生神様の診療記録-カルテ-

水澤シン

開幕

01

 彼女──上条かみじょう美織みおりは、『忘れる』ということを体感したことが無い。記憶の引き出しの数が人より多いのか、それとも引き出しの整理が上手いのか。それまでの経験や知り得た知識・技術をすぐに出せる。流石に産まれた時のことまで憶えているわけではないが、物心つく前あたりからのことなら思い出せると自負していた。

 そんな美織が、35歳にして初めて『思い出せない』ことがあった。

 、だ。

 見覚えの無い景色。いや、似たような景色なら見たことがあるし、ここがどういう場所かも何となく分かる。見渡す限りの竹──ここは、竹林の中だ。ただどうして自分がこの場所に居るのか、どんな理由で、どういう経緯・ルートでここへ来たのかが分からない。

 服装を見ると、ワイシャツの上にカーディガンを着、Gパンと足元は裸足に少しヒールの付いたサンダル。いつもの色気も何も無い格好だ。勿論、何か用があって竹林に来たとも思えない。

 手元の鞄もいつも通りあったのでひと安心し、開いてスマートフォンを取り出す。どうにかして現在地を確認して帰らなければならない。一人暮らしなので帰りが遅いと心配されることはないが、あまり遅くなると次の仕事に差し支える可能性がある。ノート型のスマホカバーを開いて見て、『圏外』の表示に美織はため息をついた。

 何となく予想はついていたが、実際に見ると不安になるものだ。普段どれだけ文明の利器に頼っていたかがよく分かる。とにかく、歩いてでも進んでいけばどこか街には出られるだろう。そうすればスマートフォンも使えるようになる筈だ。

 場所柄に合わないサンダルに歩きにくさを感じながら、美織は鞄を肩にかけて歩く。こんな場所、人が通るのはごく稀なことだろう。けもの道のような、人が踏み込んだような跡は見られるが、車道などは見えない。タケノコ掘りなどで季節には人が来ている、といった程度だろうか。どのみちタケノコの季節もそろそろ終わりの筈だ。やはりそうそう人と会いそうにない。

 しばらく歩き、少しの疲れを感じ始めた頃、ようやく視界がひらけた。だがそこで見た光景に、美織は絶望した。

「え……?」

 知識としてなら知っている、写真やイラストでなら見たこともある。目に映る建物は、全て『横穴式石室』というものだ。それから、田畑。電線や道路などは一切見えない。明らかに洋服ではないながら、着物、とも言い難い服――直垂ひたたれというのだと後から聞いた――を着た人々の様子に生活感さえ感じるあたり、映画村などの類でもなさそうだ。むしろ、映画村や観光地の一画、というにはあまりに広く、そして生活臭が濃い。一面に広がる田畑と、本当にぽつりぽつりとしか見えない家、衣服はボロボロでやせ細り、まるで死人のような出で立ちで田畑を耕す人々。

 いくら山に囲まれていると言えど、これだけ広いのならば、映画村や観光地なら電線の一本や二本、土産屋の一軒や二軒くらいあってもおかしくはないはずだ。

 何とか……何とか『現代』のものは見つけられないのか。でなければこの状況では、認めざるを得なくなってしまう。


 ――ここが、過去の世界、もしくは異世界かも知れないと。


 ある筈がない。そんな、非現実的なことなど。

 霊的なものは、視える。視えてしまうから、それが非現実的であろうとも存在するのだと認識してはいる。

 だが自分は医療関係者、科学に近い分野を専門としている身だ。現実と非現実はきちんと分けて見ることが出来なければいけない。それなのにタイムスリップ、もしくは異世界トリップなどと、あまりにも現実離れし過ぎてはいないか?

 そうか、これは夢だ。だからここまでの道のりの記憶も無く、まるで映画か何かのような世界の中に自分は一人なんだ。だったら、目を醒ませば元の場所──恐らく布団の上だろうか、そこに戻っている筈だ。ならば早急に目覚めなければ。どうしようか、もう一度眠ってみれば良いのだろうか。

 そう考え込んでいると、少し先の畑の方から小さなうめき声が聴こえてきた。振り返り、うずくまった男性と思われる姿を視認するなり美織は思考を全て中断して駆け寄る。

「どうなさいました?」

 その人物の前に片膝をついて声をかける。驚いた様子で顔を上げたその人物は、思っていた通り男性だったようだ。絶句している様子の男性はそっちのけで、美織は彼が抱え込んでいた右脚を診る。骨に異常がありそうな症状は見られないことから、捻っただけのようだ。鞄の中から救急セットを出し、更にその中から三角巾を取り出す。手早く処置を済ませ、にこりと微笑んでみせた。

「あ……ありがどなぁ」

 戸惑った様子で返った言葉は、多少訛ってはいるようだが日本語だ。言葉が通じないということは無さそうで安心する。

「あんぢゃ、いしゃかなんかが?」

「えっ?」

 一瞬、何を言われたか分からなかった。訛り、と考えて、脳内で紐解いてみる。

『あんちゃん、医者か何かか?』

 恐らくはこうだろう。とするなら、自分は今、男と勘違いされたのか。日本で女性の医療従事者が本格的に現れ始めたのもせいぜい百年前だかの歴史上では比較的最近の話。男だと思われたのは、この格好からだろうか。だったら、手際良く怪我の処置をする様を見て、男性の医者だと思ったのも頷ける。

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