求愛信号、おとり、照明、逆照明、煙幕、警告、SOS信号。

 ソウヤさんが買ってくれた図鑑には、発光についての役割が七つあげられていた。有名どころでは、ホタルの求愛信号や、チョウチンアンコウの獲物をおびき寄せるための囮だろう。


「安瀬の隠れ里は山中のど田舎だったので、やはり〝照明〟の可能性が高いかと」

「隠れる必要があったなら、〝煙幕〟も考えられるんじゃね」

「なら敵に見つかった時の〝SOS信号〟もありえますね」

「逆の発想で、昼間姿を消すための〝逆照明〟もいけるんじゃ」


〝逆照明(カウンターイルミネーション)〟とは、深海の発光生物の光の役割で、深海にも光が届くため、腹面にある発光器で自身の影を隠すという。けれど私の場合、光の中で光を放てば保護色となり姿が消えるという考えはいささか無理がある気がした。


「私の光は暗紫紅色なので、あまり効果は無いかと。逆に目立ってしまうのではないでしょうか」


 いつものラブホテルの一室で、今日は照明をつけたままベッドの上で向かいあっていた。その真ん中に、発光生物の図鑑が広げてある。


「それな。カヲルちゃんのお母さんは何色に光ったの? やっぱアンシコー?」


 いえ、と私は記憶を辿る。普通、母親が出て行ったといえば、話題に出しづらいだろうに、ソウヤさんは特に避けようとしない。なので私も普通に答える。


「母は黄緑色だったと思います。ゲンジボタルみたいな、淡い蛍光色」


 子どもの頃に何度か目にしたと告げる。

 ソウヤさんは前のめりになり、ゲンジボタルの項を開いた。そのページにぽたり水滴が落ちる。

 今日はソウヤさんも風呂上りだった。当然、一緒に入ったわけではない。遅番中、彼は仕込み終わったミートソースが入った鍋を倒してしまい上半身を真っ赤に染めた。冷めていたから良かったものの、もう少しで大火傷を負うところだったのだ。その際、悲鳴とともに暗紫紅の光が立ち昇ったが、ミートソースの後片付けに必死だったソウヤさんは気付いていなかった。

 お疲れのようなら発光検討会はまた後日にしましょうと提案したが、ソウヤさんは延期を拒否した。むしろ癒しの時間だ、っていうかシャワー浴びたいと言い張って。

 ドライヤーを使っていないのか、彼の枯れ草色の髪は濡れたままで、上半身は何も身につけておらず、トランクス一丁。ぽたん、とまた雫を滴らせた。そして、こんな光なんだ、これもキレーだね、俺好きだよ。と、指でホタルの写真を指差す。

 あっちこっちフェロモン撒き散らして昼顔してるんだって――なぜだか、突然、純ちゃんの言葉がよみがえって。

 

 ソウヤさん。名を呼び、腕を引く。

 

 私は彼を洗面所に押し込み、使用してなかったバスローブを敷いて座らせ、ドライヤーの〈強〉の風を浴びせた。なになに乾かしてくれんの、という期待に満ちた声に応えぬまま、もう一枚あったバスローブで彼の髪の水分を吸い取りつつ、温風を当てる。

 尽くし過ぎるとそれが当然になる、とは世のならい。けれど濡れた大型犬めいて、どうにも情けないふうが我慢ならなかったのだ。心地良さそうに身を預けられると悪い気はしない。ある程度水気を飛ばすとドライヤーを弱に設定した。こうこうと温風を当てながら、話しかける。


「前に、山一つ燃やすほど光を放つ人がいたと話したじゃないですか」


 ああ、うん、あったね、ソウヤさんは相槌と一緒に頭を揺らす。


「安瀬の里の外に光り漏らしてはならない。その娘は掟を破ったそうです。寒田(さむだ)という山一つ越えた隣里の男に恋をして」


「へえ」


「里人たちは怒り、娘を牢に閉じ込め、折檻しました。夜更け、手当もされず牢にうち捨てられた娘の前に、季節外れの蛍が現れました」


「うん」


「青白い蛍火でした。娘の光の色とは違います。娘は歓喜しました。なぜって、隣里の男が迎えに来てくれたと思ったから。寒田の里では、男が蛍火を飛ばして女を呼び出すのです」


「ん、」


「そして、里を逃げ出す際、娘は山一つ燃やすほどの光を身の内から放ちました。この時の光の役割は二つ考えられます。男に自分の居場所を知らせる〝求愛信号〟。もう一つは、男の蛍火を隠すための〝煙幕〟です」


 ドライヤーを切り、脱色された髪を手櫛で梳く。短い髪はあっという間に乾いてしまった。


「でも、実際のところ、」


 娘の光の意味は――続けようとした口を閉じた。

 途切れた相槌、規則的な吐息、緩やかな肩の上下運動。覗き込めば、案の定、ソウヤさんは寝入っていた。

 さすがにベッドまで運べず、布団をずるずる引きずって掛けてやる。床で身体を痛めなければ良いけれど。

 私自身もあくびが漏れ出て、ソウヤさんの隣に潜り込んだ。ここで寝入れば二時間は過ぎてしまうだろうが、まあ構わないだろう。

 母が出て行った原因は光であろう。光を放つからではなく、その逆、光が枯れ果てたから。

 母がいなくなり、祖母は亡くなっているため、安瀬家や安瀬女の発光について手持ち以上の知識はない。けれど、禁忌を犯した娘の光は、私と同じ暗紫紅色だったと私は知っていた。落ち切る瞼の隙間から、暗紫紅の波間がのぞく。熱はもたないはずなのに、揺らぎ、対流が起きるのはなぜか。私はその理由を理解している。ソウヤさんを囲む女性客の主体性の無さと根底にあるのは同じだ。

 今、目を覚ましたなら、待ち焦がれる暗紫紅の海に溺れていることに気付くのに。いっそこのまま、二人して沈んでしまおうか。けれど、祈りにも似た心中願望を抱くには、私の欲の皮は少しばかり分厚く突っ張っていたのだった。

 


 九月に入ると、ソウヤさんと同じシフトに入る頻度が格段に減った。

 私は夏休みが明けてバイトの回数を減らし、ソウヤさんは旅費が貯まったのかほとんどシフトに入っていなかった。

 当然、ラブホテルでの発光実験は宙に浮いたままで、光の役割もわかっていない。

 季節の変わり目だからか、〈カーヤ〉も〈カヤカヤ〉も気忙しかった。社員の人事異動の通達が数枚、掲示板に上書きならぬ上貼りされた。 

 九月の最終週、ソウヤさんから連絡があった。ソウヤさんの声は少しかすれ、言葉少なで、疲れており、私の光が見たいと言った。彼が指定した日、私は休みだったが了承した。それがどういう情動か、わからないほど鈍くない。

 ソウヤさんの仕事終わりの午後十時に合わせて、原付で〈カーヤ〉を訪れる。従業員用の駐車場に原付を止め、近くのベンチに座った。

 日中の陽射しはまだ強いが、夜風は涼やかで、秋虫の声は透き通り、多重奏を奏でていた。今年の夏は気が狂うほどに暑かったが、存外、季節はきちんと巡っている。

 約束の時間になっても、ソウヤさんは姿を現さなかった。店内行ってみようか。二十分ほど過ぎ、腰を上げかけたその時、スマホが鳴った。


 「親父が倒れた」


 とはあまりに使い古された台詞で、逆に日常から逸脱していた。大丈夫なのですかと問えば、もう落ち着いたと意外にも軽い声が帰ってくる。今からそっち向かうからと言われ、一方的に通話が切られた。今日はやめておきましょうとかけ直すべきだろうか。でも。スマホを持つ手の甲を、光の舌が舐め上げた。


 持参していたお茶を飲み干してしまい、自動販売機へと向かった。

 午後十時半。広々とした〈カーヤ〉の駐車場は、従業員もほとんどが退勤しており閑散としていた。気に入りの檸檬水は、お客様正面入り口側の自動販売機でしか売っておらず、建物の外周に沿って歩く。

 原付を運転するため、基本的にスニーカーを履いている。夜陰には軽い足音が一人分響いているはずだった。けれど、どこか、ぶれを感じる。本来、歩幅も速度も違う誰かが、無理に合わせているような。唐突に止まり、歩き、走る。背後に影と熱量を感じた。後ろを振り向く勇気は無く、ただがむしゃらに手足を動かす。もっと速くと頭は命じるが、身体能力には限界があり、その齟齬が不安を煽る。「痴漢注意、寄り道厳禁!」の貼り紙は、上貼りしてはならなかったのだ。

 車の止めのブロックに足を引っかけ、つまずいた。大仰に転んだわけではなく、怪我もなかったが、影が重ねられるには十分な時間であり、まだ半袖からのびる二の腕を無遠慮に掴まれて。

 

 喉の奥が凍り付き、悲鳴すら出ない。残された手立ては一つだけだった。


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