

「もしも真尋が死んでしまいそうになったとしても、僕が真尋を死なせないでって、神様にお願いしてあげるからって。真尋のことを連れて行かせやしないって」

「廉、君……?」


 確かに、あの桜の木の下で廉君はそう言っていた。でも、だからどうしたというのだろう。状況についていけない私をよそに、廉君は話し続ける。


「何のために僕が死神になったと思っているんだ?」

「なんのって……」

「真尋、君を死なせないためだよ」

「え……?」


 どういう、意味だろう。廉君が死神になることと、私を死なせないことに何の関係が……。

 意味が分からない、という表情でも浮かべていたのだろうか。廉君は、私を見て困ったように微笑むと口を開いた。


「僕のところにも、死ぬ間際に死神が来たんだ。その死神はたいして仕事熱心じゃあなかったようで、死ぬ直前にやってきて「今日お前は死ぬ。その代わり俺がなんでも一つだけ願い事を叶えてやるよ」なんてうさん臭さ満載なことを言ってさ……」


 その口調に、懐かしさと……そして、その死神のことを廉君が大切に思っていることがわかった。もしかしたら、その死神というのは……。


「っ……」


 尋ねようかと思ったけれど、なんとなく躊躇ためらって、そしてやめた。

 それに一瞬、言葉に詰まったように黙ってしまった廉君も、またすぐに続きを話し始めたから。


「僕自身に願い事なんてなかった。病院を出たときから、もう自分自身の命が長くないことはわかっていたからね。でも、真尋。君のことが心配だった。頑張り屋さんで、泣き虫で、僕の後ろをずっとついて回っていた可愛い、可愛い真尋。いつかあの桜が咲いたときに君の隣にいられないことが悔しかった。だから僕は死神に言ったんだ。僕も死神になりたいって。いつの日か、もう一度……君に会いに来るために。そして、そのときに――」


 涙で滲んで廉君の顔がよく見えない。必死に手を伸ばすと、廉君は私の手を優しく握りしめた。

 冷たいその手が、改めて廉君がもう生きていないことを私に思い知らせる。目の前にいて、こうやって話をしているのに、もう生きていないなんて……。


「ねえ、真尋」

「っ……」

「僕の最期の願いはね、君の願いをかなえることなんだ。そのために僕は、死神になった。僕が持っている全ての力を使って、君の願いを叶えてあげる」


 廉君は、握りしめた手に力を込めてそう言った。

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