道場。母の形見。

「終わり! みんな、集合!」





 練習のラストメニューである乱取り――試合形式の実践練習を行っていた四人の門下生に、アキラは声をかける。





 少女たちは手を止め、駆け足でアキラの前に集まり、横一列に並ぶ。





アキラがその場に正座すると少女たちも同じようにし、面を取り外す。汗でびっしょりと濡れ、髪の毛が貼りついた四つの幼い顔がこちらを見る。





 まだ肩で息をする少女たち、その一番右にいた少女を見て、





「すずちゃんは竹刀を振りかぶる時、手首をこねて竹刀を後ろへ傾けてしまってる。悪い癖にならないうちに、『竹刀を後ろへ倒さない』っていうことをしっかりイメージして」


「はい!」





 メガネっこのすずちゃんは、案外気が強くて物怖じしない。返事も威勢がいい。アキラは頷いて、その隣の少女に、





「ひなちゃんは恥ずかしがらずに声が出るようになって来たね。一つだけ言うなら、竹刀の握り方。ちょっと俺の手を握ってみて」





 と、アキラは握手をするように手を差し出す。ひなはその手を握ろうとするが、アキラは直前でスッと手を引き、





「そう。その手の形。ギュッと横に握らないで、そっと握手をすると思って竹刀を握る。これは大切なことだよ」


「は、はいっ」





 くりくりとした目を真剣に輝かせるひなに思わず微笑しつつ、





「けいちゃんは相変わらず元気だね。でも、夢中になると剣先けんせんがグラグラする悪い癖がまた出てたよ。次は気をつけて」


「うん――じゃなくて、はいっ!」





 元気溌剌な返事。元気で何より。次。





「ゆきちゃんはだんだん体力がついてきたね。『竹刀を中心から外さないように』っていうことも、よく気をつけられてた。――ゆきちゃん、剣道は楽しい?」


「は、はい……みんなもいるので……」


「そう、よかった。今はそれが一番大事なこと――」


「ねえ、先生! もう終わり? 終わりだよねっ?」





 けいが、今にも駆け出すように膝立ちになりながら尋ねてくる。





 普段なら叱るところだが、今日は合宿、もといお泊まり会の日。アキラは苦笑して、





「ああ、そうだね。じゃあ、そろそろ晩ご飯にしようか」


「やった! 早くカレー作ろう!」


「コラ、けい! その前にちゃんと礼でしょ」


「解ってるって! 先生、早く早く!」


「はいはい。じゃあ……先生に、礼」


「ありがとうございましたっ!」


「神前に、礼」


「ありがとうございましたっ!」





 こちらと、そして神棚に礼をすると、少女たちは我先にと道場を出て更衣室へ向かう。





 アキラは四人の背中を見送ってから、座敷――道場床よりも一段高い場所に設けられている畳敷きの部屋にいる父の前へと行き、





「父さん、終わりました」





 うむ、と重く返事をして、しかしなぜか父は動かない。背筋を伸ばして正座し、目を瞑って黙り込む。だが、やがて髭を蓄えた口を不意に開いた。





「お前は指導者としても、充分な力をつけたな」


「はい?」


「そして、明日はお前の十五の誕生日だな」


「え? ああ……そうでしたか」


「十五才、つまり元服、昔ではそれより大人とされた年だ。だから、俺は明日、お前にこの家の実質的な当主の座を譲ろうと思う」


「え? 譲ろうと思うって……父さんはまだ六十にもなってないのに……」


「しかし、もう俺の体力は鈍ってしまった。これでは、当主を名乗るにふさわしくない。だから、お前にその座を譲る」


「なぜですか? 急にそんなことを言われても……あの子たちだって戸惑うでしょう」


「無論、彼女らには説明をする。この道場を――明日で閉めることを、な」





 道場を閉める……? 驚きのあまり、アキラは声も出ない。





 父は表情一つ動かさないまま、





「お前も解っているだろう。昔は大勢いた門下生も、今は彼女らたった四人だけだ。剣道はもう、時代に求められてはいないのだ」


「そんなことは――」


「それに、いくらかあった財産も……アイツの病のためにほとんど使い果たしてしまった」





 アイツ、とはアキラの母のことだ。母は重い病にかかり、三年前に命を落とした。その際にかかった入院費用や手術費用がかなりの額であることは、アキラも漠然とだが知っている。しかし、





「そんな……そんなことを急に言われても、困ります」


「ああ、お前も無念だろうが――」


「この道場がなくなったら、小さい女の子たちに剣道が教えられなくなるじゃないですかっ!」





 魂からの叫びだった。父は目を丸くして、





「お前は……まさか、そんな不純な動機で剣道を……」


「不純ではありません。俺は、女の子たちが自分で自分の身を守ることができる、その術すべを彼女らに伝えたい。その一心で頑張っているんです!」


「そ、そうか……。ともかく、俺はこの道場を一旦、俺の名において閉じる。新たな当主となったお前がこの先どうするかは、全てお前次第だ。どこか間借りして道場を開くなりなんなり、それはお前が決めろ」





 アキラが絶句すると、父は苦い笑みを浮かべ、





「まあ、これはお前にとってもいい薬となるだろう。一家の当主ともなれば、お前ももうあのようなくだらない遊びに現をぬかしている暇もなくなるはずだ」


「くだらない遊び……? それは『プリキン』のことですか? いいえ、それは違います、父さん! あのゲームはくだらなくなんてありません!」


「なぜあんな着せ替え遊びのようなゲームにそこまで必死になる。お前は女装趣味でもあるのか」


「違います。俺は――」


「お前ももう大人なのだ。ゲームなどしていないで、しっかりと現実を生きろ」


「それは……その心配はもう不要です。あのゲームは、一月ほど前にサービス終了になったので……。しかし、先程の言葉は撤回してください。あのゲームは――あの世界は今でも俺の心の拠り所です。辛い時にプリンセスが支えてくれたおかげで、俺は――」


「くだらん戯言はよせ」


「……それは父さんのほうではありませんか」





 アキラの言葉に、父の顔色がさっと変わる。





「なんだと?」


「本当に何もかも、もうどうにもならないんですか? もうこの道場を手放す意外に選択肢がないくらい、うちには金がないんですか? 実は、全て放り出して、早く楽になりたいだけじゃないんですか?」


「お前は……! 誰に向かってそんなことを言っている!」


「父さんは忘れたんですか! 『大丈夫、なんとかなる』。母さんはいつだってそう言っていたことを!」





 上がった父の語気に、思わずアキラの声も荒くなった。





普段、二人は怒鳴り合ったりすることなどない。だから、アキラだけでなく父もハッと気まずくなったように視線を落とし、





「……しかし、なんとかならないこともある。アイツを襲った病のようにな」


「ですが、お母さんは最期まで笑顔を絶やしませんでした。それはきっと、前を向くことを忘れずに人生を生きようとしていたからなんじゃないんですか?」


「それでも、苦しみながら死んでいったことに変わりはない。アイツは『なんとかならなかった』んだ」





 言って立ち上がり、父は道場を去っていく。





 その背中は寂しげで、どこか小さく見えた。何も父だって、喜んで道場を閉めるのではない。父も苦しいのだ。そう思い知らされて、呼び止めることもできない。





 言い様のない気持ちが胸に溢れて、アキラはしばし動くことができなかった。が、やがて嘆息して着替えに向かう。





 自室でジャージに着替えて、キッチンへ向かう。





 すると、その途中にある物置部屋から、何やら囁き声が聞こえてきた。覗き込んでみると、門下生の少女たちが頭を寄せ合ってコソコソ何かをしている。





「何してるんだ? 早くカレーを作らないと」


「あ、先生!」





 と、こちらを向いたのは元気いっぱいなけい。その手に持った、キラキラと輝くカードをこちらに見せて、





「このカード、何? こんなの見たことないよ」





 少女たちは、アキラが段ボールに収めてここにしまっておいた、『プリキン』のカードを見ていたのだった。





「こんな場所にしまったのに、よく見つけたな……。それはキングカード。雑誌の特典で貰ったんだよ」


「へえ、こんなのがあったのね。私も見たことない」


「う、うん、わたしも」





 すずとひな、それにゆきも目を宝石のように輝かせてカードを覗き込む。





 アキラはけいの手からカードを抜き取り、





「でも、これは使えないんだよ」


「使えない? なんで?」


「使ったらマイキャラクターの姿が消えるバグがあって、すぐ回収されたんだ。だから、これを見たことない人もたくさんいるんだよ」


「ふ~ん……それよりさ、先生。先生はどうしてこのカードしまっちゃったの?」


「先生、もしかして……わたしたちと遊ぶの、イヤになっちゃったんですか……?」





 けいがじっと見つめるような眼差しで、ひなが悲しげな表情でこちらを見上げてくる。だが、すずが立ち上がって言う。





「待って、みんな。先生には前のゲームが特別だったのよ。新しいゲームじゃ、もう先生のお母さんのキャラクターは使えないから……」


「あ……」





 けいが小さく声を漏らして、目を伏せる。





 しん……と空気が重くなる。





 ひなとけいの二人は、アキラの母がまだ元気だった頃、一緒に『プリキン』で遊ぶくらい母に懐いていたし、すずとゆきの二人も事情は知っている。





そのせいか、少女たちはアキラの母が死んで以来、いつもこちらを気遣っている様子があった。





 しかし、小学生の女の子、しかも門下生に気遣われては『先生』の立場がない。それに、今日はお泊まり回だ。





 楽しい記憶になってほしい特別な日に、みんなにこんな悲しい顔はさせたくはない。だから、アキラはいつも以上に笑顔を作って言う。





「さあ、みんな、今日は楽しい日なんだから、そんな顔はしないで。一緒にカレーを作ろう。あ、裏の畑から野菜も取ってこないと!」





 いつも以上の笑顔の理由には、先ほど父と交わした会話もあった。





 ――この子たちに道場が潰れるだなんて……言えない。





 少女たちをキッチンへと向かわせつつ、アキラは少女たちが引っ張り出したままにしていった段ボールへと目を落とす。





『プリキン』は、新シリーズが今も続いている。だが、やはり自分が好きなのは、あくまで前のシリーズだった。





 どうしても自分には馴染めない。今のシリーズに対する恨み言を言うようになる前に、身を引こう。そう思って、アキラは持っていたカードを全て処分するべく、ここに置いていた。しかし――





 プリンセスと、マイキャラクターのカード。





 一番上に置いていたその二枚のカードを、アキラは手に取る。





 『プリンセス』とはこのゲーム世界における中心キャラ、いわば主人公で、マイキャラクターとはゲームで使える自作のキャラクターのことだ。そして、このマイキャラクターは、かつて母が作ったものだった。





「キュートポーン・シューティングスターコーデ……」





 母の好きだったコーデ、母の一番のお気に入りカード。言わば、これはアキラにとって母の形見だった。ふと、母の言葉が蘇る。





『あんまり背は高くないけど、髪は背中くらいまである長いポニーテールで、目はパッチリしてて……うん、若い頃のお母さんにそっくり!』





そう言って、母は少女たちと一緒に作って来たこのカードを嬉しそうに見せてきた。そんな母の記憶……。





 ――母さん……プリンセス……俺はどうすればいい?





二枚のカードをポケットに忍ばせてから、アキラは段ボールを棚へと押し込んだ。





誰もいない物置に、アキラの溜息がやけに大きく響いた。

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