握り返す、小さな手

 食事を終えれば、することはもう何もない。





風呂へ行ったクルミを見送ってから、こんなに暇なら自分も食事後に入ればよかったと思いつつ小さな丸テーブルに地図を広げ、あした歩くべき路を確認する。





だがそうしていると、部屋には時計がないし蛍光灯もないから、さほど遅くない時間のはずなのに、なんだかもう深夜のように感じられてきて、さっさとベッドに潜りたい気分になってくる。





 疲れているし、クルミが戻ってきたら寝てしまおう。そう考えながら、燭台の明かりの下、地図上に目を彷徨わせていると、クルミが部屋へ戻ってきた。





 ナオが用意してくれたネグリジェはクルミには大きくて、まるで照る照る坊主のようになっている。裾を微かに床に擦りながら、クルミは少しのぼせたようにふらふらとベッドへ歩いて、そこにすとんと腰を下ろす。





 黒く長い髪はしとどに濡れて、頬は桃のようにピンク色に染まっている。このまま寝たら、明日の朝には髪の毛が大変なことになっているだろう。





 アキラは浴室から新しいタオルを拝借してくると、遠慮するクルミを無理矢理イスに座らせて、髪を拭いてやる。もっとクルミを知るべく、自然な感じで尋ねてみる。





「クルミは、ふだん家にいる時は何をしてるの?」


「何もしていません」


「何も?」


「はい。時間が過ぎるのを待っているだけです。食事の時間が来れば食事をして、眠るべき時が来たら横になります」


「じゃあ……趣味は? 実は音楽が好きとか」


「興味ありません」


「読書は?」


「この国の規則や慣習についての本は、ルークに読まされました」


「じゃあ、縫い物」


「興味ありません」


「そ、そう……」





 少し距離が縮まったような気はしていたが、やはり会話は弾まない。諦めて、やがてクルミの髪をあらかた拭き終えると、





「じゃあ、今日は疲れたし、私はもう寝ようかな」


「そうですか」


「クルミはまだ寝ないの?」


「はい、どうぞ私のことはお気になさらず」


「そう……。ちなみに、クルミはいつもどれくらいに寝るの? もっと夜が更けてから?」


「はい、私は空が白くなり始めた頃に少し眠ります」


「え。そんなに遅いの? 十歳の子供なのに」


「私は眠ることが嫌いなので」


「嫌い? どうして?」


「横になっても眠れないですし……眠っても、悪夢を見てすぐに目が覚めます。だから、私は眠ることが嫌いです」


「そうなんだ……」





 そういえば、自分も母が死んですぐの頃は同じだった。眠れないし、眠れば悪夢で目を覚ます。あの頃は、夜が苦痛以外の何ものでもなかった。アキラはそう思い出しながら、





「でも、横になるだけなってたほうがいいよ。明日も色々大変だろうし」


「いえ、私は――」





 と、クルミは不意に言葉を途切れさせる。ハッとしたように息を呑んで、一瞬、視線を床へ落としてから立ち上がる。





 何か覚悟を決めたような面持ちでアキラを見つめ、





「察しが悪くて、すみません。解りました。私も横になります」


「ああ、そう――って、ちょ、ちょっと! なんで服脱ごうとしてるの!?」





クルミがネグリジェをたくし上げ始めたのを見て、アキラはガタンとイスから立つ。





 クルミは平然と、





「私たちは夫婦です。そして、今夜は初夜です。夫婦というのは、初夜に契りを結ぶものだと本には書いてありました」


「そ、そうなのかもしれないけど、私はそんなことしないからっ!」


「それはつまり、私を妻として認めないということでしょうか」


「ち、違うよ、そういうわけじゃない。そういうわけじゃないけど……クルミだって、別に私が好きで結婚したわけじゃないんでしょ?」


「はい」





 即答。それはそれで傷つくが、あんな事故が結婚のきっかけなのだから当然だ。





「そうだよね。なら、やっぱりダメだよ。例え夫婦でも、お互いを尊敬も何もしてないのに、そういうことをするのは間違ってる……と、私は思う。それに第一、君はまだ十歳なんだよ。もっと自分の身体を大事にしないと」


「いえ、そのようなことはお気になさらず。私はあなたの妻です。あなたの道具であり、欲望の捌け口です。どうぞご自由に私の身体をお使いください」


「だから、自分をそんなふうに言っちゃダメだって……」





 アキラは重い頭を抑えて、





「ともかく、そういうのはダメだから。だから、クルミも身体が冷えないうちに横になって、眠れなくても毛布で身体を温めておくこと。これは命令だよ」


「……解りました」





どうにか納得してくれたらしい。ホッと息を吐くと、アキラはクルミがベッドに入ったのを確認してからテーブルと壁の燭台の火を消して、窓側のベッドで横になった。





すると、部屋は自分の手も見えないほどの闇へと落ちる。





 窓の外はしんと海の底のように静まり返り、当然、車のエンジン音など聞こえない。





 そんな、これまで体験したことがない暗闇の中では、隣にいる人の気配が肌を撫でられるように敏感に解る。





 やはりまだ眠れないらしいクルミに、背中を向けたまま尋ねる。





「クルミは……どうして自分を大切にしようと思えないんだ?」


「……自分など大切にしたところで、なんの意味もありません。私はこの世界にとって、ただ邪魔なだけの存在ですから」


「そんなことはないよ。クルミは私にとって――」


「どうぞ私のことはお構いなく。私は、自分から進んでこのように振る舞っていますので」





 そう言われてしまうと、何も返せない。だが、ここで黙ってはいけない。





 アキラはむくりと身体を起こして、テーブルの上の燭台に火を灯し直す。そして、やや驚いたような顔で、眩しげに目を眇めているクルミに、





「クルミは今日、『この世界は絶望しかない。希望なんてまやかし』っていうようなことを言ってたよね?」


「はい、言いましたが……」


「確かに、以前までならそうだったかもしれない。でも、今はもう間違ってる。絶望しかないなんて、そんなことはないよ」


「なぜ……そう言えるのですか?」


「だって、今、ここに私がいるから。私がこの世界に来たから」





 アキラはクルミのベッドに腰かけ、クルミの目を真っ直ぐに見つめながら言う。





 クルミの小さな手を取って、優しく、強く握り締める。





「私がなんとかする。この世界にも、クルミにも……希望を思い出させてあげる」


「そんなことができる根拠など何もありません」


「根拠はある。私自身が根拠だよ」





どういう意味? クルミはそう言いたげに首を少し傾げる。





この話を他人にするのは初めてだ。アキラは少し緊張しながらも、これは伝えるべきことだ、と感じて話し始める。





「私が母親を病気で亡くしたっていうことは、もう知ってるよね?」


「はい」


「私、その時……本当に何も信じられないくらいショックでさ、それで……一時期、学校にも行けなくなったんだよ」





 クルミは黙って話に耳を傾けている。その大きな瞳には、燭台の灯りが揺れながら映っている。





「たぶん、一ヶ月くらいかな? それくらい学校に行けなかったんだけど……そのうち、なんだかんだで落ち着いては来たんだ。現実を受け入れられてたかどうかは解らないけど……ともかく、母親がもういないっていう状況には慣れることができた」





アキラは小さく嘆息を挟んで、





「それで、また学校に行くことにしたんだけど……ダメだった。またそれからも、私は学校を休んだんだ」


「それは……なぜですか?」


「理由は、何もかもがイヤになっていたからとか、別にそういうことじゃなかった。そういうことじゃなくて……学校に行ったらさ、みんなが私のことを『可哀想』っていう目で見るんだよ。どうやって話しかければいいんだろう、っていうみんなの緊張が、凄く伝わってくるんだ。それがイヤで、耐えられなくて……私はまた学校に行けなくなった」





 いま思い返せば、まるで全てが遥か昔のことのようにも思える。それは、自分が少しは前に進めていることの証だろうか。アキラは微笑んで、





「そんな時……私がまさに絶望しかない世界にいた時に私を救ってくれたのが、プリンセスと、この世界だったんだ。この世界は、私を全くの別人にしてくれる。私を、誰も知らない私、自分でさえ知らない私にしてくれる。そしてプリンセスは、そんな私をいつも笑顔で迎えくれる。憧れの人で、友達でいてくれる」





アキラは思い出す。





 学校を休んで、スーパーの片隅で身を潜めながらプリンセスと踊った思い出。深夜に家を抜けだして、もう一回、あと一回だけと何度もプリンセスと踊った思い出……。





「プリンセスとステージに立つ時、私は辛いことを全部忘れてた。気づくと夢中になって、プリンセスの笑顔につられて自分まで笑顔になっていて……。それで、私はまた学校に行ってみることにした。そうしたら、みんなは何もなかったように、笑顔で私を受け入れてくれたんだ」


「……つまり、何が言いたいのでしょうか」


「つまり、辛さも悲しみも、それに笑顔も希望も、ぜんぶ人から人に伝わっていくっていうことだよ。人は悲しい人の傍にいれば悲しくなるし、笑顔の傍にいれば笑顔になるんだ」





 だから、とクルミの手を両手で包み込む。





「だからクルミ、私のことを傍で見てて。一瞬でも私から目を放さないくらい、ずっと私を見てて」


「ずっと……?」


「うん。そうすれば、私はクルミに希望を感じさせてあげられるはずだから。頑張ればなんとかなるって、思えるようになるはずだから。だから、私を見ていて。誰よりも傍で、私をよく見ていて」


「……はい」





 まくし立てるアキラの熱量に押し込まれたように、クルミは頷く。その小さな手が――アキラの手をそっと握り返した。

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