15. プルシアンブルー

二人が結婚したなんて事実は、亨の脳裡に存在しない。一体、これはいつの話なのかと渦巻いた疑問を、彼はそのまま口にした。奇妙な質問にも真田は西暦で答えてくれる。


 ――五年前。そんな馬鹿な。

 高校を卒業してから真田と会ったことはないが、水原の進路は知っていた。同じ美大に進学したのだから当たり前だ。在学中にも彼女はよく亨へ話し掛けてきたものの、そこまで親しくはならなかった。今思えば、水原なりに彼と親しくなろうと努力していたのだろう。


 残念ながら彼女のアプローチが実ることはなく、卒業前に半ば無理やりアプローチしてきた別の女性と付き合うこととなる。水原よりも思い出すものが少ない、つまらない人間だった。恋人はいて当たり前、そんな考えに一瞬でも説得された当時の自分を、亨は説教してやりたいくらいである。そんな関係が長続きするはずもなく、卒業後一年ほどで仮初の恋人は去って行った。


 水原の方は上京して、パフォーマンスを主体にした芸術グループで活動していたらしい。数年前、一度帰郷した際に、本人がギャラリーに寄って近況報告したのだから間違いない。「結婚なんて諦めた」、そう愚痴っていたはずなのだが。


 よく見れば、高校時代の皮膚の張りは二人から失われていたものの、溌剌とした笑顔はまだまだ若さに溢れている。新郎の性格が影響したのか、結婚の喜びのせいなのか、水原は十代の時よりも瑞々しくすら感じた。


「じゃあ、三人でもう一回撮りましょ」

「おう、そうするか」


 ホテルが用意したカメラマンを呼び、この場で撮影しようとする真田の肘を、彼女がホールへと引っ張る。


「背景がショボい。ケーキの前で撮ろ」


 彼女が着るラメの入った水色のドレスは、床を引き摺るほど裾が長い。真田がその裾を持ってやり、水原を先頭にして三人とカメラマンは宴会場へ逆戻りする。この段階でようやく、亨は自分も黒い礼服に身を包んでいるのに気づいた。


 いつ切り替わったのか、注意していようが分からない。魚に連れられて過去へ。その肝心の小魚たちは……またケーキにたかっている。


 魚、五年前、瀬那。そこに意味を見出だそうと、亨は歩みを止めた。ピンクの魚と白いウェディングケーキの組み合わせは、珊瑚に出入りする平和な南洋の光景を想わせる。


 ホテル・リュミレ、魚、ケーキ。瀬那の影が色濃い魚を追えば、彼女へ導いてくれると考えた。果してそうだろうか。灯台では瀬那が待ち、芳画展では彼女に似た絵が在った。では、最初のレストランはどうだろう。


 ブランコ・ロッソで、瀬那と食事をしたことがあるのかもしれない。しかし、そうでないなら、ロッソは瀬那が登場しない過去だ。事実、黄色い魚がいたサラダは一人分で、対面に座る人物はいなかった。


 ロッソと灯台、共通するのは自分の絵……。いや、それだけではないと、亨は思い直した。ガラスの魚の行く手には、事故が影を落とす。


 生ハムによる食中毒、プールでの溺死未遂、百貨店での将棋倒し。では、今、眼前を泳ぐスズメダイたちも、危険に備えているのだろうか。将棋倒しのような事故が、ここでも起きると?


「修二くん、そこに立つと絵が隠れる」

「ん、もっとケーキに寄った方がいいか」

「絵?」


 ケーキの背後、ホールの壁に、大きな水滴の絵が掲げられていた。


「『水景――雫』、俺の絵だ」

「どうしたの? そうだ、絵の前でも撮ろうか」


 なぜ絵がここにあるのかと尋ねられた真田が、妙な顔で説明する。亨がいなければ、二人は親しくならず、結婚もしなかったかもしれない。彼は高校時代にキューピッド役を務めてくれた。リュミレを会場に選んだのは彼の絵が在るからで、わざわざホールに運んで掛けてもらったとか。


 この話は披露宴でしただろうと、真田が亨の肩を叩いた。「酔っ払ったのか?」と笑われ、亨も誤魔化すべく頷く。

 絵、魚、ホテル。やはり作品は存在した。残るは不穏な事故――リュミレで何か起きた記憶は? 火災? 病気?


 エスカレーターと違い、亨の頭に浮かぶニュースは無い。しかし、彼は近づく危険をもう確信していた。ここは危ない。


「ケーキから離れよう。何かが起きる」

「ケーキがどうしたって――」


 続く真田の言葉を、激しい縦揺れが打ち消した。彼らはホールに戻るべきではなかった。


 震源は、二科山の直下だ。初期微動を感じる時間も無く、大きく世界が揺れ、シャンデリアがガチャガチャと音を立てる。リュミレの震度は四、真波の他地点では三と、決して大きな地震ではない。


 負傷者こそ出たものの死者はゼロ、建物の倒壊も無しとなれば、亨が覚えていないのも仕方がないだろう。但し、その数名の負傷者は、ホテル・リュミレで発生する。


 ホールの天井パネルにはたわみが生じており、普段から微震で照明が揺れていた。震度四ですら耐えられずに崩れてしまう天井など、手抜き工事と謗られて然るべきこと。ホテル側が業者相手に起こした訴訟では、工事の欠陥が全面的に認められた。せめて彼がこの裁判のニュースを思い出していれば、リュミレに危機感を抱けたものを。


 高い天井から落下したシャンデリアの衝撃は、ロッソの照明とは比較にもならない。ウェディングケーキに巨大な灯具が直撃し、ケーキの骨組みはぺしゃんこに潰される。天井パネルは破砕して、その周囲につぶてとなって降り落ちた。


 咄嗟に妻を庇い、上に被さった真田は賞賛に価する。全身に打ち身をこさえ、肩甲骨にヒビをいかせた彼のお陰で、新婦は足の切り傷だけで済んだ。同じく瓦礫に襲われた亨は、二人と違い、無傷で難を逃れる。彼の頭上に泳ぎ出た魚たちが、その身を呈して全ての破片を引き受けた。


 一欠けらも床に到達せず、亨の周りには弾け飛んだクリームが落ちただけだ。建材の替わりに彼が浴びたのは、粉末となった薄桃の雨だった。ピンクの粉は彼の体や衣服に触れても光を失わず、逆に空間が薄紅色で満たされていく。


 ホールに反響する地鳴りが止むと、苦痛に喘ぐ真田を案じて水原が叫んだ。二人の声も光が吸い込み、ボリュームを絞るように小さくなる。世界がピンクに、そして色も失って、一面の白へ。


 頬に冷たい水滴が落ちる。

 一滴、二滴と増える感触が、顎先に集まって垂れ落ちる頃、白い世界は色を取り戻した。





 薄暗い夜の街角に、小雨に打たれる亨が独り立つ。

 弱い街灯で照らされた道路は、真波市と思えど自信は無い。濡れた車道のセンターラインに沿って、青い光が走る。


「次の魚か……?」


 街の雰囲気は、黄色の魚を追った時によく似ていた。プルシアンブルー、濃い群青色は、クジラをモチーフにした作品だったろうか。大きく丸い背を追い掛けた道路の先に、開け放たれた扉が見える。


 水溜まりが出来つつある道を、彼はピチャピチャと音を立てて進んだ。クジラは扉を潜り、建物の中へと入る。繁華街から外れたこの場所、そしてホテルに似た白壁のビルには微かに見覚えがあった。


 シティホール――近隣の住民なら、一度くらいは来たことがあるだろう。連日しめやかに葬儀が営まれるホールへ、彼は足を踏み入れる。入って直ぐのカウンターが受付けで、芳名カードに記帳してから上階の葬儀会場へ向かう形式だ。


 玄関プレートには、『南雲なぐもシティホール』と金字で記されていた。真波から車で半時間、南雲の葬儀場なら亨も一度訪れたことがある。遠戚の本葬に参列した際の話で、ガラスの魚たちが導くような過去とは思えない。両親の葬儀ならまだ分かるが、それは真波のホールで執り行われた。


 受付けに立つ職員に呼ばれ、彼はカードを受け取る。喪服を着ていれば参列者と思われて当然だ。リュミレで礼服姿に変わった衣装はそのままに、ネクタイの色は黒へ変わっていた。

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