「お前さ、神楽坂と話すの、もうやめろよ」

「――え?」

 突然の言葉に俺は顔をあげて、岸本弘毅きしもとこうきの顔を見つめた。

 夏休みが明けた数日後のことだった。

 その日、神楽坂は風邪で学校を休んでおり、昼休みに話し相手のいない俺は神楽坂から借りていた本を読んでいた。

「……なんで?」

 俺は間の抜けた返事をした。

 岸本はこの中学に入学して、お互いに最初に友人になった相手だった。神楽坂ほどではないにせよ、俺の気の置けない親しい友人だった。

 神楽坂との会話がハイブロウで知的な交流を楽しむためのものだとするなら、岸本との会話は男子中学生らしい、下世話でくだらない会話を楽しむためのものだと、その頃の俺は思っていた。

 だから、この日の岸本の言葉も、はじめはそうしたくだらない会話の延長線上にあるものと思っていた。

「なんでってお前、あいつのこと変だと思わないのか?」

「変?」

「神楽坂って、変なことばかり言うだろ。宗教だとか呪いの方法だとか、そういう怪しげなことばかりさ。そもそも自分のことを『僕』なんていう女子、おかしいと思わないのか」

 俺はむっとして岸本の顔を見据えた。

「別に、変だとは思わないけどな。単に色んなこと知っているだけだろ。一人称だって、本人の勝手だし」

「お前が変だと思わなくても、俺たちは変だと思っているんだよ」

 岸本は少し苛立っているようだった。

「お前もいい加減気づけよ。このあいだなんて、蛇やら百足やらゲジゲジやらを壺に入れて共食いさせるだなんて話を昼休みにふたりで嬉々として話していただろ? クラスの女子たちがみんな気持ち悪がっていたよ。あいつらそんなことやっているのかって」

 岸本が言っているのは、神楽坂が蟲毒の方法について話していた時のことだろうか。

「あー、悪い。確かに飯時にする話じゃなかったな。神楽坂にも言っておくよ。これからはああいう話はしない」

「そうじゃなくて、そもそも神楽坂とはもう話すなって言っているんだよ」

 岸本はやはり苛立っているようだった。

「……なんだよそれ、なんでお前にそんなこと言われなくちゃならないんだよ」

 徐々に俺は岸本の言葉に不穏なものを感じ始めていた。

「じゃあ、判るようにはっきり言ってやるよ――お前、田村たちに目をつけられているぞ」

 岸本は声を押し殺して言った。

「……どういうことだよ」

「お前だって、神楽坂がクラスで浮いていることは薄々気づいているだろ? 女子たちなんか露骨に嫌っている。日下部くさかべはまだ俺たちとも付き合いあるから嫌われてないけど、このまま神楽坂と同類と思われていいのか?」

「……」

 ここまで言われれば、俺も今このクラスがどういう状況にあるのかを理解できた。

 岸本は俺よりも比較的クラスの中心的なグループに近い立場にいる人間だ。その岸本が言うのだから、岸本の言葉はこのクラスの総意であるに違いない。


 神楽坂海月はいじめられていた。


 正確には、神楽坂へのイジメが始まりつつあった。

 別に、そう珍しいことではない。ある集団が平穏な生活を送るために、日常のあらゆる不満や憎悪を特定の対象に転嫁し、排除する。

 全体の統一性を計るための、一種の政治的手段。

 神楽坂がこの場にいれば、犠牲の羊スケープ・ゴートという端的な言葉でそれを表現したことだろう。だが、その生贄の役割が、他ならぬ神楽坂自身に向けられようとは――。

「なんだよ……それ」

 俺はそれだけしか言えなかった。

「……いいか、日下部。俺は親切で言っているんだ。明日からは神楽坂に話しかけられたら無視しろ。そうすれば俺もお前には手を出さないよう田村たちに言ってやる。――お前も友達は選べよ」

「……ふざけんな」

 俺の声はいつの間にか震えていた。

 俺は昨日まで、少し性格に難はあっても岸本のことは基本的には善人だと思っていた。だが今、俺の目には岸本の顔が醜悪に歪んでいるように見えた。

 どうしてお前らは、そこまで他人に悪意を向けられるのか――。

「……そうかよ。お前はそんな奴だったのか。ああ、そうか」

 吐き捨てる言葉を絞り出す。

「……良かったよ。今のうちにお前がそんな奴だって知れて本当に良かった。なにが親切で言っているだよ。まるで自分たちに善意があるみたいに言いやがって。そういう奴のことをなんていうかお前知っているか? ――偽善者っていうんだよ」

 いつの間にかクラスの何人かが振り返って、俺たちのほうに聞き耳を立てていた。

 知らないうちに俺の声が大きくなっていたのだろう。

 別に構いはしない。聞きたければ聞けばいい。

 どうせこれは、お前たち全員に向けた言葉だ――。

「お前、いまなんて言った――?」


「偽善者だって言ったんだよ! ここにいる全員が!」


 俺は激昂した。今まで俺たちの会話に気付いていなかったグループも、俺の大声にびくりと反応して、恐々とこちらを見始めた。

 その一人ひとりの、顔、顔、顔――どいつもこいつもまるで平凡で、特別なものなど何も持たない贋者ニセモノたち――これがお前たちの正体か。

「ああ、そうだよ、お前ら全員に言っているんだよ! そうやって上っ面じゃまるで親友同士みたいな顔をして、その実、腹の中は保身と損得勘定だけで手頃な人間とつるんでいるだけのお前ら全員だ! お前らはそうやってお互いを信頼し合っているように見せかけて、本当は互いを馬鹿にして笑いあっているんだろう? だから『友達を選ぶ』なんて発想が出てくるんだ! 友達は選ぶもんじゃねえんだよ! 選んだら友達じゃねえんだよ! 誰かがクラスの中心にいるから友達になって、誰かが浮いているから排斥する――本当の友情はそんなもんじゃない! 俺は違うぞ。俺は神楽坂の奴に真の友情を求めているんだ。お前らみたいに打算で友人を作るようなかわいそうな奴らとは違うんだよ!」

 今や、クラスメイトの全員が、俺の姿を呆然と見ていた。俺はふと、怒鳴り続けている自分と、周りの人間を冷静に観察する自分の二人に自分が分裂していくような錯覚を覚える。

 俺はいま、何を言っている?

 俺は何を言おうとしているんだ――?

 それからの自分が何を言ったのか、俺はよく覚えていない。とにかく周りの人間に手当たり次第に当たり散らして、男子も女子も関係なく罵詈雑言を浴びせかけたような。おぼろげな記憶だけが残っている。

 気が付くと、俺はクラス中の視線を一心に浴びて、息遣いを荒くして佇んでいた。何人かの人間はにやにやと俺を指さして嘲笑し、何人かは俺を憎しみのこもった眼差しで睨み付けていた。

「……」

 沈黙が流れた。

 その沈黙が何を意味していたのかは当時の俺には判らなかった。

 だが、俺がこのとき、このクラスの何かを壊してしまったことは明らかだった。

「……そうか」

 しばらくして、岸本が口を開いた。

「よく判ったよ。つまり、お前もそうやって友達みたいな顔をして、俺たちを見下していたってことだろ?」

「え……」

 岸本はそれだけ言って、黙って自分の席に戻った。

 それは事実上の絶交宣言だった。俺は呆然として、かつて友人だった男の背中を見つめていた。

 岸本と入れ違いに、田村たちがにやにやと下品な笑いを浮かべながら俺の元に近づいてくる。


「お前、覚悟しておけよ、明日から……」


 世にも嬉しそうな顔で乱暴に俺の背中を叩き、そして満足した様子で、彼らもまた自分の席に戻った。

 痛々しい沈黙は、五時限目を告げるチャイムの音によって破られた。クラスメイトはみな席につき、何事もなかったように教科書を広げ始めた。

 だが、いつもは教師が来るまで続けていた談笑が、今日ばかりはどのグループからも聞こえてこなかった。

 不気味な沈黙が、神楽坂のいない教室で静かに流れていた。

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