ep45. あなた達は人形じゃない

 ――ずっと、長い夢を見ているみたいだった。


 アルテミシアは初め、自分が何者であるかもきちんと判別できていなかった。「自分」を構成する要素はふわふわと纏まりを欠いて漂い、夢とも現ともつかない曖昧な場所で、それを構成するひとつの「モノ」としてただそこに在った。

 例えるならばそれは、暖かで幸せな夢に似ていた。まるで赤子を抱いて揺れるゆりかご。消えないように、無くさないように、大切に護られている感覚。優しさと慈しみだけでできた空間は、傷つき疲れきっていたアルテミシアをそっと癒してくれた。

 だが、夢の時間は静かに終わりを告げる。その時まで生前の記憶も曖昧に優しい眠りの中にいたアルテミシアは、唐突に全ての記憶と「自分はアルテミシアである」ということを認識した。

 一連の変化がアルテミシアの目覚めを促すものだということは、彼女自身にも分かった。世界が、ホーラノアが、アルテミシアをずっと守っていたこの場所が彼女の目覚めを待っている。雛の巣立ちを促すように、アルテミシアをずっと呼んでいる。

 だが、アルテミシアはその全てを拒絶するように両手で耳を塞いで丸くなった。押し寄せた情報の中にはアルテミシアが知らないものもあった。ホーラノア大陸をひとつの国として纏め、全体の健やかな発展と人々の幸せを助ける「魔女」。それが、今のアルテミシアに求められていることだと分かった。誰かがずっと、「起きて」とアルテミシアを呼んでいる。どこか寂しそうで、けれども優しい声で。それでも――。


(怖い……)


 アルテミシアは怖かった。暖かく優しい場所を飛び出し、広く果てのない世界に出ていくことが。今も胸の奥にはっきりと残っている。偽りとまやかしに絡め取られる恐怖。何もかも偽物で、その中で人形のように生きていたことを知った絶望を。

 アルテミシアは人間ではなかった。生物ですらなかった。たった一年の短い命で、求められていたのは欲深い権力者のエネルギーにされるか、彼らを憎悪する人々の復讐の道具として利用されるか。甘美な嘘の裏側では、アルテミシアを一個の心ある生命として認めてくれる者は誰もいなかった。

 もう一度、再び生まれ落ちたところでどうなるのだろう。待っているのは欺瞞と欲望に満ちた世界。満たし包む魔力は既に堕ち、人々は私利私欲に大義を掲げて武器を手に取る。少しずつ壊れていくだけの場所に、どうしてアルテミシアはもう一度呼ばれているのだろう。


「それは、たとえどんな状況でも貴女に会いたいと願っている人がいるからよ」


 突然聞こえた声に、アルテミシアは驚いて背後を振り返った。柔らかな優しい声で語りかけてくる女性。彼女は見事な金色の長髪に白いドレスを纏っている。薄らと透けた身体と慈愛に満ちた深緑の瞳はあの時と全然違うけれど、アルテミシアはその神秘的で気品のある姿に見覚えがあった。


「貴女、ティルテリア……?」

「そう。私の魔力もあの子の中にちょっとだけ残っていたから。ほんのちょっぴり、ティルヤ族として最初の形を維持するための分がね」


 本来ならティルヤ族の自我を作る「心」の部品になって私の自我はなくなっちゃうはずなんだけど、あの時は色々怒っていたから残っちゃったのかなあ。そんなことをボソボソと呟くティルテリアの言葉は全く理解ができない。それよりもアルテミシアは彼女が最初に言った「あの子」という言葉にびくりと肩を震わせた。


(私は、ティルテリアの言う「あの子」を知っている気がする)


 今もずっと、アルテミシア呼んでいる声。小さな子供のような、それでいて大きく豊かな森のような寂しがり屋のクジラ。アルテミシアを大切に護っていてくれた、誰よりも優しい人。

 彼がアルテミシアの魔力を心ごと護っていてくれたから、彼女のまま戻ってきて欲しいと願ってくれたから、アルテミシアは今ここにいるのだという。アルテミシアの中にひっそりと残っていたティルテリアの心も。


(……あれ? それってつまり)


 アルテミシアが大きく目を見開いてティルテリアを見る。己の考えを口にする前に、ティルテリアが自嘲するように微笑んで言った。


「そう。私が貴女とティルヤ族全ての生みの親。森林クジラの方はちょっと違うけどね」


 彼女の言葉には既視感があった。あの時、天空塔で捕まった時、ティルテリアの隣にいた大司教と呼ばれていた男が言っていたこと。あの時は混乱していて殆ど何も理解できていなかったが……。


「貴女、私のお母さん……?」

「……そう、呼んでくれるの?」


 ティルテリアは――お母さんは、切なげに目を細めて呟いた。アルテミシアが彼女に縋るようにして問いかける。夢も現も曖昧な場所で、瞳いっぱいに涙を溜めて。


「お母さん、私はどうして生まれてきたの?」


 お人形のように生まれて壊れていく、この生にどんな意味があるのか教えて欲しかった。彼女がどうしてティルヤ族を作ったのか、アルテミシアを作ったのか聞かせて欲しかった。

 ティルテリアは飛びついてきたアルテミシアを抱いて、そっとその顔に頬を寄せた。小さなアルテミシアは本当に小さくて、ティルテリアの手のひらに乗るほどの大きさしかない。そんな少女の涙を指先で拭って、ティルテリアは寝物語でも聞かせるように囁いた。


「小さなティルヤ族が初めて生まれた時、私は本当に嬉しかったの。ウィステリアの人々も本当に喜んでくれて、この子達はきっと祝福の中で沢山の人の役に立って幸せに生きるんだと思っていた」


 ティルヤ族を作る時、ティルテリアは殆ど命令のようなものをしなかった。彼女はただ本当の親のようにティルヤ族と接し、愛し関わる中で人の助けになることを教えた。


「本当に、娘のように思っていたのにね。私は自分のお母さんのことを殆ど知らなかったけれど、自分で考えて成長していく貴女達を見ているのが何よりも幸せだった。ヴァンデには命令を強化するように何度も言われたけど、私はこのままでもきっと幸せが続くんだと信じて疑わなかった」


 優しいウィステリアの人々。賢く素直なティルヤ族子供たち。世界は優しく美しい

 ままで、誰もが豊かで満たされた日々を送るのだと信じて疑わなかった。

 ウィステリアの外。国境を一歩離れた先には飢えと貧困に苦しむ人々がいると知るまでは。


「私は何も知らなかった。優しい故郷の裏の顔も、知らない場所に今日を生きるのも精一杯な人がいることも。誰もが事実を隠して私に笑顔を見せていたことが一番辛かった」


 全てを知ったティルテリアは、大陸中の人々を救うことを決意した。そこから起きた悲劇がいくつも重なって、ティルヤ族の絶滅とウィステリアの滅亡に繋がってしまった。

 その全ての経緯を理解しながら、ティルテリアはただ静かに微笑む。静謐さを湛えた深い森のような瞳に、揺るがない決意を込めて。


「ウィステリアの外にティルヤ族を放ったことは後悔していないわ。たとえこの未来が分かっていても、私は同じことをしたでしょう。ただ沢山の子供達を死なせてしまったことと、貴女に辛くて重い使命を背負わせてしまったことだけはずっと悔やんでいるの」


 だから、これはせめてもの贈り物。そう言ってティルテリアが手にしたのは、一輪の黄金色の花だった。揺れるたびに涼やかな音色を奏でるサンダーソニア。


「サンダーソニアの花言葉は『祝福の音色』。数多の困難を乗り越えて、貴女が幸せに生きられるように。大丈夫、怖がらないで。


 ティルテリアがアルテミシアの頭を優しく撫でる。いつの間にか、アルテミシアの背はぐっと高くなっていた。小さなティルヤ族から、人間の少女ほどの大きさへ。新しい未来を歩むために。


「私が自分の恨みのために貴女を利用したことは分かっている。だから、許してほしいなんて言わない。お母さんと呼んでくれただけで嬉しいわ」


 有無を言わさぬ言葉に何か返したいのに、アルテミシアは胸がいっぱいで何も言うことができなかった。俯いてしまった彼女に、ティルテリアが困ったように微笑む。そっと囁いた。


「これだけは覚えていて。これから先どんな理不尽があろうとも、。貴女もあの子も自由に生きていいのよ」

「あの子……アル」


 先程ティルテリアの言葉で思い出した人物の名前を、今度こそ呟く。アル。アルバート。合歓の木を背中に生やした、優しい森林クジラ。魔物になっても、その温かな魔力で大切にアルテミシアの心を守ってくれた人。

 遠く夢の向こうで待っている人を想い、目を細めるアルテミシアを見てティルテリアはくすくすと声を立てて笑った。


「大丈夫。ここを出ても、貴女はひとりじゃない。アルバートがずっと貴女を呼んでいるわ」


 耳をすませば、祝福の鈴の音色とともに「ミーシャ」と呼ぶ声が。

 懐かしい愛称に疼く足を我慢できず、アルテミシアは声のする方へ駆けた。

 迷いのない足取り。振り返らない背中。ずっと怖がっていたアルテミシアとはまるで違うただまっすぐな姿を、ティルテリアはいつまでも見つめていた。

 彼女達が掛けていく先に、両手で抱えきれないほどの幸せがあるようにと願いながら。


 *


 どれほどの時間走っていたのだろう。

 気がつくと、アルテミシアの視界は白い光に包まれていた。

 前にアルバートに教えてもらった場所と少し似ている。彼がアルテミシアに召喚される前にいたという場所。真っ白で何もない、自分の鼓動すらも聞こえそうなほどの無音。

 けれど、寂しくはない。だってずっと聞こえているのだ。立ち止まりそうな足を励ますように響く祝福の鈴の音。それに、ずっとアルテミシアを呼んでくれている優しいクジラの少年の声が。


「ミーシャ、聞こえる? アルバートだよ。聞こえるなら、ここに来てよ。俺は、ミーシャに会いたい」

(ずっと聞こえてるよ、アル)


 自分のことを「俺」と言うアルバートは、いつか二人で旅をした時よりも大人びた声をしていた。それでも、優しく真摯な響きは変わらなくて。


「天空塔の奴らから逃げながら話したことを、ミーシャは覚えてる? 俺は今でも、ミーシャと一緒にまた旅がしたいよ。一緒に色々なものが見たいってずっと思っているよ」


 忘れるはずもない。彼の言葉で、あの時のアルテミシアは救われた。魔法による強制力だとしても嬉しかった。

 けれどアルバートは、自由になった今もアルテミシアを求めてくれた。彼自身の心で。



「ヴァンデと精霊の話を聞いて、ミーシャを魔女にすることを知って、一度は連れ戻さない方がいいかもしれないとも思った。それでも、俺はミーシャに会いたいんだ」


 アルテミシアも怖かった。もう一度現実を生きること。再び絶望の中に落とされやしないか、堪らなく不安だった。

 しかし、アルバートは悩んでもアルテミシアに会いたいと願ってくれた。だからもう一度そこにいける。もう一度生きたいと思える。彼がいれば、どんなことでも乗り越えられると思ったから。


「ミーシャ、また一緒に生きよう。どんなに辛いことがあっても、今度こそ俺が君を守るから。今度こそ、誰よりも自由に生きていこう」


 別れ際、ティルテリアがアルテミシアとアルバートの幸せを願ってくれた。二人も自由に生きていいと教えてくれた。

 アルテミシアも信じたい。かつて感じた絶望、その全てを振りほどいて今度こそ生きたいと。誰よりも自由に、クジラ謳う大空を。

 再びアルテミシアは駆けた。どこまでも白い空間を、母が贈ってくれた祝福の音色と懐かしい声を探して。

 いつまで走れば辿り着けるのか、アルテミシアには分からない。それでも、もう怖くはない。どんなに遠い場所だろうと、どれほど時間が掛かろうと、再び出会えるまでアルバートなら呼び続けてくれると信じているから。

 走って、走って。鈴の音も声も徐々に大きくなっていく。無機質な空間が次第に色づいて、神秘的な静寂から生命いのちとその心が数多の音を奏でる雑然さに変わっていく。

 その時、唐突にアルテミシアの視界が白く強い光に覆われた。まるで太陽を直接見たかのような眩さ。堪らずアルテミシアも立ち止まり、強く目を閉じた。

 再び深緑の瞳をゆっくりと開いた時、彼女の前に広がる景色は一変していた。


 ――まず瞳に映ったのは、夢のような黄金色の花畑。


 りん、と涼やかな音を奏でるサンダーソニア。無数の花によって音色が重なり、幽かに緋色を帯びた金色の野をどこまでも広がっていく。地下空間を抜け、ルターシェリエを越え、ホーラノア全土に届くまで。新たな魔女の誕生を知らせ祝うために。

 鈴なりの花から視線を上げれば、次に見つけられるのはかつてクジラだった金髪の少年。魔物になって姿かたちは大きく変わったが、呆然としたまま涙を流す優しい瞳は変わらない。アルテミシアを呼んでくれた、ずっと会いたかった大好きな人。

 愛しさに胸が詰まる。再び生まれ落ちたばかりの世界の空気を吸い、きらきらと透明な涙を零しながら、アルテミシアは下手っぴな笑顔で湧き上がる想いのままに囁いた。


「ただいま、アル。ずっと守ってくれて、もう一度呼んでくれてありがとう」

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