第9話 王子にも人格以外に欠点ってあったんですね

 汽車を降りたスヴェンとクリスの眼前には、ひたすらに緑が広がる美しい大自然が広がっていた。緑の山々は遠目から見ると一つの生き物のようで、初夏のみずみずしい大気を含んで柔らかく膨らんでいる。

 山の麓にはカラフルな木造建築が立ち並び、ここからでは視認できないが、道路に面したベランダには色とりどりの花が飾られているはずだ。自然との共存を掲げたこの村は、木や花を何よりも愛しているという噂だ。


 スヴェンは目の端で、ちらりと自らの格好を見下ろした。堅苦しい黒い制服が、優しくのどかな景色から明らかに浮いている。どうせならプライベートで来たかった。


 汽車の振動で痛むのか、尻をさすりながらクリスが感嘆の声を漏らす。

「うわあ。すごいですね、ここ。王都からそれほど離れてないのに、こんなに綺麗な自然が残っているなんて」

「特別指定区域だからな。近年は観光業に力を入れているらしい。十年後には、村と呼べる規模ではなくなるだろうな」


 もっと早いかもしれない。実際に数年前までは、ここは無人駅だった。

 今では観光客が増えたせいか、駅員が数名在中しており、スヴェンとクリスの切符を笑顔で受け取った。


 駅員がスヴェンの切符を細かく切っている間に、後ろのクリスがスヴェンに耳打ちした。

「でも俺たち以外に、この駅で降りるお客さんはいないんですね」

「……そうなんだよなあ」


 それはスヴェンも気になっていた。今は初夏で、この景色が最も美しく映える時期でもある。だというのに客が他にいないというのは、一体どういうことか。


「思ったより、うまくいってないんですかね。村おこし」

「……かもな」


 汽車を降りると直射日光が思いの外厳しく、スヴェンは制服の上着を脱いだ。階級を表す肩の星が太陽の光を反射して、きらりと光った。


「あれ、お兄さん方は観光客……ではないんですか」

 駅員の男が、今初めてスヴェンたちの制服に気付いたように声を上げた。

「あ……まあ、一応軍人です。ちょっと事情があって」


 クリスのやる気のない返事に、スヴェンは眉を寄せた。せめて民間人には、もっときちんとした態度で臨めないのか。それに、一応軍人、などという自己紹介はどういうつもりなのか。これでは駅員の男が気を悪くしてもおかしくない。

 しかしスヴェンの思惑とは裏腹に、駅員の男は花が咲いたように顔を綻ばせた。


「ああ! なんとありがたい!」


 男はぱっとクリスの手を握り、ぶんぶんと振った。その反応はクリスも予想外だったのだろう。何が起きたのか理解できず、為すがままになっている。その目だけがくるくると動き回っていた。


「村長の家は、大通りをまっすぐ進んでもらえれば着きますので!」

「え? あ、はあ」

「詳しい話はそちらでどうぞ!」


 何が何だか分からずに、スヴェンとクリスは顔を見合わせた。そして互いにとても嫌な予感がして、駅員の男とは対照的に、表情を暗くしたのだった。







 駅を出てから村までは、それほど距離があるわけではなかった。しかし周囲に背の高い建物など何もなく、あるのは草と花のみ。木さえない。そのせいで日陰がなく、容赦なく降り注ぐ陽光がスヴェンの頭上から襲いかかる。暑いのは嫌いだ。寒いのも嫌いだが。

 同じく暑さにブツブツと文句を言いつづけていたクリスが、不意に口をつぐんだ。しばらく黙った後、先ほどよりも少しだけ大きな声を出した。


「……どうするんですか」

「何がだ」

「しらばっくれないでくださいよ。寄るんですか? 村長の家」

「……寄るしかないだろう。そもそも王子のペットの聞き込みで、村長の家には行くつもりだったんだ」


 王子のペットに何かあれば、大問題になる。少なくとも王子の機嫌はすこぶる悪くなるだろう。王子が直接この村に、何かすることはないだろうが、先走った無能な官僚が、迷惑をかける可能性もある。

 そんな状況で、村長に何の相談もなく調査を始めるわけにもいかない。そんなことはクリスも重々承知しているはずなのに。


「ああ、もう嫌だ……。悪い予感しかしない。大体当たるんだ、こういう勘は」


 またしてもブツブツと呟き始めたクリスが、今度はすぐに口を閉ざす。規則的に聞こえていた、クリスが靴底を引きずる音も、ピタリと途絶える。

 不審に思ったスヴェンが振り向くと、クリスは明後日の方を見つめて、微動だにしない。歩き続けていたスヴェンとは距離が開いてしまっている。


「どうした?」

「犬がいます」


 クリスの視線の先を追う。目を細くして見るが、何やら茶色い、四つ足の生き物がいることが分かる程度で、犬かどうかは定かではない。


「お前、あんな遠くの、よく見えるな」

「王子の犬ですかね」

「王子の犬なら、王子のサインが入った緑の首輪をしているはずだ」

「あー……。じゃあ、違いますね。首輪はしてません」


 残念そうに肩を下げて、クリスが小走りでスヴェンに追いついた。


「隊長。そういえば俺、ぽちがどんな犬なのか、知りません」

 犬種は何か。オスなのかメスなのか。サイズは? 年齢は? そういった情報を、そういえば何一つ話していなかった。


 スヴェンは大きなスーツケースをゴソゴソと探って、王子から受け取った手紙を取り出した。


「それは?」

「王子から預かった。ぽちの特徴が書いてある」


 王子本人しか使うことを許されない、スズランの花がモチーフになった蜜印までされた手紙を開け、中の紙を取り出す。そこに入っていたのは、たった一枚の紙切れだった。


 それを見たスヴェンの表情が固まる。

 不思議そうにそれを見たクリスが、無理矢理スヴェンの手から紙を奪い取り、スヴェンと同様に絶句する。ネジでも外れたみたいに、口が開きっぱなしだ。


「……あの馬鹿王子」


 このスヴェンの一言に、二人の思いが集約されていた。

 王子が持たせた手紙には、文字は一切書いていなかった。その代わり紙一面に、ぽちと思われる異形のイラストが描いてあったのだ。


 これは、犬……だろうか。辛うじて四つ足で歩いているのは分かる。しかし、その足は異形の腹部から全て伸びており、真横から見た図では、四本が順に並んでいる。うち二本の足には、なぜか真っ黒な影が付随している。三次元的要素がゼロだ。まるで子供の落書き。絵心など無いと自負しているスヴェンでも、もう少しましな絵が描けるだろう。

 異形の背中は異様に膨れており、これは犬が肥満体であることを示しているのか、それとも王子のデッサン力が壊滅的であることを、暗に示しているのか。どちらとも判断がつかなかった。

 それだけではない。この絵を信じるなら、この犬はまるで嘴のように尖った口を、持っていることになるだろう。殺傷力さえありそうだ。

 王子はご丁寧に、背景まで描いてよこした。遠近法を何か勘違いしているとしか思えない。これではまるで、犬が民家よりも大きいように見える。こんな犬が歩いていたら、たぶん二秒で見つかる。速攻で通報されるだろうから。


「くっそ……。せめて、色くらい使え……!」


 王子はこれら全てを黒の鉛筆で描いていた。無駄に線が多い。鼻高にシャシャッと線を重ねて引く王子の姿が目に浮かんで、どこかの血管がプツリと音を立てて切れた気がした。これでは犬の毛色さえ分からない。


「……王子にも、苦手なものってあるんですね」

「何もこんなところで、人間らしさを披露しなくてもいいだろうに……!」


 王子の手紙を破り捨てたくなるのを必死に抑えているスヴェンに対し、クリスはまるで悟ったような穏やかな目をしていた。たくさんのものを諦めた目だった。

 まるで僧侶のように穏やかに、しかし絶望を伴った声色で、クリスが言った。


「隊長。行きましょうか」

「……どこに」

「王都」

「諦めんな!」


 スヴェンは思い切りクリスを蹴飛ばした。ぎゃんっ、と犬の鳴き声のような叫び声をあげて、クリスが盛大に地面にキスをした。


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