【習作】もやし君の HAPPY PARTY TRAIN

そのだきりん

【1号車】煩悩の子(その1)~「ブルートレイン」

【1】

 1980年(昭和55年)。福岡県東部の片田舎Y市。人口5万人ほどの地方小都市。この町に“もやし君”というが少年が住んでいた。小学5年生だった。この年の6月から9月にかけてのことだった。夜の8時から9時までの間、もやし君はY駅で過ごすことが習慣になっていた。

 20時50分頃、大分発・新大阪行きの寝台特急「彗星2号」がY駅を通過する。赤色の電気機関車(ED76)が青色の寝台客車(24系25形)を牽引していた。客車は10号車まであって、それに電源車1両が連結されていた。機関車は赤色で、客車はA寝台車も食堂車も連結されていないB寝台車だけで構成された単調なモノクラス編成であったが、青色に統一された11両の堂々たる編成が颯爽さっそうとホームを走り過ぎて行く姿は、見ていてやはり流麗であった。そこにはある種の風格さえ感じられた。――いわゆる「ブルートレイン」である。この姿を見送ることが当時の彼の一日における楽しみの一つになっていた。


 「彗星2号」には、編成の最後尾に「カニ25形」という電源車が連結されていた。


 この車両は1970年代後半に、関西~九州間を結ぶ寝台特急において24系寝台客車の電源車不足を補うものとして登場した。20系寝台客車用の電源車「カニ22形」を改造したもので、わずか数年間だけ活躍していた。車両自体は1975年から1984年までの10年足らずの間だけ存在していたという。現在の鉄道ファンたちの間では「伝説の珍車」として知られているらしい。

 もっとも、ベース車両となった「カニ22形」自体が「ディーゼル発電機と電動発電機を搭載したパンタグラフ付きの電源車」という珍車だったりして、これはこれで「高度経済成長期のあだ花」とでも形容したくなるような特異な存在なのであった。


 しかし、もやし君は、凡庸な子どもなら普通にあり得るであろう無頓着な無知ゆえに、この車両の形式名称が「カニ25」だったことについては、そこまでは知らなかった。ずっと「カニ22」だとばかり思い込んでいた。「カニ25」では屋根の両端に設置されていたパンタグラフが撤去されていて、車体中央の下部には「カニ25 1」といった車両の記号番号が白文字で明記されているのだが、彼は、特に際立った能力などは何一つ有していない優れて凡庸な小学生だったので、そこまでは注意も関心も及ばなかった。このような無頓着な無知の彼ではあったが、24系の寝台客車になぜか20系寝台客車用の電源車が連結されていたことは、少年の興味を百倍させた。


 国鉄20系寝台客車は、1958年(昭和33年)に当時の最新鋭の技術と設備を投入して華々しくデビューした。20系は、国鉄の花形列車の中でもエース的な存在であった「ブルートレイン」の元祖となる車両であったが、1980年の時点では客車寝台特急の主役は24系となっていて、20系はすでに花形列車の座からは退いて、主に急行用として活躍していた。

 20系寝台客車の設備と言えば、B寝台車が幅52㎝の3段式ベッドという、今では考えられないほど窮屈なものであったが、全車両冷暖房完備でA寝台車や食堂車なども連結して10数両の堂々たる長編成をなして走るブルートレインは、高度経済成長期の時代にあっては「走るホテル」とうたわれていたそうだ。ただし、B寝台車の窮屈さについては「蚕棚かいこたな」と呼ぶに相応しかった。そう言えば、日本の庶民的な住宅は、海外から「ウサギ小屋」などと揶揄されていたのであった。


 20系客車の登場後、国鉄では寝台特急用の新型車両を次々と開発していった。1967年(昭和42年)に581系電車、1971年(昭和46年)に14系客車、1973年(昭和48年)に24系客車がそれぞれデビューした。各車両の簡単な概要について、ここに記しておこう。


[581系電車]

 581系電車は、1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開業した後になって、新大阪と九州方面を直通で結ぶ特急列車で使用するための車両として製造された。昼間は座席特急、夜間は寝台特急として昼行用と夜行用の双方で運用できる設計となっていた。

 座席時は4人掛けのボックスシートの形態を取ることとなったが、これは特急用の車両にとっては十分に相応しい設備とは言い難いものだった。ところが、寝台時には3段式B寝台車のみの仕様となっていたが、寝台が装備されると下段のベッドの幅は106㎝となり、この幅はA寝台の設備に匹敵するものであった。また中・上段のベッドの幅は70㎝となって、20系客車の52㎝と比べると改善が図られている。

 機能の特殊さと相俟って精悍な車体と塗装のセンスに優れた外観から、鉄道ファンには人気の高い車両だった。


[14系客車]

 20系では列車内のサービス電源を電源車から供給する「集中電源方式」を採用していたが、14系寝台客車では車両の床下にディーゼル発電機を装着し、そこから客車内のサービス電源をまかなう「分散電源方式」を採用していた。この方式では列車の分割・併合を容易に行うことができ、柔軟な列車運行が可能になるというメリットがある。車内の設備は、B寝台車がベッド幅70㎝の3段式となっていた。14系寝台客車では、B寝台車だけでなくA寝台車(開放型)と食堂車も製造された。

 デビューからすでに10年余年が経過していた20系客車の後継車となる次世代型の特急用寝台客車として増備が進められていたが、1972年(昭和47年)に発生した北陸トンネル火災事故を機に、火元となりうるディーゼルエンジンを客室の床下に置いた分散電源方式は、防火安全対策上において問題があると指摘され、14系寝台客車の製造は中止された。

 なお、14系客車は、波動輸送用として座席車のタイプが1972年から1974年にかけて製造されている。普通車のみが製造され、グリーン車や食堂車の製造は計画されていなかった。もともとは特急の臨時列車に使用する目的で作られた車両であったが、1978年(昭和53年)10月2日のダイヤ改正からは、定期の夜行急行列車にも使用されるようになった。


[24系客車]

 1971年にデビューした14系寝台客車は、客車の床下にディーゼル発電機を配置する「分散型電源方式」を採用しており、翌年の1972年に発生した北陸トンネル火災事故を機に、防災安全上の問題が指摘されたことで製造が中止されてしまった。

 1973年(昭和48年)には、14系寝台客車に代わって、車内のサービス電源を電源車から供給する「集中型電源方式」を再び採用した24系寝台客車がデビューすることとなった。24系寝台客車は1980年(昭和55年)まで製造され、1970年代の後半(昭和50年代)から徐々に客車寝台特急における主力車両へとなっていった。B寝台車の他にA寝台車と食堂車も製造された。

 24系寝台客車は、製造当初の車両(24形)の設備についてはB寝台車がベッド幅70㎝の3段式寝台となって、A寝台車は2段式の開放型となっていた。1973年の下期には、

24形にマイナーチェンジを施した25形が登場した。この車両は、製造当時、間近に控えていた山陽新幹線の岡山駅~博多駅間の延伸開業によって寝台特急の利用客が減少することを見越して、定員を減らし居住性を改善するため、B寝台車をそれまでの3段式寝台から2段式寝台へと設計変更したものだった。また25形では、A寝台車でも一人用個室タイプの車両が新しく製造されることとなった。

 これまで国鉄の寝台特急で使用するB寝台車については3段式(いわゆる”3段ハネ”)が主流であったが、24系25形寝台客車の登場によって、特急用寝台客車のB寝台車については徐々に2段式が主流となっていった。これに伴い、24形のB寝台車の設備も後になって3段式寝台から2段式に改造され、14系寝台客車の方でも1978年には、従来の3段式寝台のB寝台車(14形)を2段式に改造した15形が登場している。


 ここで余談ではあるが、1973年と言えば、第1次オイルショックの勃発によって、1955年(昭和30年)から続いてきた高度経済成長期はこの年をもって終焉を迎えることとなり、その後の日本経済は安定成長期へ、言い換えれば低成長期へと移行した。この間における急速な経済の発展は国民の生活水準を大幅に向上させた一方で、公害や人口の過密化・過疎化など社会に様々な歪みをもたらした。「モノの豊かさから心の豊かさへ」と世で言われるようになったのは、この頃から始まっていたらしい。

 この当時、国鉄が抱えていた累積赤字もすでに膨大な金額にのぼっており、これも社会問題となっていた。国鉄は1975年(昭和50年)に料金の平均32%の値上げ、そして翌1976年(昭和51年)には運賃・料金の50%の値上げへと、それぞれ踏み切った。

       (参考: フリー百科事典『ウィキペディア』、はてなキーワード)


 さて、1980年代における日本の経済や文化は、端的に言うと、それまでの「重厚長大」から「軽薄短小」への移行期にあった。生産と消費の別を問わず「省エネ」化が積極的に推進されていた。そんな時代だったように思う。

 国鉄の駅についても、その例外ではなかっただろう。全国的に見ると、この頃には老朽化が進んだ駅舎も多くなってきて、1980年前後のY駅の周辺においても、建て替えの事例がいくつか見られた。Y駅から下り方面に25㎞ほど行ったところにある中津駅(大分県)は1977年(昭和52年)に地上駅から高架駅となった。隣の新田原しんでんばる駅は、いつの間にか木造瓦葺きの古びた駅舎から新築のカプセル駅舎へと生まれ変わっていた。さらには、上り方面に10㎞ほど行った下曽根駅は橋上駅舎に建て替え工事の最中であった。

 この当時におけるY駅の駅舎は、木造の平屋建てではあったが、明治生まれのそこそこ重厚な感じのする建築で、人口5万人を擁する小都市の玄関口には相応しい感じであった。建物はこの時で、すでに築70年を超えていた。Y駅も将来的には高架化されるだろうという話はこの時からすでに出ていたはずだが、しかし市政としては、その前に市役所の庁舎を新しく建て替える方が優先事項のようであった。


 蒸気機関車が現役で活躍していた時代には機関区も存在していたという、それなりに立派なY駅であったが、1980年のこの時には、Y機関区が廃止されてから数年が経過しており、レンガ造りの機関庫はすでに滅失していたが、構内に敷設された幾本もの側線とターンテーブル(転車台)は残されたままだった。

 側線では、石灰石を運ぶクリーム色の有蓋ゆうがいのホッパ車や、車体の隅の方に白い文字で”カセイソーダ”と小さな表記のある黒色のタンク車などの貨物列車が停留している光景、それから赤色のボディでエンジンに運転台が付属しているような中型クラスのディーゼル機関車(もっぱらDE10だった)が機回ししている現場などを見ることができた。ターンテーブルには時折、DE10が鎮座している姿が目撃された。


 ところで、夜の人気ひとけのないY駅の構内に一面に漂っている、そこそこの古めかしさを伴った、しんとした雰囲気の中に、その静寂を突き破るかのようにして当駅を通過していく寝台特急「彗星2号」ではあったが、それにしても、列車の最後尾に繋がれた「カニ25」ならではの持ち味とも言えそうな、時代遅れのうらぶれた感じのする外観と、その時のY駅の様子とは、子ども心ながら妙に相性が良いように思われた。


 「彗星2号」がY駅のホームを通過するのに要する時間は、おそらく1分にも満たないものであっただろう。しかし、そのわずかな間に展開された光景は、先に述べた要素が混然一体となって、何だか言い知れないロマンを湛えていた。そこには旅情をかき立ててやまない、何とも言えぬ情味があった。眼前を次々と流れ過ぎていく車両の窓々は、あたかもフイルムのコマが左から右へと次々と連続して送られているようにも見えて、その時、眼前に映った光景は、まるで映画作品の名場面に目が釘付けになったかの如く、ひとつの情景となって少年の目に焼き付いた。


 それだけではなかった。このブルートレインは、10歳になる少年の、未来への夢や期待、そしてまだ見知らぬ都会に対する憧れなども一緒に乗せて走り過ぎて行ったのだった。少年はその時、そこに「青い鳥」の姿を見ていたのかも知れない。

 また、それと同時に、たしかに「ブルートレイン」は、当時の彼が未来に抱いていた夢や希望を象徴するものであったが、「彗星2号」の最後尾に繋がれた「カニ25」は、それに加えて、そこはかとなく哀愁を添えるようにしてY駅のホームを通過して行ったのだった。そうして乗降客もいない夜の駅の構内は、再びさっきまでの静寂へと戻るのであった。

 この場所は、この少年にとっては、未来に向かう者と過去からやって来たものとが邂逅かいこうし、融合することによって、もはや超越的な変質を遂げた時間の流れる非凡な空間と化していた。そしてその小宇宙は、何だか得も言われぬ不思議な余韻に満たされていた。24系25形寝台客車の標準的な電源車である「カニ24形」を以てしては、このような感慨にまで至ることは、おそらく有り得なかっただろう。


 数か月の間、もやし君を喜ばせてきた「彗星2号」であったが、1980年10月1日のダイヤ改正で、新大阪~大分間の「彗星」は廃止された。すなわち、ここで見てきた「彗星2号」は、この日を以って廃止されたのだった。

 そのようなわけで、「カニ25」の哀感を誘う情味あふれる姿も、その日を境に、もう見ることができなくなってしまった。


【2】

 もやし君の青春時代は、特に輝かしいものではなかった。粗暴なヤンキーの脅威に怯えるようなことは多少はあったものの、陰湿ないじめに遭うような事態は極力回避できたので、特に暗黒というわけでもなかった。また、”粗暴なヤンキーの脅威”は、彼が中学生だった時に言えたことで、高校生になると、それはもはや大した問題ではなくなっていた。

 彼は、中学生の時よりも高校生の時、それよりも大学生の時の方が、より自分自身になれたような気がしたが、その実感は大抵の場合、新たな困難に直面して、それまでの自分自身を乗り越えなくてはならなくなって行動を起こした結果なのであった。今思えば、その歩みは「克己創造」の過程であったと言えるだろう。


 だとはいえ、彼の青春について概して言うなら、それはどちらかというと、やはりあんまりパッとしないものだった。現代の用語でいうところの「リア充」と呼ばれるような人たちを横目で見ては羨ましがることも少なくなかった。周囲の級友たちと比較されたり比較してみては、いろいろなコンプレックスにも悩まされた。青春にまつわる悩みはそれなりに抱えていた。思春期の頃の青臭い人間関係のこじれで「もう、死んでしまいたい」と思うようなことも、それなりにあった。

 中学から高校、大学へと進んで行く過程において、彼にはその時の悩みや将来の夢を語りあえるような友人が数名ほどいたが、このことが当時の彼の何ともパッとしない青春にとっての、せめてもの救いであった。もやし君の青春時代が暗黒へと陥ってしまうのを何とか阻止することができたのは、彼らがいてくれたおかげだったと言ってよいだろう。


 無駄に多感な思春期ではあったが、しかし彼は若かった。「自分はまだまだこれからなんだ!」――素直にそう思っていた。不安や悔しさをバネにしながら、彼なりに自分の未来をもっと良いものにしていこうと努力した――そうして漠然と未来に憧れていた少年は、やがて、未来を手に入れようと努力する青年へと成長していった。 

 両親や友人たちは、そんな前向きな態度の彼を快く応援してくれた。その甲斐あってか、彼は彼の第一志望とする大学に進学できたし、さらには当時、彼が第一志望としていた職業に就くこともできた。もっとも、就職に関しては延べ2年間に及ぶ“就職浪人”の期間を要したのではあるが。


 就職先も第一志望とする所に決まって、これからいよいよ新社会人として出発することとなった、もやし君。彼は青雲の志を抱いて郷里を離れ、新天地を目指して関西の都会へと旅立った。当時、新幹線特急「ひかり」の上位列車として登場してまだ間もない超特急「のぞみ」に乗車して、彼にとっての新しい”希望の地”となるべき場所へと向かったのだった。――あれは1990年代も前半のことだった。

 

 この頃はいわゆる「バブル経済」が崩壊した直後のことで、世間は「平成不況」と呼ばれるご時世に突入していた。それを尻目にして、彼は人生のレールにうまく乗ることができたと思った。一応ではあるが、いわゆる「勝ち組」のチケットを手に入れることができたかのように思われた。何はともあれ、彼は今、未来を手に入れることに成功したのだ!――少なくともこの時点においては……。

 もやし君、弱冠24歳。体力的にも全盛期にあって、日々のエクササイズは欠かせなかった。1日30分の筋力トレーニングと30分のジョギング、10分間のストレッチは彼の日課であった。時にはフィットネスジムのプールでバタフライの練習などもやっていた。彼なりにではあるが、何やら文武両道を目指しているような青年であった。精神的にも意気揚々としていた。独立不羈の精神と覇気に満ちていた。

 彼は、やがて人生の伴侶となる相手を見つけて家庭を持ち、平凡ながらも平穏な一生が送れたなら、それで良いと思っていた。それで人生の成功者だと思っていた。


 彼がなりたかったのはマイホーム・パパ。――それにしても運命は、どうして彼のような特に際立った才能など何一つ有していない優れて凡庸な人間をわざわざ好んで選んだのだろうか?――人生は、それとは別のプランを準備していたのだった。


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