05

 屏風の奥、だけで閉じこもっていなくてもいいのか。夜ならば、こんなに明るい月の下でも、出てきていいのか。

 十年前、太陽の光を浴びてはいけないと言われて『普通』を諦めた。『外』へ出ることを諦めた。自分は死ぬまでこの十畳ほどの空間の中だけで生きていくのだと。

 瞳から、雫がこぼれ落ちる。十年前にも隠れて流した涙。誰もが自分のことを「強い」と言ったけれど、和臣だけは気付いていた。だけど今度は、全く逆の意味を持つものになった。

「十年も、よく耐えてくださいましたね」

「かずっ……」

「夜だけですけど。これからは、たくさんお出かけしましょう。見せたいものがたくさんあるんです」

 こらえきれず胸に飛び込んだ音恒を危なげもなく受け止め、抱き締め返しては和臣は優しい手付きで彼の頭を撫でる。やわらかな感触、冷たいけれど優しい掌、穏やかな声と甘い言葉。心なしか、良い香りがするような気もする。

「ああ……星が、きれいですね…………」

 少し強く音恒の頭を抱き、和臣が呟いた。今日は、月を見ようと出てきたのではなかったか。なぜ今、星なのか。

 博識な和臣のことだ、何か意味はあるのだろう。だが今は、聞かないほうが良いのかもしれない。

 何でもない様子で身体を離して、持ってきた食べ物――どうやら菓子くだもののようだ――を勧める和臣の笑顔を見ると、何も聞けなくなる。ただ同じように笑みを返し、縁側に座って菓子を口に含んだ。




   *




 今日は和臣は来ないだろうか。突然の篠突雨しのつくあめはどんどん激しさを増し、すっかり太陽は隠れてしまっている。今なら外へ出ても症状は出ないだろうが、もし雨に打たれでもしたものなら「風邪をひく」と和臣に怒られてしまう。

「っ……まさかのゲリラ豪雨……!」

 物思いに耽っていたところに思いもしていなかった声が届き、音恒は飛び上がるほど驚いた。

「か、和臣?」

「あ、音恒様。すみません、先に他の方に拭くものを借りてからお伺いしま――」

 言葉を遮り、屏風から出て和臣の腕を引く。するとその長身の身体は、先日音恒を容易に受け止めたあの力強さが嘘だったかのように簡単に室内へと舞い込んできた。

 触れたところが冷たい。見る限り全身がずぶ濡れだ。いつも着ている羽織は薬箱にかかっていて、どこまでも患者優先なのだということを表している。彼のことだ、雨が降り出すなり自分が濡れることも厭わず――いや、もしかすると考えてもいなかったかもしれない。薬箱を優先したのだろう。

「汝が吾に言ったのであろう!」

「え、あの」

「こんなに濡れて、冷たくなって……汝が病に倒れでもしたら、が吾を診るというのじゃ」

 はしたない。分かっていても、声が大きくなる。驚いた様子の和臣の目は、大きく見開かれていた。

「拭くものならここにもある。すぐに脱げ」

「っあ……!」

 抵抗しようとした様子だったが既に時遅く、音恒は和臣の着物の腰紐を引きながら前身ごろを思い切り開き……そのまま静止した。




 別室を借り手早く着替えを済ませ、少し気まずい気持ちで音恒の居る部屋へと戻ると、彼は薬箱の中を見て濡れているものを出し乾かしてくれていた。

「音恒様……」

「! 和臣」

「あの、着替えと拭くもの、ありがとうございます」

 借りた着物は、美織には小さかった。だが誰のものを借りても同じだっただろう。この時代の人は小さく、恐らく身長は平均して130センチ前後といったところだ。女性ともなればもっと小さいし、現代では小柄な方だった美織も157センチはある。

 いつもより少しだけ距離をおいて座り、だが顔を上げた美織はもう医者の目になっていた。手を音恒の顎に添えて顔を上向かせ、顔色の確認やいつもと違うところが無いかを診る。どうやら変わりはないようで、ほっと息を吐いて手を降ろした。

「そろそろ切れる頃でしょうから、追加分の薬を煎じてきました」

 薬箱から音恒用に準備しておいた薬を出すも、渡すのを躊躇ってしまう。彼は自分を医師として信頼してくれていたが、それは『男』だからではないだろうか。この時代、女の医者なんて存在しない。居てもそうそう信頼など得られなかっただろう。

 もし、薬を受け取ってもらえなかったら。性別を偽っていたことで、医者としての信頼まで失っていたら。

 声を荒げる音恒を初めて見た。そもそもこの時代の人は……都に住む人は尚更、大声を出さない。怒るほど心配してくれるまでに信頼してくれていた彼に対し、ずっと嘘をついて、裏切っていたのだ。十年以上も。

 薬を握ったまま震え始めた手から、すっとそれは引き抜かれた。

「え……」

「これは、吾の薬なのであろう」

 薬を懐に入れ、音恒は改めて和臣を見る。

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