07

 こんなにも胸がざわつくのは、愛息子同然に可愛がっていた者に突然親離れされたようで寂しいからだ。……なんて、理屈っぽい大人の言い訳で誤魔化せるほど、美織は自分の気持ちに疎くはなかった。

「どなたか、気になっている方でも?」

 どうにか平静を装って尋ねると、少し不満そうな視線が返ってきた。

「汝じゃ」

「は?」

「もうずっと、汝が欲しくてしようがない。触れたくて……美織、と、そう呼びたくて」

 彼が何を言ったのか、理解するのに少し時間がかかった。

 美織、と発せられた言葉が耳の奥でこだまする。

「私……?」

「これは、『恋』か?」

 真剣な表情で再度問われ、美織は答えに困った。

 そうだ、とも言えなくもない。だが自分に対しての相手の気持ちをそういう形で決めてしまうのも何か違うような気がする。

「……私は音恒様ではありませんから、音恒様の心を代弁することは出来ません。ただ、好意のうちではある、と思います」

 当たり障りなく言葉を選びながら言い、俯く。

 例えどれほど想っていようと、想われていたとしても、一緒になることは叶わないのに。だって彼は男で、自分も男として過ごしている。何より、一介の医師と天皇家の者とでは、あまりに身分が違いすぎるだろう。

「主治医として、私は最期まで音恒様のお側に居ます。途中で投げ出すような無責任なことはしませんから、ご安心下さい」

 問いに対しての答えにはなっていない。彼の想いに対して何も答えていないと。分かっていても、それ以上のことを言うのは憚られた。

「違う」

「音恒様」

「そうではない。だが分からぬ。吾は汝と――」

 頭を抱え始めた音恒の様子を、見ていられなくて、美織は小さく丸く縮こまった身体を優しく包み込む。

 悩む時間は、恐らく無い。陽の光を浴びることが出来ないせいもあり、音恒は虚弱体質だ。風邪をよくひき、夜に出掛ける時も少し遠出をすると翌日には熱が出る。カイロプラクティックの技術も、基本部分の優しいものしか出来ないのが現実だ。

 医療の発達した現代ならまだしも、この平安の世では虚弱体質の者は恐らくそれ相応の寿命しかないだろう。何が原因で命を落とすかも分からない。

「でしたら、忍ぶ恋をしましょう。誰にも告げることは出来ません。けれど二人だけの合言葉で、想いを確かめ合うことは出来ます。今日のように、往診に来た時や夜の散歩で、二人になることが出来ます。その時だけなら、想い合うただの男女になっても……良いと、私も思いたいです」

 あくまで願望だ。分かっている。だけど、

「私は……音恒様を、お慕いしています」

『恋』を、している。少なくとも自分は、で音恒のことを好きだと、もう気付いていた。

 腕の中で、ゆっくり、音恒の顔が上げられたのが分かった。返事はない。ただ、はぁ……と、長いため息の後、彼の手が美織の背に回されて。

 何も言わないまま、二人はしばらく抱き合っていた。




   *




 季節がひとつ、変わった。

 いつも通り音恒のもとへ往診に行こうとする道すがら――とは言っても、もう宮中ではあったが――美織は突然一人の男に声をかけられた。

「縁和臣じゃな」

「はい」

 付いてこい、と言われるまま、美織は男を追う。一室へ通されると男は上座に座り、下座へ座るよう美織を促した。

「汝に聞きたいことがある。まずひとつ、汝は何者じゃ」

「え……」

 その言葉は、問いとは違っていて、確認のようだった。だが何の確認なのか。もしかして、音恒が何かを言っただろうか。いや、彼が安易に美織のことを他者に話すとは考えにくい。だったらこの男の問いはどういうことなのか。

 もしも、音恒が話したのだとすれば、何か理由があるのかもしれない。そうなればこの男にも隠し事などしない方がいいのかも知れないが。それにしてもこの男が何者なのか分からないことには、いずれも判断しかねる。

 黙り考え込んだ美織の様子から何を思ったのか、男は顔の前で揺らしていた扇子を、パチンと音を立てて閉じた。

「では吾の方から話そう。吾は宇多という」

「! では、帝……様」

 名だけは知っていた。まさか一介の医者に過ぎない自分の所に、顔を隠すこともなく訪れるなどとは思わないではないか。

「申し訳ありません、貴方様が何者か分からないうちからどこまで話していいかと考えてしまって」

「かまわぬ。して、吾が帝と知って、どこまで話す?」

「……話せる限りの、全てを」

 態度は、改めない。改めなければいけないような言動をした覚えはないし、ただ失礼があったとすれば、問われているにも関わらず黙ってしまったことくらいだろう。それはもう謝罪した。

 それからは、問われるままに話をする。内容は、以前音恒に話したこととそう差異はなかった。本当は女であることも、美織の名も、何故か不老の身になってしまったことも。

「音恒が、汝のことを『女神』と言っておった。それはよく分からぬが……そうじゃな、汝の名を、『生神』として、極秘の書物に残そう。困ったことがあれば、何代先でもその時の『帝』を尋ねるといい」

「え、しかし……」

「音恒と、仕える者の病を救ってくれた礼じゃ」

 言うだけ言って、宇多は去っていく。呆然と見送って、しばらく後に美織は全身の力が抜けるのを感じた。

 極秘の書物と言った。ならば表歴史に自分の名が残ることはない。だが生神とは、いささか大げさではないだろうか。

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