ⅴ-ⅰ.嵐の目 前編

 

 牙をきだした暴力的な風が、甲高い音を立て耳のそばを通りすぎてゆく。

 身体をたたく雨の飛礫つぶては、冷たさを通りこして痛いくらいだ。


 相棒の首回りをいろどる丈夫で豊かな羽毛に顔をうずめ、風と雨をやり過ごさなければ、荒れ狂う嵐があっという間に呼吸いきを奪っていくだろう。


(ごめん、アズル……!)


 勢いに任せて追いかけたものの、この飛行が大切な相棒にどれほどの負担を強いているのか考えると、罪悪感が心臓をつかむ。

 どれだけ強い翼があろうと、そもそも翼獣は雨の中を飛ぶようにつくられてはいないのだ。


 それでも、引き返せない。

 だって、彼はアズルより飛ぶのが下手で、なのに嵐を止めるなんて無謀を言い残して飛びだしていったのだから。



 なんのために、――誰のために?

 問い尋ねれば、答えはひとつしかない。




(もうっ、どうやって止める気なのよッ)


 言葉を発すればとたんに息ができなくなりそうで、レイチェルは心中でだけつぶやいた。

 抱きしめた両腕から伝わる、アズルの確かなはばたき。それが激しい風嵐かぜあらしから自分を守ってくれている。


 無理やり上下のまぶたを引きはがし、金茶の羽毛ごしに前方を見れば、視界を蒼い破片がぎった。

 風にちぎられた木の葉のごとく、散り狂う無数のカケラ。


(……羽根?)


 前をゆく獣の輪郭りんかくは、蒼く溶けて奇妙な具合に見えた。さかまく風がその蒼いカタマリから、破片をちぎって散らしてゆく。

 そんなふうに見える、現象が、なにを意味しているのか、わからない。


 開くわけではないのに近づきもしない距離は、夢の中にいるもどかしさに似ていて、現実に触れるアズルの体温にすがりつつ彼女は歯がみした。


 そんな必死の飛行がどれだけ続いたのか。





 ふと、身体を打つ雨の痛みが弱まったことに、レイチェルは気づく。

 そろそろと顔をあげ周囲を見まわせば、荒れ狂う風嵐かぜあらしがいくぶんか弱まったようだった。


「……アズル、リレイ君は?」


 いつの間にか視界から、蒼い獣の姿が消えている。

 背筋を冷やす恐怖を押しこめて、相棒に尋ねれば、アズルは喉の奥で小さなうなり声を返してくれた。

 いまだ大気の動きは激しく、ときおり吹き上げる突風に気を抜けばバランスを崩しかねないが、それでも、グリフォンのはばたきはだいぶ安定してきている。


 レイチェルは、見失った獣の姿を探そうとアズルの上から身を乗り出した。手をかざし目を凝らせば、前方に巨大な入道雲、みたいなカタマリが見える。

 考えられる行き先は、一つしかなかった。


 レイチェルの意志をアズルはたがえない。

 彼は、ともに育った兄弟であり、家族であり、世界の崩壊をさえ一緒にきりぬけた唯一無二の相棒なのだから。


「行くよ、アズル!」


 甲高い咆吼ほうこうが呼びかけに答える。少女と翼獣はひとつになって、さかまく巨大雲に突っ込んだ。




 

 遠雷をいたのは、いつ以来だったろう。


「どうせなら、ぜんぶ壊してくれればよかったんだ」


 ぽつんとつぶやいた声が、ぽわんと響いて余韻よいんを残す。

 ぐるり雲の壁に囲まれたなにもない空間に、天使の姿をした青年は一人きりで突っ立っていた。


 勢いまかせに壁を突き抜け飛びこんできたグリフォンと少女は、予想外すぎる奇妙な場所に呆気あっけにとられて、戸惑いながら着地する。

 足に触れた床もまた、柔らかくてしめりけのある雲だった。


「ここは、……どこなの?」


 まるで巨大生物の腹の中に飛びこんでしまったみたいだ、と思いながら、レイチェルが尋ねると、リレイは彼女を振り返って柔らかく笑った。



「嵐の目」


 

 意味が解らなくて、少女は黙って目を瞬かせる。


 風嵐かぜあらしを強行突破してきたにもかかわらず、青年の衣服も髪も濡れたり乱れたりした様子はなかった。同じく飛んできた自分とアズルは、すっかりびしょ濡れだというのに。

 ……いや、よく見れば白い両翼だけは、痛々しいまでに羽根が抜け落ちて、ボロボロなのだが。


 なにかが、おかしい。

 羽根を散らしながら飛んでいた蒼いカタマリと、目の前にいる天使は、本当に同じ者なのだろうか。


「目の中に、何かあるの?」


 ぞく、と背筋をなぜる冷たい手。猜疑さいぎという名のソレを振り払いたくて、レイチェルはアズルの首を抱きつつリレイに聞き返す。

 確かに、台風の目と呼ばれる場所が無風であるとは、遠い昔に聴いたおぼえがあるけれど。


「うん」


 応じた声は短かった。


 いぶかるレイチェルをうながすように、リレイは視線を雲の壁へと転じる。

 つられて目を向けた少女の眼前で、すぅと壁に横一文字、亀裂が走った。


「……ッ!?」


 雲の表皮に細かなしわが刻まれ、まぶたが上がるようにゆっくり開いてゆく。




 ソレは確かに、〝目〟だった。






(後編へ続く)

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