ep41. 迷い路に師あり

 太陽は雲隠れ。ティル・ノグをふらふらとあてもなく彷徨う少年を導く夜明けの光は、隠れたまま彼の頭上を照らそうとしない。

 否、光から逃げているのは自分の方かもしれない。半ばから崩れた建物の間を縫うように歩いていたアルバートは、そう気づいて自嘲するように溜息を零した。


(逃げてる場合じゃ、ないはずなんだけどなあ……)


 大図書館で、精霊にアルテミシアを復活させられることを聞いた。恐らく、まだこの街にいるヴァンデに言えばすぐに方法を教えてくれることだろう。本来ならすぐにでも彼を探して尋ねるべきなのだ。少なくとも、以前のアルバートならば迷うことなくそうしたに違いない。

 だが、今の彼は迷っていた。ヴァンデがいつの間にかどこかに行ってしまったことなど、何の言い訳にもならない。むしろアルバートは、今彼がいなくて良かったと思っている。ヴァンデを再び見つけて話したところで、今のアルバートではどうしたらいいか分からなかったことだろう。

 ずっと、アルバートはアルテミシアが取り戻せたらそれでいいと思っていた。どんな手を使ってでも彼女を取り戻して、今度こそ誰の指図も受けず自由に生きることができたら。それだけが彼の望みだった。

 しかし、ついにその方法を知ったアルバートはアルテミシアを復活させることを躊躇っている。彼女を魔女として再びこの世界に呼び戻すことが、精霊の計画に加担するものと知って。

 アルバート自身は、それでもアルテミシアを取り戻したいと思っている。精霊の言動はとても認められない。だが、それでも彼女はアルバートの全てなのだ。アルテミシアがいたからこそアルバートはここにいるし、再び彼女と共に旅をしたいという気持ちも本物だ。

 しかし、同時に彼はこの地の魔女に起きた悲劇も知っている。精霊が魔女や魔物をひとつの生命として見ていないことを、ウィステリアの賢者達が身勝手な理由で魔女とその力を独占しようとしたことを知っている。全ては過去のホーラノアで確かに起きたことで、今後繰り返さないとも限らない。

 アルバートは、アルテミシアに生きてほしい。この国で生きることに、欠片も希望がなくなっていたとしても。彼女がいるだけで、アルバートは幸せだろうと思っているから。


 ――だが、アルテミシアは違うかもしれない。


 天空塔が墜ちたあの日、アルテミシアが感じた絶望は計り知れない。嘘、裏切り、まやかしにその小さな心を傷つけながら、それでも彼女は最期までアルバートのために微笑んでくれた。しかし今のアルテミシアが生き返りたいと思っているかと聞かれると、そうとは頷き難いのだ。

 誰よりも優しいアルテミシア。きっと彼女は、アルバートが望めば一緒に生きることを許してくれるだろう。「仕方がないなあ」とはにかむような笑顔で頷いてくれるに違いない。しかし、本当はどう思っているのだろう。ましてやこの国は、更なる絶望をアルテミシアに与えるかもしれないのだ。

 アルバートとて、彼女にこれ以上傷ついてほしくない。真にアルテミシアが思うように生きてほしいと心から願っている。だがそれは、この世界では不可能なことかもしれない。それが分かっていて、精霊に唆されるまま自分のエゴだけでアルテミシアを復活させていいものか。


「ミーシャ。君は、俺ともう一度生きてくれる……?」


 応えがないと分かっている問いを、そっと虚空に呟く。アルテミシアを取り戻したいという願いと、この世界に対するどうしようもないほどの絶望。どこを歩いても誰かの掌の上にいて、もしかしたら他人の思惑の外で自由に進むことができる道なんてどこにもないのではないか。そんな恐れが、今までアルバートが脇目も振らず歩んできた道の先を何も見えなくなるほどに暗くした。

 道端、何もないところで躓きそうになって辛うじて踏み止まる。そのまま、一歩も足を踏み出すことができず立ち止まって俯いた。身体が重い。水面を掻き分けて進むように、足元がふわふわとして頼りない。そのままどこか暗い海の底へ、ずぶずぶと沈んでいくような気がする。

 光も果てもない奈落の底で溺れそうになっていると、後ろから誰かがアルバートの肩を叩いた


「よう、アルバート。何か辛気臭い顔をしているな」

「あんたは……」


 振り返った先に立っていたのは、胡散臭い笑顔に幅広帽。かつてアルバートに魔銃と魔物としての生き方を教えた、あの魔物研究者の男だった。

 一瞬目の前にいるのが誰か分からず思考停止したアルバートは、言葉を探すようにもごもごと唇を動かすと、やがて決まり悪そうに視線を逸らして呟いた。


「……故郷に帰ったんじゃ、なかったのか」


 男は一度大きく目を見開くと、あっけからんと笑って言った。


「お前が心配だったから戻ってきた!」

「何だそれ」


 偉そうに胸を張って言った言葉を、アルバートが無慈悲にも一蹴する。それから、ぼそりと付け加えた。


「帰還命令、とか出てたんだろ。大丈夫だったのか」


 別にこんなやつのことは心配していない。していないのだが一応尋ねると、「まあ来るのに色々手間取ったけど。密入国したようなもんだし」と中々物騒な返事が返ってきた。

 男が言っていることは、確実に犯罪行為だ。彼の故郷に見つかればただでは済まないだろう。

 だが、彼は怯まない。驚くほどまっすぐな瞳で「それがどうした」と言ってのける。


「俺が故郷に帰れないとかどうでもいい。そんなの、最初にお前に会った時から覚悟してるよ」


 アルバートとヴィネッテリアで会った時から、一度帰郷することになったとしても何が何でもホーラノアに戻ってくると決めていたらしい。この国の魔物を――アルバートを助けるために。


「何で、そんなこと」


 意味が分からない。そう、明らかに分かる声でアルバートが言った。男は真剣な瞳を崩さないまま、先ほどまでとは打って変わって硬い声で言った。それでいて、祈るような口調で。


「もう二度と、この土地に起きた悲劇を繰り返さないために」


 その言葉に込められたあまりにも強い思いに、アルバートは疑問を挟むこともできずに息を呑んだ。

 男はどこか遠くを見つめるように、それでいて力強く訴えるように淡々と告げる。


「俺は、この地で起きた悲劇を知っている。人を恐れて逃げ、宿命を厭い自由を愛した魔物を。彼が望んだささやかな喜びさえも、精霊は許さなかったことを」


 男が語るのは、もう幾度となく耳にした前の魔物の話。ヴァンデが殺し、精霊が嘲笑った変わり者の魔物を、彼だけが憐れんだ。恐らく、彼なりに深い理由があって。


「俺はかつて魔物に救われた。それから魔物も魔獣も魔女も、沢山見てきた。だからこそ、俺は精霊が間違っていることを知っている。魔物も心を持つことを、ひとつの生物であるということを知っている」


 男の過去に何があったのか、アルバートは知らない。だがその真っ直ぐな言葉は、精霊の嘲笑で傷ついた彼の心を優しく温めた。


「俺は、魔物を救いたい。昔の俺が救われたように。魔物研究者になったのもそのためだ。だが、ホーラノアの魔物に起きた悲劇を俺は後から知ることしかできなかった。だから、今度こそ助けたいんだ」


 お前は、生きているんだから。そう言われて、アルバートは俯いた。この命は、アルテミシアに与えられたもの。それは遡れば、魔女ティルテリアと幾つもの悲劇的な出来事に行きつく。男が悲劇だと称してやまない前の魔物に起きたことがなければ、アルテミシアもアルバートも生まれていなかったかもしれない。それでも、ただ真っ直ぐに「お前を助けたい」と言ってくれたことが嬉しかった。

 ――だからかもしれない。気がつくとアルバートは、男に対して一言ぽつりと呟いていた。


「俺は……俺達は、まだこの世界で自由に生きられると、あんたは思うか?」


 そのまま吐息を零すように語るのは、ヴァンデに聞いた魔女と魔物の真実、かつて自分とアルテミシアが直面した一連の出来事の裏には何があったのか、そして精霊の考え。時系列は滅茶苦茶、何の脈絡もなく話題が飛び、理路整然とはとても言えない話を、男はただ黙って聞いてくれた。アルバートの心の内に潜む淀みも何もかも、ひとつひとつ丁寧に掬い上げていくかのように。

 語りの終わりに、アルバートは深緑の瞳で男をじっと見つめて言った。


「俺は、ミーシャにもう一度会いたい。もう一度、一緒に旅をしたい。それはずっと変わらない。でも、色々な人の話を聞けば聞くほど、ミーシャが幸せになれる未来はないんじゃないかって思うんだ。彼女を、もう一度この世界に呼び戻したらいけないんじゃないかって思うんだ」


 一言告げるたびに、アルバートは視界が涙で滲むのが分かった。辛い。寒い。あの日からずっと。アルテミシアがいないことが、彼は何よりも耐え切れない。それでも、短いあの旅と同じ終わりを繰り返すのならば。彼女が再び辛い思いをする結末しか残されていないというのなら、このままの方がいいのではないか。


「なあ、あんたはさっき魔物も生き物だと言った。精霊が言っていたことを否定した。……なら、俺に教えてくれ。まだこの国で魔物は、魔女は自由に生きられるのかを」


 いつか、ヴァンデが話していた。アルテミシアとアルバートを見ていると、この国にもまだ希望があると信じられると。確かにあの旅は幸せだった。アルテミシアと過ごした日々は、アルバートにとってこれ以上ないほどに幸福な時間だった。だが、その幸せさえも仮初のものだとしたら。残された希望の欠片すら、誰かが組み立てているパズルの一ピースに過ぎないのだとしたら。もう彼は、「誰にも指図されずに自由に生きられる未来」がこの国にあるとはとても信じられない。

 だから、信じさせて欲しかった。かつて多少強引に様々な「生きる術」を教えてくれたように。魔物を見つめ、魔物に対して精霊とは異なる考えを持つ男に、まだ希望はあると言って欲しかった。それを聞かないと、アルバートはどこにも行けない。

 いっぱいに涙を湛えた瞳。ただ必死に見つめ訴えてくるアルバートを見た男は、少し目を細めると穏やかな声で呟いた。


「お前が、俺の前で泣いたのはこれで2回目だな」


 ちらっと周囲を見渡した男は、崩れた建物の残骸であろう二、三段ほどの階段を見つけた。上にあったはずの建物は燃えてしまったのだろうか。周囲に危険なものも、崩れてきそうな瓦礫もないことを確認した男は、唇を噛んで嗚咽を堪えるアルバートの背を軽く叩き、そこに座るように促す。

 アルバートの隣に腰掛けた男は、ひと呼吸の後ゆっくりと口を開いた。


「お前は覚えてるか? 俺が、カスタードケーキを食べさせた日のこと」


 それは、アルバートが男と旅を始めて間もない頃の話だった。魔物になってから何も口にしたことがないというアルバートに、男が「それはもったいない」と言って渡してきたのだ。

 アルバートとしては、森林クジラの時は「食事をする」という機能がそもそも無かったし、魔物になったところでその必要性を感じなかった。魔物は魔力さえあれば生きられる。そんな無駄なことをするくらいなら、探したり調べたりしたかった。

 だが、男は食事を摂るべきだという。


『魔物にだって、食くらいの娯楽はあってしかるべきだ。人に紛れて生きるためにも、お前も食事というものを覚えたほうがいいだろう』


 そう言って持ってきたのが、ホーラノアで伝統的に食べられているという菓子「カスタードケーキ」だった。

 内戦に荒れる大陸。菓子類どころか食べ物が貴重な時代に彼がどうやってそれを手に入れたのかは謎だったが、とにかくアルバートは男が持ってきたその菓子を、半ば無理矢理食べさせられた。

 カスタードケーキは甘かった。元々はパン生地を使っていたそうで、その名残かスポンジケーキにも関わらず手で掴んで食べる。層状に挟まったカスタードクリームとシロップが一口齧るごとに口の中に広がって、訳が分からなくなるほど甘くて平和な味がした。


「お前、一口齧ってすぐに目をまん丸にしたまま動かなくなったんだよな。『何だこれ』って言って。そこまでは予想通りで面白かったんだけど、その後急に泣き出した時は流石にびっくりしたわ」

「……何が言いたい」


 けらけらと笑う男から赤くなった目を逸らし、アルバートがぼそりと呟く。彼も覚えていた。

 あの時も、理解を超えた甘さに固まったアルバートを見て男は可笑しそうに笑っていた。


『甘いよな』

『甘い』

『意味わからん甘さだよな。ホーラノアの奴は魔法よりこの甘さで兵器作った方がよっぽど有意義だぞ。大陸中の人が食べるならこの内戦には使えないけど』


 ホーラノアの味覚意味分かんねえ。そう言って笑う男を見て、アルバートも思わず笑ってしまった。アルテミシアを喪ってから初めて、随分と久々に声を立てて笑った。いつの間にか笑うのを止めて、瞠目してまじまじとアルバートを見つめる男。それにも気づかず、小さな子供のように無垢な笑顔で笑うアルバートの深緑の瞳から、ぽたりぽたりと透明な雫が零れ落ちた。

 気がついたら笑顔は泣き顔に変わり、アルバートは溢れる涙を拭うことも忘れて小さく嘔吐きながらカスタードケーキを食べた。


「突然泣き出して動揺する俺に、お前言ったよな。『ここにミーシャがいたら良かった』って」


 その言葉を聞いて、思わずアルバートは男の方を振り返った。それも、覚えていた。

 らしくないほど狼狽し「大丈夫か? そんなにまずかったか?」と聞いてくる男に対し、アルバートはふるふると首を振った。そして、しゃくり上げながら言ったのだ。


『ここにミーシャがいたら良かった。この国にはまだ、俺達が知らないものがあった。ミーシャはそういうものが好きだから。きっと笑ってくれるから。だから……』


 そのまま言葉が続けられなくなったアルバートの頭を、男は大きな手でわしゃわしゃと撫でてくれた。

 そうだ、アルバートは確かに言ったのだ。ここにアルテミシアがいてほしい。この国にある、未だ知らないものを見てみたいと。まだ、世界の秘密を、それがどんなに絶望的な状況であるかを知らないころではあるけれど。


「確かにな、この国は酷いよ。とんでもなく酷い。アルバートが希望なんてもうないと思うのも、仕方がないことだと思う」


 彼にも覚えがあるのだろう。固く拳を握り締め、真面目くさった顔で男が言った。だが次の瞬間、へらりとその相好を崩す。


「でも、お前はミーシャちゃんを取り戻した方がいいと思うぜ。世界がどうとか考えず、お前が望むように」


 アルバートが目を見開く。思わず「でも……」と否定の言葉を言いそうになった。それを遮るように男は語り続ける。


「国の有り様は簡単には変わらない。もしかしたら今まで以上に理不尽なことが起きるかもしれないし、お前もミーシャちゃんも辛い思いいっぱいするかもしれない。でもそれを乗り越えて、不思議なことや楽しいことを一緒に見つけられるのが『二人』の醍醐味だろ」


 この世界にある面白いものはカスタードケーキだけじゃないぜ、と彼は笑う。子供のようにきらきらとした瞳で。


「魔物や魔女に許された自由なんてすごくちっぽけで、こんな場所で生きていく意味なんてないって思うかもしれないけどさ。死ぬほど理不尽な世界も、何もかもが満たされた幸せな世界も、ひとりでいるより誰かがいた方がずっといいんだ」

 ――だから、取り戻せよ。お前が一番一緒にいたい人を。


 真っ直ぐな言葉に気圧されるように、考える前にアルバートは大きく頷いていた。男の満足そうな笑顔を見て胸の中に溢れてきたのは、満たされるような気持ち。それで良かったのかという確かな思いだった。

 深く考える必要はなかったのだ。それがどんなに絶望的な状況で、誰の思惑が絡んでいようと、アルバートにはアルテミシアが必要だ。それだけで良かったのだ。

 アルテミシアを取り戻して、もしまた理不尽なことが起きたなら、こんどこそ彼女を守ろう。辛い出来事に心が折れそうならば、必ず手を差し伸べよう。そしてカスタードケーキも教えて、色々なことを話して、二人で一緒に綺麗なものや不思議なものを沢山見よう。そう思えた。

 アルバートが立ち上がる。いつの間にか、雲間から太陽が覗いていた。燦々と降り注ぐ金色の陽光を受けながら、彼は男を見る。しっかりと地に足をつけて、少年らしい弾けるような笑顔で言った。


「ミーシャを取り戻したら、きっとあんたにも紹介するから。……ありがとう、

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