スプートニクの中のレゾンデートル【~海月ライカボックス2018~】

ただっ広い田園風景が広がる。青い稲穂が揺れている。空を見上げれば天空を覆う雲の重なり、まるで中世絵画の様だ。

路肩にメタリックシルバーの車が停車していた。BMW840Ci Mインディヴィジュアル。黄金比を重ね合わせたように美しいデザイン。鋭角的なシルエットと機械的なディティールは宇宙船の様でもある。

傍らによれたノクターン色のスーツの男がヒトリ。左手にジェラルミンのスーツケースを持っている。右手の指に挟んだJPSを口元に持っていくと深く吸い込み田園から吹く風に煙を乗せる。ゆらりゆらりと空に溶けていく。


「こちらスプートニク、蛭麻ケンゾー。座標を送る。この日、この時間、この地点。僕は静岡県にいる。僕は彼女と・・・【クドリャフカ】と旅を続けている。」


マルティン・ハイデガー著【存在と時間】を精神の主柱とする男は今現在という時間に錨を下ろす。時間という大海の流れのなかで錨を下ろさねば気付いた時に波に流され取り返しのつかない時間経過の恐怖に陥るという観念に捕らわれている。

男はスーツケースに【クドリャフカ】と名を付けていた。そのスーツケースにはダイヤルが付いており厳重に中身を保護している。


「【クドリャフカ】さえいれば僕は何処へだって旅が出来る。何処へだって逃げていけるんだ。」


男は呟くと銀色に鈍く光るクーペのV8エンジンに火を入れた。銀色の塊は田園風景を超低空飛行で飛ぶUFOの様に疾走した。やがて田園風景の中の建造物が密集しているエリアに出た。

少し異質な印象を受けるエリアだった。商店、郵便局、薬局、食堂、教会などが密集して街の体裁を取ってはいるがどこか嘘っぽい。冷たいコンクリートで侵食されている様な場所だった。


「【ホテルサイレントヒル】か。しばらくここに滞在しよう。」


男は銀色のクーペを駐車場に停めるとホテルらしき建造物に入っていった。

1階のフロアには食堂、バー、クリーニング店、鍵屋等様々な店舗が軒を連ねていたが、照明は暗く、人の気配もない。一言で言えば寂れている。そして嘘っぽい雰囲気があった。そもそもこの区画に入ってまだヒトリも人間を見ていない。こんなもので商売は成り立つのかとケンゾーは思った。

赤絨毯の敷かれた螺旋階段を登り2階のフロアに出るとラヴェル作曲のピアノ曲【亡き王女のためのパヴァーヌ】が出迎えてくれた。

フロントへ歩く。時代錯誤とも思える銀縁の丸眼鏡をかけ、珍しい緑眼をした長い銀髪の若い女性と長身で年のわりに鍛えてるであろう体格をし、ナチュラルな金髪をオールバックにした初老の男がお辞儀をした。二人とも外国人の様だった。


「ようこそ。【ホテルサイレントヒル】へ。支配人のロザリンヌと申します。宿泊ですか?」


このような若いお嬢さんが支配人というのも嘘っぽかったがケンゾーにとっては今日の宿が確保できればどうでもよかった。それにこの街で初めて人間を見て少し安堵した。


「ええ。取り敢えず1週間滞在したいのですが」

「かしこまりました。此方にご記帳下さい。」


このケンゾーという男も嘘っぽさの塊であった。無精髭で髪はボサボサ、平日の昼間に1週間の宿泊。間違いなくビジネスマンではない。そして駐車場に停めたレトロな外車。全てが嘘くさかった。

ケンゾーは万年筆で嘘くさい個人情報を書ききる。


「此方が部屋の鍵です。レオナルドご案内を。」


ロザリンヌ嬢に渡された鍵の番号は6号室だった。


「オニモツヲ」


レオナルドと呼ばれたホテルマンに【クドリャフカ】を奪われそうになったケンゾーは咄嗟に手を振り払う。


「結構。これは大切なものでね。」


一瞬空気が張りつめた様な気がした。ケンゾーという男は人付き合いが苦手なのだ。


「カシコマリマシタ。コチラヘドウゾ。」

払い除けられた手でエレベーターを示す。無表情で吸い込まれそうな碧眼からはその心情は読み取れない。

【ホテルサイレントヒル】は6階建ての建造物で1階の複合商業施設と2階のフロントを除けば3階~6階が客室となる。

エレベーターは6階にたどり着き初老の紳士的なホテルマンに6号室まで案内された。


「部屋の掃除は結構なので替えのタオルだけ用意してくれるか?」

「カシコマリマシタ。オショクジハドウサレマスカ?」

「その辺で適当に食べるから結構」

「デハナニカアリマシタラフロントマデオデンワクダサイ。ゴユックリ。」


やはりこのホテルマンは無表情だった。まずケンゾーは非常階段を直接確認した。それはケンゾーが今まで旅してきての当たり前の習慣だった。不測の事態への備えであり、スーツケースの保護を最優先にしているのだ。

部屋に戻るとバスルームのバスタブにお湯を貯めるため蛇口を捻る。ソファに座りJPSに火をつけた。6階の窓から望む景色は一面田園風景だ。部屋を見渡す。広くはないがビジネスホテルよりはランクは上といった所だろうか。

壁にはキリコの絵画【ヘクトルとアンドロマケ】のレプリカと思われる絵が飾られている。

ケンゾーは湯に浸かる。深く息を吐くと疲れが体から抜けていく様だった。ユニットバスの傍らに【クドリャフカ】。洗面台の上にマカロフPMという旧ソ連製のオートマチック拳銃が置かれている。

モデルガンではなく本物の銃だ。何故そんなものを持っているのかはさておきここまで慎重になるのはケンゾーの【クドリャフカ】に対する異常なまでの執着の現れであった。

風呂から上がるとまずは煙草を一服。窓からは夕陽が最後の断末をあげていた。ケンゾーはふと空腹感を感じ、スーツに着替えて6号室をでた。エレベーターで一階へ。

やはり人気はない。照明はチカチカと点滅している。ケンゾーの靴音が廊下に響く。ホテルにチェックインする前に確認した食堂があった。


「アドリア食堂か。まだ空腹には余裕がある。辺りを散策するかな。」


直ぐに空腹を満たす事は出来たがケンゾーはこの嘘臭い区画を日が暮れきらない内に歩き回る事にした。

それに先程の食堂の他にも店があるかもしれないと考えていた。

マジックアワーに包まれた街はまるで現実感の無い幻想的な世界に感じられた。きっと人の気配が無いせいなのだろう。

スズムシの声が夕暮れの静けさに溶ける頃。コンクリートの壁が、民家の窓ガラスが、遊ぶものの居ない公園が、風に揺れる草木が、夜の闇に沈んで行った。

ケンゾーは【ホテルサイレントヒル】に帰って来た。歩き回って分かったがこの区画はそんなに広くない。民家が数十軒、後は僅かばかりの商業施設と公共機関。食堂もあったが閉店だった。そして夜になろうとしているのに明かりがどの家も建物も点いていないのだった。ケンゾーは違和感に警戒心を募らせた。【クドリャフカ】を持つ左手に力を込め、右手はスーツのうちポケットに閉まったマカロフを確認したのだった。


【アドリア食堂】

ドアを開くと入店を知らせる乾いた鐘が鳴った。ケンゾーは店内を見渡す。自分の他に客はいない。欧州風のインテリアで飾られている。窓は色鮮やかなステンドグラス。白熱球の柔らかいライトが店内を照らす。ケンゾーは奥のテーブルに腰かける。

店の奥から店主が顔を出した。


「イラッシャイマセ。メニューニナリマス。」


頭の禿げ上がった初老の店主にメニューを渡されケンゾーは一瞥する。メニューを開くと明らかな違和感に襲われる。

【海月とチーズのサラダ】

【海月のソテー】

【海月とジャガイモのスープ】

【海月アイス】

写真付きで紹介される全ての料理が、例外なく海月料理なのだ。

ケンゾーは眼を疑った。

イライラを抑えるためにJPSに火を着けた。


「おい店主。このメニューは冗談か?」


少し語気を強め、店主に問いただす。気持ち目に力を込めるケンゾー。


「ジョーダン?違イマス!クラゲ旨イデス。ワタシニコライ言イマス。アドリア産ノクラゲニ惚レ込ミマシタ。ドレモ旨イデス。ナンニナサイマスカ?」


満面の笑みを浮かべるニコライ。ケンゾーは苛立ちながらも【クドリャフカ】を持ち歩いている故に問題を起こすわけにもいかず。JPSの煙を吐き出し怒りを静めた。今から他の食堂を探す訳にもいかない。それに空腹も頂点に達していた。つまり海月料理をニコライにオーダーしたのだ。


「海月のソテー。あとこれ、アドリア・ロッソボトルで。」


「カシコマリマシタ。」


笑顔の皺を刻んだ初老の男は直ぐ様ワイングラスとコルクを抜いた赤ワインのボトルをケンゾーに渡した。ルビーを液体に溶かした様な滑らかな赤ワインをグラスに注ぐ。まずは一杯。

ケンゾーの1日の疲れを労う解放が喉を降りていく。旨いのだ。

すかさずJPSを一服。瞼の裏に血の高揚を感じた。


ケンゾーはゴクリ、ゴクリと赤ワインを喉へと流し込んだ。


「くそ。この世界は終末へと向かっている。その事に誰も気付きやがらねぇ。俺こそが【クドリャフカ】を使い世界を救う英雄なのに、それが何故だ。くそ。」


ケンゾーは軽く酔いながら小さく愚痴をこぼした。英雄とのたまっているが【クドリャフカ】はさておき、本物の拳銃を持ち歩いているのだ。当局に捕まればただでは済まないことは明白だった。


「オ待タセシマシタ。クラゲノソテーアドリア風デス。」




【未完】



















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