ある古戦場で(後編)

 その人間との出会いは、そう大したものではなかった。

 家主である神が消えてしまうほど信仰が薄れた寂しい社。各地をさすらっていた彼はそこを仮の住まいとしつつ、旅の疲れを癒していた。

 その時代はまだ神々が現在よりも必要とされていた時代だった。寂れた社にその人間がやって来たとき、彼はなんとなくその用向きを察して、少し面倒くさそうな眼差しを向けた。

 その人間が社に――そこにいるであろう神に求めたのは豊作であった。農業が生活の中心だった時代、豊作祈願は多く人々が持つ願いだったろう。枯れた土地に住まう人々にとっては死活問題でもある。

 その人間はこの辺りの土地を治めている領主のようだった。見た目は貧相で、供回りもほとんどなしに訪れてくるものだから、最初はその正体が掴めず、随分と胡散臭い男に見えたものだ。

 忙しかったのだろう。そんなに頻繁に社には来なかった。ただ、来たときは常に真剣な面持ちで領地の豊作を願っていた。

 男が来るようになってから、うらぶれた社はまともな形を取り戻していった。おかげで仮住まいの居心地も良くなり、彼は上機嫌になった。

 できるなら願いを叶えてやりたい。珍しく、そんな真っ当なことを考えたりもした。しかし、彼は生憎豊作を司る類の神ではない。元々この社にいた神霊はそういった類のものだったようだが、とっくに存在が消えてしまっていた。おそらく神霊の加護だけではどうにもならないくらい土地が荒れてしまい、結果として信仰が失われてしまったのだろう。

 元々農業の神でない彼に、できることなど何もなかった。

 それでも男は時折社に来た。そのたびに祈り続けていた。

 あるとき、社から戻る男の後をつけてみた。

 道すがら、すれ違う人々に声をかけていく。男の言葉に皆が耳を傾け、力のない笑顔を向けてくる。男が慕われていること、人々の暮らしに余裕がないことが一目見て取れた。

 普通、生活に余裕がなければ賊に身を落とす者も出てくる。しかし、この辺りではそういった話を聞かない。男の統治によるものか、この土地の人々がそれだけ真っ当なのか、理由は分からない。

 ただ、この土地に漂うしっかりとしつつ長閑な空気は、嫌いではなかった。いたずらに活気がある土地よりは、こういうところの方が良い。人々の営みと自然の理が程良く均衡を保っている感じがした。

 狙ってやっているわけではないのだろう。ただ、こういう土地の在り方はあの男の気質がそのまま広まったもののような気がした。

「なあ、人間」

 そんな気質の人間に興味がわいた。

 人気のないところで男に声をかけた。そうすることで、男にもこちらの姿が見えるようになる。

 男はこちらの姿を見て、不思議なものを見るような表情を浮かべた。

「……はあ。私は人間ですが。あなたは?」

「人間ではない」

「物の怪ですか」

「失礼な。まだそこまで落ちぶれておらぬ」

「では……」

 男の表情に期待の色が見えた。なんとなく、こちらの正体を察したのだろう。

「言っておくが、そなたの期待してるようなことはできん」

「できないのですか」

「生憎わしは元々流れ者でな。元々ここにいた奴は、とっくに隠れてしまっている」

 神に死という概念はない。ただ、穢れによって堕ちることや故あって隠れることはある。ここに元々いた神は後者だ。おそらく信仰を失ったせいだろう。

 男は僅かに落胆したようだが、すぐに持ち直したようだった。

「貴方はしばらくこの地に逗留されるのですか?」

「そんなところだ」

「では、一つ御頼みしたきことがあります」

「ふむ?」

「この地を見て気になるところがありましたら、私に話していただきたいのです」

「……そんなことで良いのか」

 拍子抜けする頼みごとだった。人間と言うのは神を畏れるくせに、割と図々しい頼みごとをする奴が多い。しかし男の願いは、なんというかちっぽけな頼みだった。別に神に頼まずとも良いのではないか、と思える。

「私はこの地を離れたことがないため見聞狭き男です。しかし貴方はさすらう神なのでしょう。であれば長い間、いろいろな地を、人を見てきたはずです。そんな貴方の言葉であれば金言に値すると言って良い」

「なるほど。その金言にこの地を豊かにする方策が隠されているかもしれないと」

「はい」

 男の目には期待も失望もなく、ただ真剣であることが読み取れた。それだけこの地のことを真剣に考えているのだろう。

「……良かろう。こういう神頼みも珍しい。付き合ってみるのも一興」

「ありがとうございます。……ああ、申し遅れました。私は」

「おぬしの名は知っておる」

「左様でございますか。では、貴方様は?」

「一応名は知れている方だが、あまり出さぬ方が良い名でもあるしな……」

 太古の頃と違って、今の人間はあまり気にしないのかもしれないが、あまり本当の名を触れ回られると一部の神がうるさい。

「そうさな……セオと呼べ」

「セオでございますか」

「ああ。では……しばらく厄介になるぞ」


 昔の夢を見ていた。

 目覚めればそこは山中。

 寂れた社はもうない。戦で焼かれてしまった。今はただ小さな祠が残るのみだ。

 あの男もいない。どういう最期を迎えたのかすら知らなかった。

 この地に逗留したのは間違いだった。あの夢を見る度にそう思う。

 結局、自分が与えた『金言』によって発展したことがこの地に災いを招いた。

 出る杭は打たれる。出してしまったのは他ならぬ自分だ。

 だから、未だに自分はこの地に留まっている。

 毎夜行われる無為な怨霊たちの合戦。いつ果てるとも分からないその争いが潰えるまでは、ここにいる。そう決めてからどれほどの年月を経たであろう。

 神である自分ですら長いと感じるほどの歳月だ。きっと百年や二百年ではあるまい。 死者もいずれは力を失い消えていく。恨み自体は変わらず残り続けるとしても、いつか終わりは来るのだ。それを自分は見届ければ良い。

 たまにこの地の異常に気付いて祓いに来る者もいたが、誰もが諦めていった。今ではそういう者はほとんど現れない。

 神である自分は穢れである死者たちに何かすることは出来ない。迂闊に触れれば本来の形を失ってしまう。そういう神の性質を歯がゆく思うこともあった。

 今日も合戦が始まる。古戦場でいつまでも終わらない合戦が。

「……ん?」

 ほんの僅かな違和感があった。

 死者たちが発する瘴気の中に、少しだけ別のものが混じっているような。

「気のせいか?」

 釈然としないものを感じながら、その晩は過ぎていった。その次の晩も、また次の晩も過ぎていく。

 明らかにおかしいと感じ始めたのは、その違和感を抱いてから一月程経ってからだ。合戦の規模が少しだけ小さくなっている。死者の数が減っているのだ。

「さて、これはどういうことであろう」

 眷族たる式神を放って様子を見させてみる。式神とは視界を共有できるので、何か不審な点があればすぐに確認が可能だ。

 戦場近くまで式神を向かわせる。やはり近くで見ても、死者の数は明らかに減っていた。遠目に何か淡く光っているものが見える。

「……あれは」

 光の中心にいるのは巫女装束を身にまとった娘だった。

 いつだったかこの地を訪れた半人半鬼の娘。変わった娘だったからよく覚えている。しかしなぜ今この地に来ているのだろう。とっくに他の場所に行ったと思っていたのだが。

 彼女がいるのはここから式神を飛ばせる範囲の外だ。ここからでは詳しい様子が分からない。

「やれやれ、直接行ってみるしかないか」

 この祠から動くなどいつ以来だろう。

 式神を使って周囲の様子を探ることはあったが、この身を動かすのは随分と久々だ。さすらう神だったというのに、怠け者もいいところである。

 こちらの気配を察したのだろう。視認できるほど近づいた頃には、彼女はこちらを向いて軽くお辞儀した。

「久しいのう。じゃが、なぜおぬしはこんなところにおる? 旅を続けているのではなかったのか?」

「お久しぶりです。いやあ、どうにもここのことが頭から離れなくて、戻ってきちゃいました」

「戻ってきたところで、おぬしにできることなどあるまい」

「そうでもありませんよ」

 彼女は少し得意気に微笑むと、何やら呪いの言葉らしきものを紡ぎ始めた。彼女を中心として円状に淡い光が広がっていく。

「これは結界か」

 それもかなり強力なものだ。元々彼女が持っていた力は大したものだったが、あまりに不秩序で全然使いこなせていなかった。それが今はある程度使いこなせるようになっている、ということか。

「こうして結界の中に少しずつ皆さんを入れて、一人一人をお祓いしてたんです」

「随分疲れているようだな」

 あまり表には出さないようにしているようだが、彼女は明らかに疲労していた。

「やっぱり分かりますか」

「分からいでか。一応わしも神の端くれだ」

「……まあ、さすがにこれだけの瘴気を発する死者を一斉に祓うのは至難の業なので。私は一日に一人か二人祓うのが精一杯です」

 そんなところだろう。平静なままでこの場に居続けているだけ大したものだ。

「これまでどれだけ祓った?」

「戻って来たのは一ヶ月前なので、だいたい四十人前後くらいです」

 改めて合戦場に広がる死者たちを見やる。ざっと見てまだ三百人前後はいた。

 最悪一日一人、一月三十人前後祓うとしたら十ヶ月はかかる。彼女もそれくらいのことは理解しているだろう。それでもやる気なのだろうか。

 そういえば、彼女が以前ここに来たのはいつ頃だったか。

「……おぬし、以前ここに来たのはいつ頃だった?」

「えっと、五年前ですね」

「……以前と比べると大分術者としてしっかりしたように見える。随分修業を積んだのか?」

「はい、ここに来てからすぐに。最初の一年は先生探すのに必死だったので、実質修行は四年間ですね」

「……」

 まさかとは思うが。

 彼女はこの地の現状が気になったというだけの理由で、五年という歳月を修行に費やし、一年弱かけてこの地をどうにかしようとしているのか。

 否定しようと思ったが、彼女の言動からするとそう受け取るしかなさそうだった。

「随分と、奇特なものだな」

「そうですか?」

「人間にとって――特に君くらいの年頃の娘にとって五年、いや六年近くの年月はとても大切なものだろう。それをこんな通りすがりの地の死霊たちのために使うのだ。奇特という他あるまい」

「そうでもないですよ」

 彼女は自分が変わっていると言われたことに不服なようだった。

「何を大事とするかは人それぞれです。私は自分が大事だと思うものに素直に従っているだけです。奇特なんかじゃありません、普通です」

「ほう。君は何を大事にしているのだ」

「望んでもないのに何かに縛られている人は放っておけない、です」

 まるで仇敵について語っているかのような表情だった。おそらく、きっと彼女も望まぬ何かに縛られていたことがあるのだろう。

「まあ、君がそうしたいなら好きにすると良い。わしはそれを見届けさせてもらおう」

 彼女の返答を待たずに背を向けて祠に戻る。

 どこまで本気なのかは、見ていれば分かることだ。


 一日が長く感じる。

 少しずつ死霊たちは減っていった。瘴気も段々と薄れていく。

 喜ばしいことのはずなのに、どこか胸に空虚なものが広がっていった。

 苦痛だったはずのこの数百年に安穏としたものを感じていたのかもしれない。そんな自分に気付いて苦々しく思うことが増えた。

 そんな自分と対照的に彼女はひたすら真っ直ぐだった。

 決して順調とは言えないが、少しずつ着実に祓いを続けていた。

 八ヶ月も経過する頃、瘴気はほとんどなくなった。

 死霊も残り僅かとなったようだ。

 その日は日が暮れる前に祠から出た。

 先に古戦場に立って、誰もいない草野原を見やる。

「今日で最後ですよ」

 巫女装束姿の彼女が後ろに立っていた。

「そうか」

「あと二人です。今日は二人を祓います」

「一人はわしに任せてくれんか」

「……貴方は死霊に触れられないのでは?」

「話をするだけで良い。多分それで済む」

 式神を通して毎日見続けていた。

 先月の終わり辺りで気付いたのだ。

 一人、見知った顔があった。

 その顔を見つけてからは随分と思い悩んだ。人間だった頃に戻ったかのように迷い続けた。どうするかは決めていたが、何を話すべきかが分からなかった。

 分からないままここに来てしまった。だが、それでも良いと今は思える。

 日が暮れる。夜が来る。

 見知った顔が現れる。

 さて、何を話そうか。

 彼と話す時間は、なかなかに楽しかった。

 今夜もまた楽しい時間になるだろうか。


「……ところで」

 道中。

 目的地のない道の途中。

 彼女は怪訝そうな表情を浮かべてこちらを振り返る。

「なぜついて来てるんですか?」

「失礼な。わしを低級な霊と一緒にするな。憑いてなどおらぬ」

「いや、そうじゃなくて」

 彼女は戸惑った様子で頭を押さえていた。

「貴方はあの場所にいなくていいんですか?」

「わしは別にあそこの土地神ではないからの。盟約であの地の終わりを見届けた今、本業に戻ることにした」

「本業ですか? 物乞い? 泥棒?」

「六年前のことを未だに恨んでおるのか。人間の恨みというのは消えにくいものよ」

「じゃあ、本業ってなんです?」

「旅じゃよ」

「……旅ですか?」

「うむ。わしは元々さすらう神であった。だからこうしてさすらいを再開したのだ」

「道祖神なら知ってますけど、なんかそれとも少し違うみたいですね」

 胡散臭そうにこちらを見る。ここでサルタヒコとでも名乗れば信頼を得られるのだろうか。残念ながら自分はサルタヒコではないのだが。

「道案内などせぬ。わしは自らがさすらうのだ。この地に我が身の置き所なし。ゆえにわしは渡り歩く。それが本業よ」

「それなら私と一緒に行く必要は別にないじゃないですか。お好きなところに行ってください」

「どうせおぬしも目的のない旅路であろう? わしは奇特なおぬしに興味がある。それに、これでもわしも昔は鬼神と恐れられた存在。鬼の巫女であるおぬしと共に行動するのはとても自然なことではない」

「不自然です! 私は鬼じゃないです。奇特でもないです。普通の人間です!」

「わしのことはセオと呼べ」

「聞いてません!」

 鬼巫女殿の叫びが山道に響き渡る。

 たださすらうのも良いが、こうして語り合う相手がいるというのも悪くはない。

 それに気付かせてくれた男はもういない。あの晩、笑って消えてしまった。

 物思いに耽っている間に、彼女は随分と先へ進んでしまった。だが、そこで立ち止まってこちらを振り返る。

「セオ。行かないんですか?」

「……なんじゃ、同行は認めてもらえたのか?」

「認めようが認めまいが勝手についてくる気でしょう。だったら仕方ないです。ほら、行きますよ」

 呆れ顔の鬼巫女殿はどんどん先に進んでいく。

「やれやれ。運動不足の爺を置いて行くとは酷いお嬢さんだ」

 そんな軽口を叩きながら、自分も歩みを再開する。

 行く先は決まっていない。どこにでも行ける旅路だ。

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