9.騒動

 弁当を食べ終えた燕は、龍樹に連れられて仕方なく保健室へと向かう。自分より幾許か小柄な彼の後ろを歩きながら、つい溜息を吐きたくなった。

――別に保健室に行く必要なんてないのに。

 燕の思考は溜息に換算され発露する。それにより複雑な気持ちが龍樹に伝わったのだろう。彼は足を止める事なくぽつりと呟く。


「とりあえず熱計って、調子悪いことちゃんと伝えてくれ。それでいいから」

「……分かった」


 静かに頷いて、二人は保健室へと足を踏み入れる。やってきた燕達を見た養護教諭は、彼等の表情を見比べて、簡易的な問診票のメモと体温計を龍樹に渡す。


「調子が悪いのはオレじゃなくて、燕です」

「あら、ごめんね。じゃあそっちの子、とりあえず熱計って、あとそれ書いてくれる?」

「はい」


 どうやら傍から見れば燕が不調には見えないらしい。顔色で判別できないということは龍樹や貴音が聡いだけなのだろうか。漠然と考えながら、小さなメモ用紙と体温計を受け取る。静かに椅子に腰をかけた燕は、脇に体温計を挟んで、空いた手で枠内に名前とクラスを書く。しかし、症状について記載する欄を書く際に、はたと手を止めた。

――症状を書けと言われても……書きたくないな。

 トントン、と鉛筆でメモを叩きながら燕は重い気持ちを抱く。自分が抱えている不調を認めることにも、それを書き出すことにも大きな抵抗があった。

 龍樹に押されて保健室に来たものの、こうして自分の症状を書こうと考えると、まるで、自らを弱さを認めてしまうことになりそうで、なにも、書けない。

 ぐるぐる渦巻く頭で数秒考えた燕は、結局何も書かずに鉛筆を置き席を立つ。


「すみません、やっぱり俺教室に戻ります」

「おい、燕?」

「え? 調子悪いんじゃ……体温計見せてもらえる? ほら、ちゃんと座って」


 養護教諭に促され座り直した直後、脇に挟んでいた体温計が音を立てる。それを取り出して小さな液晶に目を向ければ、36.5と表示されていた。熱はないようで、短く安堵の息を吐く。

 熱がないならそれでいいと言わんばかりに立ち去ろうとしたところで、それまで立ち尽くしていた龍樹が声を荒らげ、勢いよく腕を掴む。


「おい燕、なんだよ戻るって!」

「……そのままの意味だけど。大して調子が悪い訳でもないのに、保健室にいる必要はないし」

「そんな顔色して何言ってんだよ! 貴音が気づいたんだから、お前相当調子悪いぞ」

「……不破が気づいたからって関係あるのか」

「っ、あるよ!」


 少し苛立ちを覚えた燕は、その感覚をあまり隠すことなく、目を幾らか尖らせ返答する。たじろいだ様子から、一瞬怯んだかに見えたが、引き下がる気はないらしくすぐ様龍樹は力強く言い切った。


「昔からすぐ無理するんだから。明らかに顔色が悪い時くらい大人しく寝てろ! 次の授業も気になるだろうけど、普段のお前は真面目だから、ちょっと休んだくらいでなにも思われないって!」

「ちょっと、他に休んでる人もいるんだから大声は出さないように」

「あ、ごめんなさい」


 つい大きく出た声を指摘され短く謝罪した後、龍樹は再度燕を見上げた。まるで怒りを宿したかのようにつり上がる瞳を見て、何故こんなにも龍樹は感情を荒らげているのかと疑問すら抱く。これ以上龍樹を怒らせぬためには素直に彼に従った方がいいのだろうとも思うが、この程度の不調は不調の内に入らない。多少悩んだ燕は、結局教室に戻ることを選んだ。


「熱がない事が分かったので、それでもういいです。それに、もうあと二限だけですし」

「そう。もし体調が悪化したら、遠慮なく休みに来ていいからね」

「……ありがとうございます」


 せめて養護教諭には失礼のないようにと穏やかに返し、会釈をした燕は静かに保健室を後にした。龍樹の呼び止める声が耳に届いたが、足を止めはしなかった。

 昼休みの学校は賑やかだ。保健室のはたであろうと、例え職員室が近くにあろうとも、騒がしい笑い声を上げて悪ふざけに興じるものは多くいる。それらを特に注意する気もなく足を進めたところで、己の名を呼ぶ大きな声が耳を劈く。

 見れば、予想通り明らかに不満を顔に湛えた龍樹がそこにいた。長くない距離にも関わらず肩が僅かに上下しており、余程焦って来たのだろうと安易に予想できる。

 龍樹は燕のすぐ傍までくると、燕の逞しい腕を掴んだ。


「燕、保健室戻れ」

「断る」

「――なんでだよ」


 今度は即答する。すると、まさか率直に言われると思っていなかった様子の龍樹が、僅かに目を見開いた後、悲しげに表情を歪める。その反応に対しては、燕の方こそなんで、と言いたくなった。

 正直放っておいてほしい。自分はこんなの平気で、明日さえ乗り切れば多少楽になれると分かりきっているのに。余程のことがない限り授業も欠席したくはないのに。それなのに、何故龍樹はこんなにも休ませようとするのか。心配しているのだとしても、少し鬱陶しいとすら感じていた。

 燕は暫し沈黙し軽く腕を振り払う。そして、真剣な龍樹の視線から逃れるように歩きながら呆れと共に言葉を選ぶ。


「……龍樹、この時期に俺が不調になるのはいつものことだろ。理由も分かってる。保健室で休んだところでどうにもならない」

「まぁこっちもそれくらい分かってるよ。長期休みが近づくとお前調子悪くなるし。……だとしても、心配だ。いつものことだって無理して、本当に風邪ひいたらどうする。そうなったって、お前休まないだろ」

「……明日乗り切ったら、少しはマシになるから、今日はもう放っておいてくれ」

「嫌だ。だってオレ――」


 隣を陣取った彼は間髪入れずに否定した。そこから更に続きを言おうとしたその時、ある生徒が龍樹を呼び止める。二人揃って目を向けた先にいたのは黒髪の男子生徒で、確か燕と同じバスケ部だ。彼は龍樹とも知り合いなのだろう。制服の上着につけられたバッチは、普通科を示す文字が書かれている。


「青滝! やっと見つけた」

「……葛西カッサイ、どうしたんだよ……今結構大事な話してたのに」

「君ねぇ、昼休みに先生に呼ばれてたの忘れてないかな? いつまで経っても来ないって先生ぼやいてたよ」

「あ……しまった……!」


 葛西と呼ばれた男子の言葉で、なにかを思い出したらしい龍樹は、途端に表情を硬くする。なにかに悩むような声を上げて暫し逡巡した彼は、観念したように大仰に溜息を吐く。そして燕に向き直ると、念を押すように言葉をかける。


「ほんと、お前マジで、調子悪かったら休めよ!? じゃあオレ先生のとこ行くから! そんじゃ!」


 慌てて走り出した龍樹を見送って、漸く燕は解放感を得る。蓄積された疲弊は、はあぁ、と零れた大きな溜息と共に吐き出された。


「市河調子悪いの?」

「別に、そうでもない。あいつが心配しすぎるだけだ」

「そう。まぁ、本当にしんどい時は休んでよ。監督もそのあたり気にしてる様子だったよ。市河は大事な戦力なんだからって」

「……そうか」


 監督の気遣いに驚き内心で詫びながら、そのまま少しだけ葛西と部活の話をし、教室に戻る。クラスメイトがまばららにいる教室に足を踏み入れると、龍樹とのやり取りを見ていたクラスメイトが、憂慮する言葉をかけてきた。もう大丈夫、心配いらないと適当に返しながら席に戻った。実のところ、身体に燻る不快感は一切改善されていないのだが、難なく午後の授業も部活動も乗り切った燕であった。



 翌日、長期休暇の初日。世間は長い休みに浮足立っている頃だろう。テレビを点ければ乗客で大混雑する駅のホームや、渋滞する高速道路の映像、利用者で賑わう観光地等々の映像が流れている。本来楽し気な――そうでなくとももっと穏やかな空気に満ちるだろうに、居間の空気は昨日よりも重苦しかった。

 朝食の席で信濃が作った味噌汁を啜りながら、燕は共に食卓に着く雄和に目を向けた。いつものように大抵のものに香辛料をかけて食べている彼の頬が、赤く腫れている。原因は昨夜の旭との喧嘩だった。



 昨夜、旭は最終確認のために弟達にあることを聞いていた。それは、見つかると困るようなもの――例えば漫画やゲームといったもの――が無いかということである。こういったものは多かれ少なかれ触れる機会もあり、学業に支障がない程度にならば親も許容する者が多いだろうが、双葉の場合はそうはいかない。

 それを重々承知しているからこそ、旭も入念に確認をする。もし見つかると迷惑を被るのは持ち主だけでは無いからだ。

 一応片付けられた部屋を確認して、流石の雄和も怒られそうなものは片したのかと安堵したが、予想外のものを旭は目にする。


「……なにこれ」


 雄和の部屋にて見つけたもの、それは、絶世の美形ともいえそうな程に整った顔立ちの、金髪碧眼の男性が写った写真集だ。しかも二冊。決して年齢制限があるものでは無い、至って健全――という割には扇情的だが――な写真集である。


「なにって、スペルビアさんの、写真集やけど……」


 先程の問いかけに不安げな雄和が口にした名前は、旭も知っているだろう名前だ。

 テレビで頻繁に目にするヨーロッパ出身のモデルの芸名である。蜂蜜色に煌めく金髪と、宝石の如き美しい碧眼をもつ整った顔立ちは、まさに誰もが目を惹かれるような、目の覚める美形だ。

 旭も彼のことは知っているし、端正な顔立ちだとは思っている。男女問わず多くのファンがいるのも理解出来る。しかし今はそれは関係ない。ただ、雄和がを二冊も持っていて、尚且つこんな時まで隠し通していたのが問題なのだ。

 何故、こんなものを雄和が持っているのか――そんなことを考えていたと思われる旭が、突然大声を上げ始める。


「…………あーーー……もう!」


 男の声にしては高い声が響いて、雄和はびくりと肩を震わせ思わず半歩後ずさる。

 そんな雄和の反応など意にも介さず、旭は机の上に置かれた写真集を一冊床に叩きつける。


「なんで! こんなものを! あんたは持ってんの!」

「ちょっ……待って、叩きつけんのはやめてや!」

「うるっさい! どうせ母さんに捨てられるんだから関係ないでしょ! それとも何、これ他人から借りたものだったりする!?」

「――っ、いや、それは……オレが、買ったやつ、やけど……」

「じゃあ余計なこと喋んな!」


 たじろぐ雄和などお構いなく、旭は目に怒りを宿して声を荒らげて、荒ぶるままに手を上げた。直後鈍い音が響いて、雄和の体勢が崩れる。

 片方の頬に発生した強烈な衝撃により頬が赤く染まる。そして口の端から僅かに血の色が見えたことから、恐らく口の中を切ったのだろうとも推測できる。平均より大柄な体で力もある雄和でも、それよりも20cm近く大柄な旭に殴られてはノーダメージとはいかない。

 しかしお互いになにも暴行に関して言及せず、雄和は怒り狂う旭に目を向けた。その先で、旭は自分の頭をぐしゃぐしゃと掻く。


「あぁあ、もう嫌、ほんっと嫌、本当に嫌なんでそんなもの買うかなぁ! なんで買ったの!」

「……いや、欲しかった、からやけど」

「じゃあなんで同じの二冊も持ってんの!」

「同じのじゃないで。そっちが通常版で、そっちが色々特典付き」

「一緒じゃん! 金の無駄遣いすんな馬鹿!!」


 雄和にとっては大きな違いとなるそれらの説明を怒声で掻き消していく。まるで癇癪でも起こしたように喚く旭の前で、雄和は居心地悪そうに眉間に皺を寄せた。

 それが、また旭の神経を逆撫でする。


「何その反応。嫌そうな顔して。反省してんのかあんた」

「反省、してます」

「本当に? だとしてもね、こっちは嫌なんだよ。自業自得で怒られるならともかく、なんであんたのせいで僕が怒られなきゃなんないの」

「…………ごめんなさい」

「ごめんなさいで済むものなら、僕ここまで怒らないんだけど。というか、君もう高二でしょ。16歳でしょ。いつになったら覚えるの。漫画じゃないからいいとか思ってんの? そんなわけないじゃん!」


 再び鈍い音が響き雄和の頭が揺れた。顔を歪め思わず頭に手を添えた雄和は、怖々ながらも反論しようと口を開いたが、旭の言葉がそれを遮る。


「というかさ、小2の時あんなことあったのに、学習してないの? あんだけ泣いてたくせになんも覚えてないの? 馬鹿だよね、あんた。馬鹿すぎていっそ呆れる」

「そ、それは……覚えてる、けど……」

「じゃあほんとに学習能力ないんだ、ほんとに頭スカスカなんだ、そんで一緒に怒られる僕のこと一切考えてないんだ」


 旭の冷たい言葉に、一瞬雄和は苦い顔をして閉口した。その反応に舌打ちをした旭は悪態をつきながら背を向ける。


「あぁ、ほんっとやだ。なんであんたはこんな馬鹿なの!」

「…………すみません」

「もう謝罪はどうでもいい! それよりも、それ明日までになんとか処分してよ!」


 力任せに扉が閉まり、部屋は静寂を取り戻す。その中でひとり、雄和は、やるせない表情で叩きつけられた写真集を手に取った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る