3
腕とか胴体とか脚とか……それぞれ名前は知らないけど、骨が体のなかでへし折れているのは何となくわかった。痛みとかは感じないけど、眠たい体が、何となく異物感を覚えている。
真っ暗なようであり、真っ白なようでもある。
自分の体がどうなっているのか……寝ているのか立っているのかすらわからない。
じわりと、暖かくなってきた……気がする。春の日差しに包まれたような、休日の朝、布団に包まれたような、ほっとする暖かみだ。
僕は、死ぬんだろうか。
そんな文字列が、僕の脳裏を駆け抜けた。
いつものように職場でなじられて、
そしたらいきなり、わけのわからない巨人が襲ってきて、
気付いたら僕は魔法使いになっていて、
巨人に殴られて死んだ。
あまりにも、脈絡がない。
僕の人生、少しずつ磨耗して、弱って、寂しく終わるものだと思っていた。
世界は、ここまで理不尽か。
そして、
そして、僕の意識は、ぱっと現実に引き戻された。
見慣れた街の、変わり果てた姿。
獣肉とゴムを一緒くたに焦がしたような毒臭。うつぶせに横たわる、トロールの巨体。四方から、誰かしらの泣き叫んだり怒鳴ったりする声が響き渡る。
地上の惨状とは不釣り合いな、六月の空。夢は、まだ終わってくれていないらしい。
いや、僕は確かに殴られ――もはや轢かれて、と言うべきだけど――飛ばされて、死んだはずだ。
「ひ……」
自分の体を見て、血の気が引いた。
元は象牙色だった作業服が、血の池にでも浸けたような有り様だ。
濃淡様々な赤・茶・黒が、こびりついている。
慌てて自分の全身をまさぐる……どこも痛くないし、血が流れてる感覚もない。
それ以前に、あれだけバキバキに折れていた全身が、元気に動いている。
おかしい。意味がわからない。
夢だと思ったら夢ではなくて、けれど怪我をしたのは夢だった?
「あの、神尾くん、大丈夫?」
女の子がすぐ横から声をかけてきた。
この声、誰だっけ、ああ、春花さんだ、無事だったんだ、よかった、
「ねえ、答えて」
春花さんは焦ったように催促してきた。
「ぁ、ぅん……」
咄嗟に言葉がでない。
「どこも痛くない? 違和感は?」
「ない……です」
ぼそぼそと、どうにか応じる。
ただでさえ、彼女と話すのには勇気が要る事だ。野仲さん達とは別の意味で、神経を使う相手だから。ちょっと、猶予と言うか、心の準備を万全にさせてほしい。
一方、春花さんは、脱力したように肩の力を抜いた。
「本当に、できたんだ……よかった……」
?
何かを安堵しているように言う。
できたって、何の事――、
おどおどと、彼女に問おうとしたけど。
目の前がチカチカ光った。
それから、塊のような暴風が、横殴りに僕らを打った。
「う、あいつ、まだ生きて!?」
慌てて、トロールに目を向けた。けれどあいつは、指先ひとつ、動いていない。
「神尾くん、う、上っ! 上にっ!」
にわかに取り乱した春花さんが、僕の肩を強く揺さぶって、頭上を指差した。
「えっ、何――」
絶句した。
空に何か浮いてる。
そいつらは、人間に見える。
真っ白な、バスローブのようなものを纏っている。
今度は、僕らと大差ない、普通の体格だ。
けれど、背中から、白い鳥のような翼が広がっている。
鳥人間。もしくは、天使。
数は……そ、そんな、五人も居る……。
顔は、わからない。どいつも覆面……と言うか、死刑囚が被せられるような袋で頭を覆っているからだ。あんなので前が見えるのだろうか?
暴風の出所は、あの翼が羽ばたく事による、
どうせあいつらも、街とか僕らを襲うんだ。
もう、もう許してくれ……。どうして、こんな事に。
「高度を、落としている……」
春花さんが、僕の腕にしがみついて、呟く。
どうにか平静を保とうとしている彼女だが、僕の腕を掴む手は、痛いほどに強い。
とに、とにかく、春花さんに掴まれてない方の手を、天使達に向ける。
今のうちに照準を定めておいて、あいつらが少しでもおかしな素振りを見せたら、撃つんだ、やるぞ、絶対にやるぞ、
天使の姿が、消えた。
真っ直ぐ、水平に、僕らのそばをすれ違って背後に、速い、見えなかった、何の予備動作も無しになんであんな速、
まずい、振り返らなきゃ、なんとか、何とかしないと!?
「あ、ひィ!?」
上擦った悲鳴は、僕のものでも春花さんのものでもない。
ようやく僕は、後ろを振り向けた。
天使達は背後、三〇メートルほど彼方に居た……けど……あ、あれは、
「野仲さん! 沖村さん!」
「東山さん! み、水野くん!」
見慣れた人達が、それぞれ天使に羽交い締めにされていた。
「やめろ、お前ら、何を!」
辛うじて日本語を叫べたのは、水野君だけだった。
「離せ、離せよ、畜生!」
けれど、天使達は微動だにしない。
ただ、
「貴方達は、
一人だけ、誰も捕まえていない天使が、覆面にくぐもった声で宣告した。
人語だ。しかも、滑らかな日本語だ!
そんな馬鹿な!?
「全ては、我らが主の望み」
何の情感もない抑揚で、その天使は言う。
それを合図としたように、
「ひっ!?」
今度は、耳元の春花さんが、押し殺しきれずに悲鳴を漏らした。
僕も、声が出ない。
野仲さん達を捕まえていた天使達が、突然、開きだか三枚おろしだかにされた魚のように裂けた。 僕たちと同じ色の、血液を撒き散らして、あいつらの体が展開されてゆく。
そして。
内側の肉が、イソギンチャクのように、無数の尾を蠢かせ始めて、
野仲さん、東山さん、沖村さん、水野君を、絡めとり、包んだ。
「―――――――――――ッ!!」
二七年間生きてきて、ここまで切羽詰まった悲鳴を、僕は聞いたことがない。
天使だった不定形のものに包み込まれた会社の人達が、それぞれに叫んでいる。
「なに、何を!」
「
僕の、やっとやっとの抗議に答えたのは、まだ一人だけ人の形を保っている天使だ。
「滞りなく栄養を吸収する為には、食物を咀嚼しなければ。そうでしょう?」
事務的に応えてくるが、そんなのを見過ごしたら、何か、ダメだ。
「やめ、やめろ!」
生きたまま胴体を噛み破られ、砕かれている野仲さん。
それでも死ねないみたいで、天使の胸から出ている顔面は、元の顔立ちがわからないほど、表情を歪ませていた。
「やめないと撃つぞ!」
「駄目、彼らまで死んでしまう!」
春花さんが、僕を引き掴んで止めに入る。彼女にぶつかられたせいで、かざした掌が、大きくブレた。
「でも、でも、あのまま放っておいても……食われるんだぞ!?」
「っ……!」
多分、倉沢春花さんに対して、僕がこんな剣幕で迫ったのは、生まれて初めてだろう。だからか、春花さんは身を縮めて、言葉を失った。
ごめん、こんな時に脅かすなんて……。
けど、彼女への罪悪感と後悔より先に、処理すべき事柄がある。
「……頭だけを消し飛ばしてやれば」
今一度、野仲さんを踊り食いにしている天使に掌をかざす。
身体の面積が少ない分、先のトロールよりは脆いはずだ。(頼むから、そうであってくれ)
だから、短い“思考”で頭をぶっ壊してやれば、野仲さん達に被害を与えずに天使だけを殺すことも出来ないか。
しかし、今にして気付いた。
あれだけ俊敏に僕の横をすり抜けた天使達が、今度は動く気配を見せない。
そして、ぞっとした。
手(腹?)の空いた天使が一人居るという事は……僕や春花さんが、食われる可能性がまだ残っていたのだ。
いや、あいつがその気になれば、次の瞬間にでも――、
「止めて置きなさい」
リーダー格らしき天使が、慇懃な態度で僕に語り掛ける。
「彼らの神経や主要器官は、既に我が同胞達と融合されて居ます。
首から下を潰されれば、普通は死ぬのに、彼等は生きて居るでしょう?
通常で考えれば、おかしい事だ」
ぐうの音が出ないほどの正論だが、こいつが言って良い事ではないとも思う。
「どうして、こんな事を」「全ては、我が主の為に」
食い気味に言われて、つい僕は、背筋をびくりとさせてしまった。
相手に勢いよく出られると、身体が怯えてしまう。
すると。
天使の三枚おろしに首から下を食われた沖村さんの顔面に、異変が。
「あなただって、神尾だって、
私に、俺に、虐げられてきたはずだ」
それまで泣き喚いていた沖村さんの顔は、表情筋を無理やり抑え込んで、無表情を作ろうとしていた。
「本音では、俺が、こいつに、私に、喰われて、喜んでいるはずだ、です」
二人分の喋りが混在している。
とうとう、脳まで侵され始めたのだろうか。
「ち、違う……そんな事、無い……」
僕は、弱々しく反駁する。
彼ら、会社の人達が食われて嬉しいか。
それは、違うと言いたい。
偽善のつもりは、無い。
むしろ、そんな風に人を憎いだとか、ざまあみろだとか、
そんな事を実感する機能も、僕の頭からは摩耗してしまっていたのだ。
二七年間、誰かしらから後ろ指をさされ続けた結果。
憎むとか恨むとか僻むとか、どうやれば出来るのか……僕はわからなかったのだ。
でも僕は馬鹿だ。
表向きだけでもこいつらに同調しておけば、生き延びる目が出たかもしれない。
そんな簡単な事に、答えてから、気付いたんだから。
「神尾、くん、助けて……たすけ……」
少しずつ、眠たげになってゆく声で僕に乞うのは、東山さんの顔面だった。
「わたし……神尾くん……いじめてな……神尾くん、わたしだけでも……助け……」
「東山さんッ!」
そうだ、彼女や、他の何人かの事務員さんは、僕につらく当たらなかった。
なのに、どうして彼女がこんな目に……!
何か、何か方法は無いのか、僕は、何でもできる魔法使いに覚醒したはずだ!
なにか……。
「たす……、……、…………、…………」
東山さんの顔は、糸が切れたように黙り込んで、
「摂食完了」
そう、冷たく告げた天使の胸の中へ、完全に埋もれてしまった。
野仲さんも、沖村さんも、水野君も、皆。
わかっていたさ。
何か方法は無いのか、と、必死に考えて、打開策を見い出す事なんて……アニメや映画のヒーローでしかあり得ない。
まして僕の頭だと、なおさら、ありはしないんだと。
そして。
野仲さん達が完全に食われてしまったらしい今、次に矛先が向くのは僕と春花さんだ。
僕でどうにか出来るのか、五対一で――、
まばたき一回したら、天使のリーダー格がすぐ鼻先に居た。
「ぁ……ひぃっ!」
僕は情けなくしりもちをつき、その、袋詰めの顔を見上げるしか出来ない。
ダメだ、動きが全く見えない。
戦おうなんて考える方がおこがましい。
それを知った時にはもう、人を踊り食いする天使は、僕の至近距離に居て、
「……供物は、捧げられました」
そんな、わけのわからない事を言った。
そして。
五人の天使達は、ゆっくりと両翼を上下させはじめた。
それは次第に勢いを強くして、また台風を巻き起こし始めた。
地についていた素足を浮かせ、次第に高度を上げてゆき。
天使達は、また、空へと舞いあがる。
「さようなら。また逢う時まで」
リーダー格がそう言うと、
凄まじい大気の破裂音と、衝撃波が、僕達の立つ地上を乱暴に浚った。
僕が辛うじて目を開けた時、
空に立つ五人の天使は、忽然と姿を消していた。
――見逃された?
――それとも、腹が膨れた?
ただ、呆然と見上げる僕の顔に、
一枚の羽毛が舞い降りただけだ。
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