ep23. 花開くアルテミシアの歌

 夜のドンディナンテ、闇に沈む森の中にアルバートがその大きな身を横たえるように堕ちていく。


「アル……ッ!!」


 合歓の木を燃やされ、急速に力を失っていくアルバートにアルテミシアが縋り付いた。しかし再び浮き上がることはなく、幾つもの木々をなぎ倒し、眠っていた鳥や動物を驚かせながら降下を続ける。やがてドッシーンという地響きのような音と、アルテミシアが転がり落ちてしまうほどの激しい揺れを伴って、彼は遂に動きを止めた。

 周囲は不思議なほど静かだった。左右も不確かなほど暗い森でアルバートを見失ったのか、彼が堕ちたのを見てどこか降下できる場所を探しにいったのか、聖騎士が追ってきている様子もない。あらゆる生き物は巨大な落下物に怯えて逃げ、先程までの騒動とは打って変わって不気味なほどの静寂が辺りを包み込んでいる。

 アルバートの背から転がり落ちたアルテミシアは、倒れた木に頭をぶつけて暫く目を回し蹲っていた。が、よろよろと起き上がり、這うようにしてぐったりとしたクジラに近づいていく。


「アル! ねえ起きて、アル。お願い……ッ!」


 アルバートのボロボロの身体に縋り、何度も声をかける。泣きそうな声で呼び続けると、ようやく彼は黒目がちの大きな瞳を薄らと開いた。


「ミーシャ……?」


 返される声にいつもの元気はない。燃え尽きた合歓の木が焦げて形を失うのに伴って、アルバートの身体が崩れていく。土がクジラの形を失い、ドンディナンテの地に土壌を失った他の樹木や草花が散らばる。

 当然の現象だ。アルテミシアは、合歓の木の種子に魔法をかけてアルバートを作ったのだから。言うならば彼の本体は合歓の木であり、木を失えばクジラの形を保てなくなるのが道理。

 そう分かっていても、アルテミシアは信じられなかった。このままではアルバートが死んでしまうというのに、ただ崩れていく姿を見ていることしかできない。あまりの絶望に光を失った彼女の瞳から、ただ透明な雫が幾つもこぼれ落ちた。

 その時、アルテミシアの脳裏を過ぎった記憶があった。ウィステリアの森。ヴァンデに初めて会った時、彼の隠れ家にいく途中での会話。


『魔物は魔力でできているから、人も獣も関係ない』


 あの時、彼は確かにそう言った。「魔物は魔力でできている」と。それを思い出し、アルテミシアははっと目を見開いた。

 アルバートもそうしてしまえばいいのではないのだろうか。魔力で新たに形を与えれば、彼を死なせずにすむのかもしれない。


(そうだわ。魔力は心。合歓の木を巡っていたアルの心はここにあるのだから、魔法でもう一度形を与えたらいい。アルバートも魔物にしてしまえばいいんだ)


 魔法で命は甦らない。生物を作ろうとしても、魔力を塊にした偽りの姿でしかない。魔物として生物を創造するのに成功したという話も聞いたことがないけれど、魔物自体は実際にいるのだから成功する可能性はあると思ったのだ。

 どのみち、このままではアルバートは死んでしまう。それならいっそ、賭けてみた方がいいのではないだろうか。

 アルテミシアに迷っている暇はなかった。崩壊を続けるアルバートの身体にそっと触れ、彼女はいつものように魔法を使おうとした。

 瞬間、アルテミシアの全身からがくっと力が抜けた。


「……?!」


 魔法を使おうとしても、身体中に満ちているはずの魔力がどんどん吸い上げられていくような感じがする。まるで、天空塔で鏡の魔法をかけられた時と同じように。

 思い出したのは、またヴァンデの言葉だった。鏡を貰った時の言葉。


『……だが、あまりしょっちゅう使わない方がいい。戻れなくなるからな』


 あの時は、言葉の意味が分からなかった。しかし、今なら思い当たることがある。アルテミシアは、心の中でそれをぼんやりと呟いた。


(そっか。戻れなくなるってこういう意味だったんだ。私は、本当は植物ニガヨモギだから……)


 天空塔は「偽りの女神の夢」を使うことで、アルテミシアが一年以上保つように細工していた。だが、それもあくまで魔法。術者の本来の姿を隠す、偽りのヴェールに過ぎない。ヴァンデは鏡を使いすぎることで、魔法が解けてアルテミシアの本体である植物が育ってしまうことを警告していたのだ。しかし、天空塔で沢山の鏡に囲まれてしまったことで、使いすぎた時と同じ状況になってしまい――。

 そこまで考えて、アルテミシアはがばっと顔を上げた。恐ろしい考えが頭を過ぎる。まさか、まさか、そんなこと絶対に有り得ないと思っていたけれど。


(まさか、? エリュシオンのことも、天空塔のことも……)


 ずっと天空塔に行くことしか考えていなかったから気付かなかったけれど、考えてみれば違和感は沢山あった。鏡を持っていたこともそうだが、ティルヤ族についてとても詳しく知っていたこと。天空塔を嫌っていたにも関わらず、アルテミシアにそこに行くように勧めたこと。彼は最初から何もかも知っていて、自分の目的のために全て隠していたのだ。

 ヴァンデへの違和感をきっかけに、旅の中での出来事がアルテミシアの脳裏に甦る。今まで見てきたものとは、全然違う形を伴って。ひとつひとつ、魔法が解ける度に、偽りの記憶が剥がれ落ちる度に浮かび上がる真実。それらは全て、アルテミシアが――ひいてはティルヤ族が全く人間扱いされていなかったという紛れもない事実だった。

 ヴァンデはエリュシオンを探すのを手伝ってくれた。しかし、彼はエリュシオンのこと、天空塔に行けば何が起こるかを知っている上で、自分の目的を果たすためにアルテミシアを誘導していただけだった。

 ツァイトはアルテミシアに色々教えてくれた。しかし、彼はあの時確かに言ったのだ。


『貴女をここで失うわけにはいかないんです。どうしてここにいるのかは分かりませんが、意味がないとは思えません。アルテミシアは、鳥籠の人形とは違います。


 あの時アルテミシアは、ツァイトが銀ティルヤを「人形」と言ったことに怒った。が、それだけじゃないのだ。「誰に似ていた」かは未だ判然としないが、彼もまたアルテミシアを誰かと重ね、己の目的のために彼女を利用しようとしていた。

 アガタと、彼女の兄弟であるマヤとテオはアルテミシアに優しかった。しかしユルグの人々は、自分の街の利益のために彼女を捕らえようとした。ティルヤ族を伝説の妖精と崇め奉りながら、その実彼らを道具としか思っていなかった。

 たった数日の幸せな旅は、全て誰かの手のひらの上だった。アルテミシアもアルバートも自由意思で行動しているように見えて、魔法に導かれ、人々の言葉と笑顔に誘導されて、

 今、彼らはそのレールを外れた。軛は失われ、真実は明かされた。しかし、それで一体彼女に何ができるというのだろう。


(今更何もかも知ったところで、もう……)


 全身の力が抜けたかのように、アルテミシアはがっくりと項垂れた。その時、彼女の耳元に消え入りそうなほど微かな声がした。


「ミーシャ……」

「アル!」


 徐々にクジラの形を失いつつアルバートが、それでも苦しそうな声でアルテミシアに呼びかけていた。ボロボロ涙を零しながら縋り付く彼女に、弱々しい声で訴える。


「ミーシャ、僕のことはいいから、逃げて……。あいつらが来る前に……」


 荒い息の間に紡がれる言葉は、紛れもなくアルテミシアを想うもの。


「あいつらに捕まったりしちゃ駄目だよ……。ミーシャには、夢があるんだから」


 優しい言葉に息が詰まる。そうだ、。全て偽りの、何もかも仕組まれた旅の中で、いつだってアルバートはアルテミシアの味方でいてくれたのだ。――たとえ、それも魔法が起こしたことだとしても。

 そして、アルテミシアもアルバートを想っていたのだ。短い旅ではあったけれど、彼女の中でアルバートの存在は大きく変わった。いつの間にか、ずっと一緒にいたいと願うほど大切な存在になった。信じたことも願ったことも全て崩れ去った世界で、それだけが今でも変わらない事実だった。

 だから、アルテミシアは首を振った。アルバートの身体に顔を埋めたまま、何度も何度も。暫くして顔を上げた彼女の表情は、この場にそぐわないほど安らかで優しい笑顔だった。

 逃げられない。アルバートを置いて、逃げられるはずがない。こんなに大切な彼を置いて、どこへ逃げるというのだろう。どんな夢を叶えればいいというのだろう。

 随分と小さくなってしまったアルバートに囁く。この上なく愛しげな声で。


「ごめんなさい、逃げられないわ。私の夢は、アルがいないと意味がないもの。貴方を置いてはどこにもいけない。……


「ミーシャ……?」


 アルバートの声が戸惑いに揺れる。それにアルテミシアはほんの少しの微笑みだけを返して、再び魔法を使おうと魔力を意識した。全身の魔力が抜け始めるが、構わず語り続ける。


「魔力は心。新しいアルの身体に、私の魔力を全部あげる。もう従属の魔法なんてないから、何に縛られることもない。だから、どうかその自由な空に私も連れてって」


 言葉と同時に、眩いまでの真紅の光がアルバートを包み込む。闇を切り裂き、寝静まる森を照らす、優しくも哀しい光。アルバートも、探索を続けていた聖騎士も、誰もが息を呑む中、木の葉を揺らす夜風のように細やかに、しっとりと響き渡ったのは、ひとつの歌だった。


「【貴方は、森背負う空の王。未知への喜びと創造の夢を知る者】」


 それは、まじない歌。アルバートの自由を願う歌。


「【その大いなる翼を遮ることができる者はなく、ただ風と花を纏って空を舞う】」


 旋律は単純。言葉も湧き上がるものをただ繋げただけ。聴衆にその意味を理解する者もいない。それにも関わらず、アルテミシアの歌を聞いた者は誰ひとりとして動けなかった。

 さながら、子供の頃誰もが聞いた子守唄――優しさと慈しみだけででき、大人になってもひっそりと心の奥底に仕舞われた懐かしい歌を思い出しているかのように。


「【どうかその翼に自由を。羽ばたく先の空に光ある未来を】」


 一言、アルテミシアが紡ぐ度に彼女の身体は透き通り、代わりというように背中の苦艾アルテミシアがぽつぽつと花開く。

 歌の終わりを告げる前に、アルテミシアは紅く光り輝くアルバートを抱きしめてそっと口づけた。


「大好きよ、アル。ずっとずっと一緒にいてくれて、沢山助けてくれて、本当にありがとう」


 そしてできるなら、これからも貴方の傍に。

 最後は心の中だけでそっと呟いて。彼女は溢れる涙もそのままに、歌の終詞を囁いた。


「【願わくば、その森にいつまでも喜びが満ちていますように】」


 紅の光が収束して消えていく。森に静けさが戻ってくる。

 静寂を取り戻した夜の闇の中、後に残ったのは、呆然とした聖騎士達と、傷一つないアルバート。それに枯れ落ち、涙を浴びたようにしっとりと濡れたひと枝のニガヨモギだけだった。

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