1.Memory.

 今朝、家族から数年ぶりにメッセージが届いた。


 内容は祖父の入院を伝えるものだった。内容はただそれだけで、何があって入院したのか、退院の予定はあるのか、そもそも退院できるのかは書いていない。アルツハイマー症が進行していたのか、それともがんや何か別の病にかかったのか。

 僕は数年ぶりの父からのメッセージに、「仕事がある」と書いて返答した。

 父からの返事はなかった。

 僕と家族との間は、そのぐらいの距離感だ。身内の身に突然の不幸でもふりかからない限り、連絡を取り合うことなんてない。

 メッセージの受信からおよそ二時間後。僕は塵一つない無菌室の中にいた。

 口元をすっぽりと覆う白いマスク。

 汚れ一つない白衣。

 手を覆う真新なゴム手袋。 

 そんな恰好をした僕の頭上にはハニカム構造にLEDを束ねた無影灯がつるされていて、僕の眼前にある白い手術台に僕の影を投じている。

 手術台の上には女性が横たわっていた。年齢は40代後半。職業は主婦。彼女は家で家事をしていたところ、ハンマーで殴りつけたような強い頭痛と吐き気、めまいに襲われた。急激な心拍数の上昇、脳の酸素供給量の低下を感じ取ったウェアラブルAIが救急に連絡を行い、緊急搬送された。

 症例はクモ膜下における脳動脈瘤破裂による血管裂傷及び脳出血による脳圧上昇。

 つまり、クモ膜下出血だ。

 ぼくは拡張現実AR上に電子カルテを投影する。そこには通報からこの緊急手術室に運び込まれるまでの処置内容は勿論、過去にこの患者が受けた投薬や診療の記録が全て記録されている。現在の医療機関では、拡張現実上で電子カルテを共有し、患者に関する情報をリアルタイムで共有することが標準となっていた。身体情報は血液中を巡回するナノマシンが監査し、恒常性に反する兆候を感知すれば、その程度に応じて本人と指定の医療機関に通知が届く。専門的技能を必要としない簡単な診療や診察であれば、患者が来院せずとも、医師本人が病院におらずとも、自動的に検知され、電子カルテが作成され、その記録をもとに投薬や注射といった一定の医療行為を行うことができる。医者や患者が病院に拘束される必要はなくなり、病院は処置医療ではなく予防医療が主流となった。先進国では医療の進化によって人間の死亡率はどんどん低下していて、医療用ナノマシン《MEDNEM》と電子カルテ、そして拡張現実による遠隔医療システムの確立は、それを極限まで高めつつあった。しかし、それでも医師の知見や技能が必要とされる場面がある。それが、緊急医療の現場だ。恒常性を見守る医療用ナノマシン《MEDNEM》は、異常を感知してそれを緩和することはできても、異常そのものを取り除くことはできない。外科手術のようなハード・アプローチは、依然人間の手による処置が必要だった。

 脳動脈瘤は血管の薄い箇所に血液溜りが生まれ、血管が膨張、破裂する症例だ。血管が薄いために管の一部が膨れ、そして血管が薄いがために破裂する。

 膨らませる前の風船のゴムを、一部分だけ意図的に伸ばしてみるといい。その箇所だけ大きく膨らみ、そして表面がとても薄くなることがわかるはずだ。脳動脈瘤はそういう原理だ。一度破裂すれば、流出した血液によって脳の酸素供給量が減少するとともに、脳圧が上昇し脳細胞が圧迫され、「割れるような」と形容される鋭い痛みに襲われる。

 クモ膜下出血には、少なくとも二つの処置が必要だ。一つは出血を止めるために血圧を低下させること。そしてもう一つは、脳動脈瘤そのものを塞ぐことだ。

 

 頭の中に誰かの声が響く。

 三割。

 クモ膜下出血を発症した人間が元通りの生活に戻れる確率。

 残り五割は何らかの後遺症を患い、残り二割は死亡する。

 突発的に発症し、高い確率で重篤化し、死に至る症例――それがクモ膜下出血。医療技術が進歩し、個人の平均寿命が90歳を超えた21世紀の半ばにあってもなお、二桁の死亡率を誇る症例。

 ぼくはその確率を引き下げたい。

 ぼくは開頭手術の準備を始める。

 メス。

 剪刀。

 鉗子。

 ガーゼ。

 ピンセット。

 クリップ。

 クモ膜下出血に対する術式は大きく分けて二つある。

 一つは開頭クリッピング手術。動脈瘤の根元をクリップで固定し、血液の流入を外的に遮断するもの。高い確率で再出血を予防できる上に合併症も少ないが、脳を開頭しなければならないため患者の負担は大きい。

 もう一つはコイリング手術。血管にプラチナコイルを詰め、動脈瘤の入り口を内的に閉鎖するもの。手術は太股付近の血管に3mm程度の穴を開けコイルを通すだけだから、患者への負担は少ない一ものの、動脈瘤が大きくなれば閉鎖は難しく、処置できるケースは限られている。

 今回ぼくがやるべきは、開頭クリッピング手術だ。患者の動脈瘤は大きく、コイリングでは予防措置として十分とはいえない。

 ぼくが知っているのだから僕だって知っている。

 ぼくの手はてきぱきと手術を準備する。今までにこの手術室で何十回と繰り返した。だから、何がどこに置いてあるか、どう動くべきかは全て身体が憶えている。

 メス。

 剪刀。

 鉗子。

 ピンセット、クリップ。

 ガーゼ。生理食塩水。

 施術は流れるように進む。動きは僕よりも体の方が知っていた。メスを入れる場所、剪刀と鉗子で抑えるべき場所、クリッピングの要領、脳内に残る出血痕を洗い流すための生理食塩水。一昔前の手術と違って、溶血剤を注入するためのチューブは必要なかった。医療用ナノマシン《MEDNEM》は血管内の不要な凝血を特定し、溶血作用を働かせることができる。この手術さえ終われば、あとは在宅医療プロセスで根治に向かうはずだ。

 僕の身体はオートマティックに施術を進めていく。これはぼくが何度も何度も繰り返してきた手術なのだから当然だ。

 僕は頭皮の縫合に入る。ピンセットを持ち替えて、縫合糸を通した針を摘まみ、

 摘まみ、

 摘まみ、




 ――そのあとは、どうするんだ?




 突如として身体の動きが止まる。

 僕を突き動かしていた何かが幻のように消え失せて、何もかもを忘れてしまった身体が金縛りにあったように動かなくなる。


『――どうした』


 どこかから声がする。

 デジタル信号のようなジャギーのかかった音声。

 けどそれはおかしい。おかしいとぼくは感じている。

 だってここは手術室だ。一つのミスが患者の命を奪いかねない場所に放送装置をおいてある筈がない。


『動きが止まっているぞ』


 ああ。そうはいっても、無理だ。

 僕はこの先の方法を知らない。いくら思い出そうとしても思い出せない。

 どうやらぼくの記憶は、縫合に関する記憶だけが欠落しているらしい。

 目の前に頭を切り開かれたまま横たわる患者がいるのに、僕の身体は凍り付いたように動かない。


『今回もダメか?』


 

 僕はどうにか声を絞りだす。

 そこでようやく、僕の喉が緊張で焼き切れそうだったことに気がついた。

 僕は人の体内を覗くことに慣れていない。身体はすっかり汗だくになっていた。


『――わかった。実験を終了する』


 僕はヘッドセットに手をあて、機械を停止させる。拡張現実ARを停止させる。頭上の無影灯は消え、手術台はただの長机に変わり、ストレッチャーも、手術道具も、頭蓋を開かれた女性さえも消える。

 それと同時に、胸元にまでこみ上げていた息苦しさが急速に薄れていくのを感じた。僕の頭の中で確かに存在していた筈のつながりが、ガラガラと、音を立てて崩れ去るのを感じた。先程まで目をつぶってても再現できそうだったメスの扱い、頭蓋の切開法、クリッピングの方法も、何もかもがおぼろげな感覚にすり替わり、失われていく。僕の中から、ぼくであるという感覚が失われていく。

 そうしてぼくは僕に戻る。誰もいない実験室で、今にも吐きそうな最悪な間抜け面を晒す大男に戻る。

 医者のぼくから、一介の技術研究者にすぎない僕に戻る。

 ――これが5回目の実験だ。結果は、口に出すまでもない。

 僕はヘッドセットを取り外す。大昔のヘッドギアのように複雑な構造をしたそれは、主電流である生体電流から切り離されたことで機能を停止した。




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