第12話 「山中訓練とかほんと嫌い」「なんでお前軍人になれたの?」

「ぎゃあああああああっ!」


 突然クリスが悲鳴を上げた。一目散に駆け出して距離を取る。蛾の登場よりも、部下のあまりの動揺っぷりに、スヴェンは驚いた。


「お、おい。どうした?」


 スヴェンは剣を抜き放ち、油断なく怪物を見ながらクリスに向かって叫んだ。ちらと視線を遣ると、クリスはがたがたと震えながら、両手で槌を抱きしめている。


「むむむ無理です。無理無理。普通のサイズの蛾だって気持ち悪いのに。

 何この毛むくじゃらの生き物! 生理的に無理ですぅ!」

「何を女みたいなこと言ってんだ!」

「だって、おっきければ意外といけるかなって思ったんですもん! でもやっぱり無理でした! ごめんなさい!」

「ごめんなさいじゃねえよ! 戦え!」

「ひいぃ……っ」


 クリスはなんとか槌を構えているが、完全に腰が引けている。

 確かに、クリスの気持ちは分からなくもない。

 怪物は、虫が苦手ではないスヴェンの目から見ても化け物然としていて、可愛らしいと評されるような見目ではない。


 怪物の全身は白い毛に覆われ、風が吹くたびに長い体毛がたなびく。雪男のように見えなくもない。蛾の割には羽が小さく、その羽にもびっしりと産毛が生えていた。羽には目玉のような模様が入っており、毒々しい幾何学模様を描いている。

 胴体部分は思いの外太っていて、そこから伸びている手足は異様に細い。頭から伸びる触覚はオレンジ色で、女性が使う櫛のような形をしていた。

 巨大な複眼は闇色をしており、白い全身から明らかに浮いていた。どちらを見ているのかわからない目を見ていると、深淵を覗き込んでいる気分になる。


 その怪物が、ぷるぷると触覚を震わせ始めた。それを見たクリスがまたしても悲鳴をあげる。そのまま怪物はスヴェンとクリスに向かって、一気に距離を詰めてきた。


 ぎちぎちぎちぎちぎちぎちっ!


 触覚だか口だかから響く音を聞いて、パニックになったクリスが、大鎚を怪物に向かって振った。怪物は胴体でそれを受け止めるが、ふわふわとした毛並みのせいで、衝撃が伝わりきらなかったらしい。一瞬よろけただけで、怪物はすぐに体勢を立て直した。


(あの体毛、厄介だな)


 クリスは今、冷静ではない。しかしそれを差し引いても、先ほどの一撃で全く効果がないというのは、並みの頑丈さではありえなかった。

 そして今度は体ごと向きを変え、スヴェンを無視してクリスに狙いを定めた。怪物の口から空気を震わせる甲高い鳴き声が発せられる。


「え? あれ怒ってんの? ねえ、あれ怒ってんの!?」


 もはや涙目になったクリスはめちゃくちゃに槌を振り回した。しかしそんなものが当たるはずもなく、怪物は面白がるようにクリスとの距離を詰めた。

 怪物が細く長い前足の一本を振り上げた。その下にはクリスがいる。


(まずい)


 クリスは眼前に迫った怪物の太い胴体ばかりに目がいって、振り上げられた前足には気付いていない。あの細い足にどの程度の威力があるのかは分からないが、楽観視はできない。

 スヴェンは大急ぎでクリスと怪物の間に割って入った。振り下ろされた前足がスヴェンの剣に遮られ、低い音を立てた。それはまるで鋼と鋼がぶつかるような、硬質の音であった。


「ぼさっとするな! 死ぬぞ!」


 スヴェンの背に視界が遮られて落ち着いたのか、それとも危うく一撃をもらいかけて、正気に戻ったのか、とにかくクリスの意識が、ようやくこちら側に戻ってきた。


「す、すみません」


 スヴェンはちらりと自分の剣を見下ろした。刃こぼれこそしていないが、先ほどの感触は、生物を相手取ったような柔らかいものではなかった。この怪物は衝撃に強い上に、攻撃手段まで持ち合わせているのか。


「構えろ、クリス。本気で行くぞ」

「りょ、了解です」


 クリスは未だに及び腰ではあったが、先ほどよりは幾分マシであった。

 スヴェンが先陣を切った。怪物は突然懐に潜り込んできた人間に驚いたようで、少々仰け反った。スヴェンの逞しい腕が横薙ぎに振るわれ、鋭い斬撃が怪物の顔をかすめた。

 しかし斬撃は怪物の毛をいくらか削っただけで、分厚い肉まで到達することはなかった。目を傷つけることができれば、この先の戦いがかなり楽になったのだが、まあ文句を言っても仕方あるまい。


「クリス!」


 スヴェンの叫びに従って、クリスが飛び出した。彼は両腕にぐっと力を込めて、槌を逆手に握ると、空に向けて振り上げる。その一撃は、仰け反って体勢を崩した怪物の、後頭部に直撃した。

 怪物は空へと投げ飛ばされ、そのまま翼を広げてこちらを睨みつけてきた。


「効いてないぃっ!」

 やはり涙声で叫ぶクリスであったが、スヴェンはそうは思わなかった。

「よく見ろ。ふらついてる」


 怪物は空中に留まるのに、随分と苦労しているように見えた。酔っ払いのようにふらふらと定まらない姿勢を見ても、脳震盪までは防げなかったのだと推測できる。あの怪物に、どの程度の脳みそがあるのかは知らないが。


「でも、この後はどうするんですか」


 この距離では、スヴェンの剣もクリスの槌も届かない。だがそれは、怪物の方にも攻撃の手段がないということだ。このまま逃げてくれるならばそれでもいいし、向かってくるならそこを返り討ちにすればいい。それだけのことだ。


 しかし怪物は予想外の行動に出た。

 ばさりと羽を広げると、そこから淡い黄色に輝く粉が、風に流されて地上に届く。


(鱗粉……!)


 スヴェンは木立の中に逃げ込んだ。体の大きな怪物が入り込めないような隙間に体を潜り込ませ、なるべく鱗粉を吸わなくて済むように、口周りを服の袖で覆った。そのまま鱗粉で視界が悪くなった道へと視線を送ると、運悪く、真っ先に鱗粉が降ってきた場所にいたクリスが、仰向けになって倒れているのが見えた。


「た……たい、ちょ」

(あの馬鹿!)


 鱗粉には体の自由を奪う効果があるようだ。クリスは痺れたように舌が回っていないが、顔色は悪くないし、血も吐いていない。捕食のための毒であるなら、怪物本人までもを傷つけるような毒は、使わないはずだと信じたい。


 鱗粉を纏いながら怪物が降りてきた。その足元にはクリスがいる。

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