第29話 蛇の道は梛(なぎ)
「タイムだ」
俺の言葉にノヅチが小首をかしげた。
「たいむ?」
「時間をくれって意味だ」
ははあ、と船頭は嫌らしい嘲りの声を漏らす。
「何を頓狂なことを言ってるんです。そんなの許されないに「船は」」
言葉を被せる。
「まだ目的地についてない。第七夜はまだ終わってないってことだろ?」
「む」
「そうだよな? マムシとタカチホが残ってたら主様は今までと同じ風景を見せてたはず、ってお前言ってただろ」
言い換えれば、俺は「予定より早く第七夜の二人を倒した」ということだ。
背景こそ真っ白だが、本来なら灯籠廻船は航行中のはず。
「今はまだ回答時間じゃない。考える時間をくれたっていいはずだ」
「えぇ~……。……はい? ……はぁ」
ノヅチがうんざりしたように肩をすくめた。
「よろしいそうです」
「主様は話が分かるな」
俺は短い捨て台詞を吐きつつ、ノヅチに背を向けた。
その瞬間、前髪の生え際から汗が流れ出す。
(マズイな……)
主様の名前は分かっている。
ただし、音だけだ。字が分からない。
時間は稼げたが、温情までは望めないだろう。
このままだと俺はこちら側に置き去りにされてしまう。
それはシンプルに「死」を意味する。
顔を上げると、ユメミ、シュウ、ロッコの三人が俺を見つめていた。
目は虚ろだが、表情に微かな不安が混じっているのが分かる。
(……大丈夫だ)
頭痛が引くように、すうっと不安感が薄らぐ。
俺は戻らなければならない。
それは自分のためであると同時に、彼らのためでもある。
命を賭して戦った三人の意志を無駄にしてはならない。
俺は生きて帰る。
そしてこの三人の家族に彼らの生きざまを話す。
もし親が存命ならばロッコとシュウの言葉も連れ帰り、伝えてやらなければならない。
(落ち着け。もう一度考えろ……)
真っ白な空間に腰を下ろし、瞑想するようにあぐらをかく。
目を閉じる。
「ノヅチ」
『はいはい』
「賽銭箱、持って来てくれ」
『ええ……?』
「箱ごと持って来なくてもいい。必要なのは蓋だけだ」
階段は完全に壊れている。
それ以前にこの真っ白な背景ではまともに動くこともできない。
『……ちょっと待ってくださいよ』
ややあって、ごとん、と。
すぐ近くで音がした。
『これでいいですかね』
「助かる」
主様の名前について。
大きなヒントは、三つ。
一つは、あの賽銭箱の文字。
もちろんあれ全体が謎に関わってはいるのだが、一部に極めて直截的な表現がある。
それが「なみなり なみなり」の部分だ。
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なみなり なみなり
われら なみなり
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なみなり なみなり
われら なみなり
なみにあらねど われら なみなり
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俺は真っ白な空間に放置されたロッコの辞典を拾い上げた。
ページをめくると、わざとらしいほど、ぺらり、ひらりと音が響く。
(この辺だったか……)
蛇にはいくつかの異名がある。
ロッコの辞典によるとそれは――――
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先に挙げた「うわばみ」「おろち」は大蛇の呼称だが、「蛇」の異名は他にもある。
くちなわ。
へっび。
へみ。
ながむし。
『なぎ』。
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――『なぎ』。
蛇はそう呼ばれることもあった。
どんな字が宛がわれていたのかは知らないが、現代において「なぎ」を示す文字は少ない。
ぱっと思いつくのは「
そして――
(『
もう一度、賽銭箱の文字を暗唱する。
前半ではなく、後半部分が重要だ。
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なみなり なみなり
われら なみなり
なみにあらねど われら なみなり
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前半で「私たちは波だ。彼岸と此岸の狭間の波だ」とのたまったうえでこの文章。
一見すると完全に矛盾しているが、蛇の異名を考えるとそうでもない。
なぜなら「凪」とは「波が立っていない状態」を意味するからだ。
『なみにあらねど われら なみなり』を直訳すると『私たちは波ではないが、波だ』となる。
波でなければ、
この一文はこう換言することができる。
『私たちは
『私たちは波だが、
――そういうことだろう。
マムシ、カガチ、アオダイショウ。
ヤツマタ様には様々な呼称があった。
だがあれらはおそらく
本当の名前は「~ナギ」なのだろう。
そしてそれは主様も同じなのではないか。
つまり、主様の名前には「ナギ」の二文字が入っている。
その例に倣うならば、おそらく最後の二文字が「ナギ」なのだ。
ヒントの二つ目はヒバカリだ。
奴は第二夜、俺に六本指を立てて去った。
後に彼女が六夜に現れたことから見るに、あれは「六夜にまた逢いましょう」という意味だったのだと察せられる。
つまりあの時点で、ヒバカリは自分が六夜に乗船することを知っていた。
言い換えれば、「ヤツマタ様が乗船する順序はあらかじめ決められていた」ということだ。
灯籠廻船は七夜かけてあの世へ向かう。
その間、毎夜二人のヤツマタ様が乗船し、生者を引きずり降ろそうとする。
七夜の席は十四。ヤツマタ様は八人。
序列は知らないが、強さを考えればシマやカガチを連続で出し続けるのがベストだろう。
だが、そうはならなかった。
八人のヤツマタ様は事前に決められた順序・組み合わせで乗船した。
これは何を意味するか。
――決まっている。
ヤツマタ様が乗船する順序は、この船の抱える「謎」と関係しているのだ。
この七夜、ヤツマタ様はこのような組み合わせで乗船した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第一夜 マムシ ヒバカリ
第二夜 カガチ ヒバカリ
第三夜 アオダイショウ シロマダラ
第四夜 マムシ シマ
第五夜 カガチ ジムグリ
第六夜 ヒバカリ アオダイショウ
第七夜 マムシ タカチホ
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最後のヒントはノヅチの詠んだ歌だ。
第四夜に乗船したシマは夜が明けても船を降りず、重大なルール違反を犯した。
この次の夜、ノヅチは奇妙な歌を詠んだ。
ユメミの推測によればこの歌はノヅチなりの詫びであり、無意味な歌ではないとのことだった。
シマによって被った迷惑を帳消しにする――つまり、俺たちに利する歌。
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ひとつ
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この歌にはもう一つの読み方がある。
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八万三千八(やまみちは)
三六九三三四四(さむくさみしし)
一八二(ひとつやに)
四五十二四六(よごとにしろく)
百四億四百(ももよおくしも)
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ノヅチの詠んだ歌はすべての語を数字に置き換えることができる。
似たようなことはカガチもやっていた。
指を立てた「三」「五」「十」で「
――「数字だけで綴られた歌」。
数字と言えば、あの賽銭箱の文字だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
賽銭箱の文字には「数字」と「ヤツマタ様の名前」が書き連ねられている。
これだけでは意味不明だが、「数字」と「ヤツマタ様の名前」に関して言えば、俺が手にしている情報はもう一つある。
ヤツマタ様毎の、「乗船した回数」だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
マムシ:三回(第一夜、第四夜、第七夜)
カガチ:二回(第二夜、第五夜)
アオダイショウ:二回(第三夜、第六夜)
シロマダラ:一回(第三夜)
シマ:一回(第四夜)
ジムグリ:一回(第五夜)
ヒバカリ:三回(第一夜、第二夜、第六夜)
タカチホ:一回(第七夜)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この「乗船した回数」と賽銭箱の文字を見比べると、ある事実が浮かび上がる。
各ヤツマタ様が乗船した回数と、賽銭箱の文節の数が一致しているのだ。
例えばマムシは三度乗船した。
賽銭箱は「
カガチは二度乗船した。
賽銭箱は「
シロマダラは一度。
賽銭箱は「
ここでヒントの二つ目が活きる。
すなわち、「ヤツマタ様が乗船する順序はあらかじめ決められていた」という点。
ヤツマタ様の乗船順はこうだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第一夜 マムシ ヒバカリ
第二夜 カガチ ヒバカリ
第三夜 アオダイショウ シロマダラ
第四夜 マムシ シマ
第五夜 カガチ ジムグリ
第六夜 ヒバカリ アオダイショウ
第七夜 マムシ タカチホ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここに、賽銭箱の文節を嵌め込む。
例えば第一夜、第四夜、第七夜に乗船したマムシは第一夜が「
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第一夜 マムシ(
第二夜 カガチ(
第三夜 アオダイショウ(
第四夜 マムシ(
第五夜 カガチ(
第六夜 ヒバカリ(
第七夜 マムシ(
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ノヅチの歌がヒントなら、主様の名前に関連する要素は「数字」。
これを踏まえて賽銭箱を見ると、ほとんどの文節に数字が入っていることが分かる。
そこだけを抜き取ると、こうだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第一夜 マムシ(七) ヒバカリ(九)
第二夜 カガチ(十) ヒバカリ(千)
第三夜 アオダイショウ(七) シロマダラ(九)
第四夜 マムシ(九) シマ(百)
第五夜 カガチ(十) ジムグリ(八)
第六夜 ヒバカリ(?) アオダイショウ(六)
第七夜 マムシ(?) タカチホ(?)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここでもう一度、灯籠廻船のルールを思い出す。
灯籠廻船は「この世とあの世の間を行く船」だ。
乗船するヤツマタ様は「彼岸と此岸の狭間のなみなり」。
そしてヤツマタ様は必ず「二人一組」で乗船する。
この世とあの世の「間」。
彼岸と此岸の「狭間」。
必ず「二人」。
これらを踏まえて、もう一度今の図を見る。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第一夜 マムシ(七) ヒバカリ(九)
第二夜 カガチ(十) ヒバカリ(千)
第三夜 アオダイショウ(七) シロマダラ(九)
第四夜 マムシ(九) シマ(百)
第五夜 カガチ(十) ジムグリ(八)
第六夜 ヒバカリ(?) アオダイショウ(六)
第七夜 マムシ(?) タカチホ(?)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第一夜。
マムシの「七」とヒバカリの「九」。
――――その「間」には「八」がある。
第二夜。
カガチの「十」とヒバカリの「千」
この間にあるのは「百」だ。
第三夜。
アオダイショウが「七」でシロマダラが「九」
間は「八」。
第四夜。
マムシが「九」でシマが「百」
間は「十」。
第五夜。
カガチが「十」でジムグリが「八」。
間は「九」。
繋げると、見えて来る。
無意味な羅列ではなく、意味のある文字列が。
そして最後の二文字は「ナギ」。
主様の名前は、これで分かる。
ただし、音だけだ。
ユメミも俺も、ここで詰まった。
否、現在進行形で詰まっている。
第六夜と第七夜。
ヒバカリの「?」とアオダイショウの「六」の間。
マムシの「?」とタカチホの「?」の間。
この部分が分からない。
(アオダイショウは「六」だ。……でも、「
よく見ると「酔」という字に「九十」がある。
だがそれまでの法則性を考えると、位置が微妙にずれている。
仮に「酔」の一文字が正解だったとして、「六」と「九十」の間には何もない。
(怪しいのは「
その場合、マムシは「
だが、おかしい。
(数字じゃないだろ、どれも……!)
刹界と六の間に数字は無い。
那落と僧の間にも当然、無い。
答えは分かっている。
答えは「ナギ」だ。
だが、「ナ」はともかく、「ギ」のつく数字など無い。
あったとして、字が分からない。
分からなければ、書けない。
このままでは俺は戻れない。
(クソ。音だけ……! 音だけなら分かるのに……!)
先ほどノヅチ――否、主様は俺が文字の読み書きができることを理由に文字での回答を求めたが、おそらく真意は違う。
俺が一足飛びでこの二文字に辿り着いてしまったことを悟ったからだ。
正規ルートを通っていない回答は許さないということか。
『ヒーゲさん』
ノヅチがぬるりと近づいた。
『そろそろお時間じゃないですかねぇ』
「……っ」
汗が噴き出した。
ここで間違えれば、すべてが水の泡だ。
俺はあの世へ連れ去られ、そのまま――――
(クソ……! 頭使え、俺……! ガキの頃は頭良かっただろうが……!!)
那落と僧の間。
刹界と六の間。
那落と僧。
刹界と六。
(ダメだ。分からねえ……!)
『あ、じゃあ先にお別れでも済まされます? どう転んだとしても、このお三方とはここでお別れなわけですし』
「……!」
ユメミ、ロッコ、シュウの三人は弱り果てたように俺を見つめていた。
助言の一つもあればありがたいのだが、もはやそれは望めない。
三人は既に――
――――
――――
――――待て。
(……。ロッコはもう死んでる……)
そうだ。
ロッコは死人で、幽霊のような姿で立っている。
だが、彼女の荷物はここにある。
何故だ。
(……)
思い返せば、「ナギ」の一件も不自然だ。
俺があれに気付けたのはロッコの持ち込んだ辞典があったからだ。
蛇の異名が「ナギ」であると知っている人間はそう多くはないはずだ。つまりあれは「単純知識」。
主様の名前を言い当てるのに単純知識は不要なはずという俺の推理と食い違う。
(そもそもの考え方が間違ってる……? いや、違うな)
もしかすると主様は生者側の状況に応じてヒントを小出しにするのかもしれない。
たとえば完全に丸腰の者が灯籠廻船に乗り込んだ場合、賽銭箱に追加の文字が記されたり、ノヅチが早々に歌を詠むといったことが起こるのではないか。
――で、あれば。
ここにロッコの荷物が残されている理由は一つ。
(俺にとって重要なヒントが残ってる……!)
『ヒゲさん。そろそろ主様がお怒りになるかと』
踏み出そうとしたところで、ノヅチがそう釘を刺した。
期待を抱きかけた俺の心が、再び失意にしぼみかける。
(ロッコの本はまだ山ほどあるぞ……! ヒントがどこにあるかなんて分かるかよ……!)
もし選ぶ本を間違えれば。
選ぶページを間違えれば。
それだけですべてが終わりかねない。
思い出せ。
どこかになかったか。
奈落と僧。
刹界と六。
そうした文字が――――
「あ」
分かった。
思い出した。
繋がった。
「……!」
俺はロッコの鞄に飛びつき、分厚い本や辞書の中から一冊を取り出した。
彼女が書き溜めた、創作のネタ集。
見られることを極端に恥ずかしがっていたあのノート。
ページを急いでめくる。
俺が見たあの場所は――――
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
月の異名:睦月、如月、弥生、卯月、皐月、……
八大竜王:難陀、跋難陀、娑伽羅、徳叉迦、阿那婆達多、……
十二神将:珊底羅大将、摩虎羅大将、招杜羅大将、毘羯羅大将、……
音楽:協奏曲、遁走曲、狂詩曲、鎮魂曲、……
万より上の数字:億、兆、京、垓、……
厘より下の数字:毛、糸、忽、微、……
八卦:乾、兌、離、震、……
九星:一白、二黒、三碧、四緑、……
七福神:大黒天、恵比須、毘沙門天、弁才天、……
八音:金、石、糸、竹、……
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『終わりです』
すっとノヅチの手が伸びた。
その指は栞のごとく俺の開いたページに挟まる。
『書いてもらいましょうか』
「……」
俺は軽く首を振った。
訝しむようなノヅチを前に、呆れに近い脱力の笑みがこぼれる。
「……いや、これはずるいだろ」
『……?』
「普通の奴は知らないだろ」
『……』
「もしかして俺、ハードモードだったのか? ロッコのせいで……」
だが、「刹」の一字を含む数字は存在する。
――「
少数で示すなら、「0.0000000000000000001」。
子供の頃、よく数えて遊んでいた。
一、十、百、千、万。億、兆、
これは増える方だが、減る方にも単位はある。
一の十分の一は、「
一の百分の一は、「
一、分、厘、
弾指(だんし)、その次が――――
「刹那(せつな)だ。その次は十のマイナス十九乗、「六徳(りっとく)」……!」
『刹』「那」。『六』徳。
ヒバカリの「刹」とアオダイショウの「六」の間は、「
マムシとタカチホは数字が増える方だ。
一、十、百、千、万、億、兆、京、垓。
じょ、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)。
恒河沙(ごうがしゃ)、その次は――――阿僧祇(あそうぎ)。
阿「僧」祇。
「その次は「那由他(なゆた)」。10の六十乗だ」
僧と那の間は「
七 八 九
十 百 千
七 八 九
九 十 百
八 九 十
刹 那 六
僧 祇 那
俺は黒い靄を纏う人差し指を宙へ向けた。
八
百
八
十
九
那
祇
「主様。あなたの名前は」
俺は真っ白な世界に浮かぶ筆文字の向こうを見やった。
「
はっと我に返ると、そこは灯籠廻船の甲板だった。
冷たい夜天には十二の赤い星。
石鳥居。
境内。堀。
玉砂利を敷き詰めた地面。
静かな夜に、
「……?」
ノヅチは船の外を見やっていた。
朝陽を待つ詩人のように。
『当てられましたねぇ』
船頭は俺に背を向けたままぽつりとつぶやいた。
『じゃ、帰りましょうか』
俺が何かを言おうとすると、振り返ったノヅチが手で制した。
『最後に一言だけ、交わされても良いそうですよ』
「何?」
『ほら』
手で示された先は、鳥居の下だった。
そこにはユメミ、ロッコ、シュウが立ち尽くしていた。
浴衣姿で、側頭部に面。
死者たちの表情は悲しそうでもあり、嬉しそうでもあった。
「……お前ら……」
歩み寄ると、三人の姿はほぼ消えかけていた。
まるで気まぐれな煙の作った像のように輪郭も曖昧だ。
三人が口を開けた。
言葉を覚えたばかりの赤子のように、「あ」とも「え」ともつかない形に口を開いている。
『ごめんな、兄ちゃん』
シュウが、そう告げた。
声音には悲哀があった。
『ごめんね、イタチ』
ロッコが、そう告げた。
声音には後悔があった。
『……』
ユメミは一度だけ目を伏せた。
そして顔を上げ、ぱっちりと開いた目を俺に向けた。
俺の胸に微かな波が立った。
『どうか、許してあげて』
彼岸の黒い海原に朝陽が昇った。
暖色の光を伴う、活気に満ちた太陽だった。
風を受けたようにして、三人がかき消えた。
細く青白い煙の筋が一瞬残ったが、それもすぐに見えなくなった。
「あ……」
俺は呆けたように口を開き、声帯を震わせた。
もう、遅かった。
「それじゃ帰りましょうかね、ヒゲさん」
ノヅチが俺の肩を叩いた。
「帰りはあっという間ですよ」
「そ」
そうか。
そう言おうとしたのだと思う。
短い痙攣と共に目覚める。
「――――?」
苦い灰色の匂いが俺を包んでいた。
おそらくは石油由来の化学繊維の匂い。
背中には弾力のあるシートの感触。
伸ばした脚が強張っている。
「……」
身を起こす。
俺は車の中にいた。
シートを倒し、眠っていらしい。
窓の外は漆黒の闇。
ガラスがひどく濡れているのは雨が降ったせいだろうか。
キーを回してライトを点けると、そこは新茶市の駐車場だった。
「……ぁ」
結婚。
妊娠。
正社員。
貯金。
将来。
両親。
様々な言葉が、紐のついた重りさながら俺の心に吊り下がる。
現実の重み。
生きている重み。
(夢……?)
夢だったのか。何もかも。
両親のことを思い煩う俺の脳が、無意識に蛇の悪夢を見せたのか。
ロッコも、シュウも、ユメミも。
ノヅチも、ヤツマタ様も、主様も。
何もかも、俺の脳が見せた幻だったのか。
(……いや)
顔や体に触れると、痛みの記憶が残っている。
鮮烈な戦いの記憶と、子供たちと語り合った記憶が、脳の奥でまだ熱を持っている。
夢ではない。
夢だったとしても関係ない。
俺にはやるべきことがある。
ポケットに硬質な感触を感じた。
スマートフォンだ。
取り出し、日付を見る。
新茶市の翌日、午前四時。
八時間ほど眠っていらしい。
(……行くか)
ポケットに戻そうとしたところで、通知音。
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メッセージ:99+件。
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