ある幻想

 周囲と打ち解けようとしても、なかなか上手くいかない。

 そんな悩みを抱えた少年は、ある日妙なものを見つけた。

 学校からの帰り道。特に理由もなく、いつものように一人、集団で帰るクラスメートを遠目に見ながら帰宅していた途中。

 近所にある公園を通り抜けようとしたとき、脇にあった木の枝に視線が止まった。

「……虫?」

 それは奇妙な虫だった。尾の部分が黒く、そこから徐々に白くなって頭部に至る。形は芋虫に似ているが、顔の部分が一回り大きい。目の部分がどこか人間みたいな、気持ちの悪い虫だった。

 だが、少年は何か惹かれるものがあって、その虫に手を伸ばした。指先で突付くと、虫はその頭を少年の方に向けた。更に突付くと、今度は指を這って来る。

 確かにそこにいる虫なのだが、こうして触れていても、どこか嘘臭い虫だった。ただ、気持ち悪い外見をしているにも関わらず、不思議と嫌悪感は湧かなかった。

 両手を広げて虫を持つ。虫は面白がっているのか、普通の芋虫ではありえないような速さで、コロコロと寝返りをうつように回ってみせた。

「なんだ、お前、僕のこと気に入ったのか?」

 虫は答えない。答えるはずもない。

 ただ、愛嬌を振りまくように、チョロチョロと動き回るだけだ。

「……うん。確か虫かごあったっけ」

 少年はそう言って、大事な宝物を扱うように虫を持ったまま走り出した。


 元々人付き合いがほとんどなかった少年は、その虫を拾って以来、より人と関わろうとしなくなった。

 休み時間は、虫に何の餌をやろうか、といったことばかり考えるようになった。放課後は虫に会いたいがために、すぐさま家に戻るようになった。

 最初は子どもによくあることと思っていた親も、一月を過ぎる頃になると、我が子の熱中ぶりが少し心配になってきた。

 話しかけても返事はうつろだし、夜遅くになっても、ぶつぶつと虫に向かって語りかけている。それが気味悪くて、ある日母親は、少年が学校に行っている間に虫の様子を覗いてみた。

 虫は、少年が拾ってきたときと何ら変わらない姿で、虫かごの中にいた。しかし改めて見ると、人間のような印象を受ける。双眸がどこか虫らしくないのもあるし、動き方も人間臭い。

 そのときも、最初に母親が現れたときは驚いたように身を隠した。しかしじっと観察していると、危険はないと判断したのか、よじよじと物陰から身を出してくる。

 虫というのは――こんな風に人間を強く意識して動くだろうか。

 見れば見るほど気味悪く思えてくる。元々虫が苦手というのもあったが、この虫からはまったく別の恐ろしさを感じる。

 捨ててしまおうか。

 そう考えて、母親は慌てて頭を振った。そんなことをしたら、いつかこの虫が自分に復讐しに来るのではないか――と、そんな気がしたのである。

 その晩、夫が帰宅した後にそのことを話すと、

「考え過ぎだよ」

 と一蹴されてしまった。とは言え、夫も虫に対して不気味なものは感じているらしく、言葉とは裏腹に難しい顔をしている。

 と言って、少年が間違ったことをしているというわけでもない。だからどうすればいいのか、親としても判断しにくかった。

「とにかく、しばらく様子を見るしかないだろうな」

「でも、それで万一のことがあったら……」

「――何の話?」

 そこで、母親の背後に立っていた少年が声をかけた。


 ぎょっとして振り返る両親を見て、少年は恐れを確信に変えた。

 子どもは大人が思っているほど鈍くない。両親が虫のことを愉快に思っていないことなど、少年はとっくに気づいていた。

「……あの虫、捨てるの?」

「い、いや。そういうわけじゃないんだ……」

「嘘だ。お父さん、いつも嘘をつくとき目を逸らすもん」

 慌てて自分の顔を抑える父親に失望しながら、少年は駆け足で部屋に向かった。机の上に置いていた虫かごを持って、玄関に向かって走り出す。

「逃さなきゃ……!」

 このまま家に置いていたら、いつか虫は両親に殺されてしまう。そんな予感が少年の中にあった。

 不安そうに少年を見上げる虫に「大丈夫」と語りかけながら、少年は慌てて靴を履こうとする。

「待ちなさい、どこ行くの!?」

 背中の方から母親の声がする。少年は意を決して、裸足のまま家を飛び出した。


 とは言え、少年には行くあてなどなかった。

 友達がいなかったから、外で遊ぶようなこともなかった。家と学校を往復するだけの毎日だったから、知っている場所などほとんどない。

 通学路にある河原の隅に少年が座り込んだのは、他に適当な場所が思い浮かばなかったからだ。

「どうしよう」

 かごの中の虫に語りかける。

「どうしよう。お前と離れるなんて嫌だよ。でも、家に置いておいたら危ないし……ああもう、どうしよう」

 泣きそうな少年を励ますかのように、虫は陽気に動いてみせる。普通の人が見れば不気味にしか見えない動きだったが、少年の心は少し晴れた。

「うん――」

 そのとき。

 河原に生い茂る草むらの中から、汚い身なりの男が一人、出てきた。片目が半端に隠れて、テレビで見た妖怪のヒーローみたいだった。

 咄嗟に現れた不審者に少年が身を硬くする。

「だ、誰……!?」

「ん? 僕かい。僕は飛鳥井秋人という。旅人だよ」

 旅人というキーワードで、男の胡散臭さは一気に増した。少年の目がより警戒の色を帯びる。だが秋人の方はそれに気づいてないのか気にしてないのか、興味深そうに少年の方に身体を伸ばしてくる。

「うん……子どもがこんな時間に出歩くのは関心しないよ。と注意しようと思ったけど、なにやら珍しいものを持ってるね」

 そう言って、秋人は少年の持つ虫かごを指さした。

「え……」

「その虫。君が飼ってるのかい?」

「う、うん」

 少年の心は揺れた。目の前の怪しい男は、どうやらこの虫のことを知っているようだった。少年はこの虫を大切に扱っていたが、正体についてはまったく知らない。図鑑などで調べてみたものの、どこにも載っていなかったのだ。

 少年が答えを求めるよりも先に、秋人は勝手に語り始めた。

「これはコウチュウという」

「コウチュウ?」

「うん。意味としてはとてもシンプルなものなんだけど……おや」

 言いながら、秋人は虫の背中を指さした。そこが少しずつ開いて来ている。

「本当に珍しい。君は本当に、この虫を大事にしてきたんだね」

「え?」

「ほら。蛹の段階をすっ飛ばして、もう孵ろうとしている。コウチュウの中にはこういう孵り方をするという事例は聞いたことがあるけど……この目で見れるとは」

 言っている間にも、虫の背中は少しずつ裂けていく。その中から見えたのは、ひどく透明な羽二つ。よほど注意して見ないと、夜の闇に呑まれてしまいそうな透明さだ。

「……ど、どうしよう」

 急激な変化についていけず、少年は秋人に助けを求めた。彼は少年と虫とを交互に見てから、ちょっと頷いてみせた。

「虫かごを開けるといい」

「え、でも……」

「コウチュウはもう巣立とうとしているんだ。君のもとにこれ以上いたら迷惑になってしまう……そう考えたんだろうね」

 まるで自分たちの境遇を知っているかのような口振りに、少年はきょとんとした。だがそのことを気にしている暇はない。虫は既に孵ろうとしていた。

 言われた通りに虫かごを開く。それとほぼ同時に、虫は完全に孵った。

 透き通るような羽を持つ、美しい虫だった。相変わらず人間のような印象はあったが、気味悪さはほとんどない。

「あ……」

 虫は出来立ての羽を動かして、器用に虫かごから飛び出した。

 ひらひらと少年の周りを飛んでいたが、やがてその身を空に向けていく。

「あっ――!」

 少年が悲しそうな顔で手を伸ばす。虫はそれを見て、謝罪のつもりか少年の鼻先に止まって――結局、飛んでいってしまった。

「……」

 呆然とした表情で虫を見送る少年の目から、雫がこぼれ落ちた。

 夜空に見える星の光が、一瞬、一際強く輝きを放つ。

 それきり、虫は姿を消した。


「コウチュウというのは、結局何だったのですか?」

 少年を家に帰らせたあと、夏名が不思議そうな顔をして尋ねてきた。八百万の一柱である彼女も、コウチュウのことなどは知らなかったらしい。

「ナナシ、説明頼むよ」

 ぽん、と鞄から一冊の本を放り投げて秋人が言う。途端、投げられた本が心外そうに言葉を紡ぐ。

「相変わらず扱いが悪いぞ、秋人。本は大切にしろ、人間なぞよりデリケートなのだからな」

「分かった分かった。本は本らしく知識を提供してくれ」

「……貴様には今度、本の在り方を教えてやらねばならんようだな」

 何やら決意を固めてから、ナナシは夏名に向き直った。

「コウチュウというのは漢字で書くと、好ましい虫。それで好虫という」

「へぇ、素敵な名前じゃありませんか」

「そうかな。そのあたりのことは私には分からんが」

 そう断ってから、ナナシは付け加えた。

「あれは正確には虫ではない。人間の『誰かを好ましい』という感情が、幻想によって形を得たものだ」

「そうなんですか?」

 意外そうに夏名が首を傾げる。

「好虫。幻想。そういった言葉から受ける印象とは、随分違う印象を受けましたけど。……いえ、最後は綺麗だったんですが」

「確かに、最初のは気味が悪かったねぇ」

 秋人がおかしそうに笑う。

「でもさ。孵りきる前の好意なんて、気持ち悪いものだと思わない?」

「そうですか? そんな風に思ったことはないですけど」

「そっか。僕がひねくれてるのかなぁ。好意ってさ、それ自体はとても素敵で尊いものだと思うけど……他人からすると理解できなかったり、変だったりするんじゃないかな、と僕は思うんだよね。ストーカーの好意なんかはそれが露骨に現れる例だと思うけど……普通の好意だって、見方によっては気味悪いものだと思うよ」

「うーん」

 尚も夏名は納得しかねる素振りを見せた。善意に溢れる彼女には不向きな話題だったかもしれない。

「僕は、本人にとってもそうだと思うんだ。好意をどうすればいいか分からない。どう伝えればいいか分からない。どうやったら受け入れてもらえるか分からない。自分一人では成立しえないし、正体も知り得ない。けど、好意を向けられた相手にだって正体は分からない。これだけ正体不明なものだ。気味が悪くて当然だと思わないかい」

「……そういうの、気味が悪いとは言わないと思いますけど」

「無駄だ、夏名。こいつの感性に突っ込んでも仕方がない」

「あれ、もしかして僕少数派?」

「いえ、言いたいことは分かりますけど……何かこう、肝心なところで言葉の選び方が間違っているというか」

 コホンとわざとらしく咳払いをして、秋人は仕切りなおした。

「好虫はそういう気味悪さ……じゃなくて、まぁ正体の知れなさがそのまま形になったものなんだよ。だから最初はあんな姿をしているのさ」

「……でも、なんでそれが孵ったんですか?」

「好意が『分かった』んだろうね。あの子どもは、きっと毎日好虫に好意を与え続けてたんだろう。行き場をなくした好意にとって、誰かから与えられる好意は――最高の餌だったんだろうね」

「好意と好意が結びついて、孵った――ということでしょうか」

「そうだね。そう考えるのが、一番幻想的だと思うよ」

 秋人は肩を竦めて、

「……最後は形のないものに孵っていくのも含めてね」

 と、笑ってみせた。

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