ある家族の話―八月六日(II)~八月七日(II)―

 <蒼井 浅海>

 薄い一枚の壁。

 その向こう側に、もう一人の私がいるような感覚。

 彼女は常に泣き叫んでいた。

 ヒステリックに喚いていた。

 その言葉は自己防衛のためのもの。

 自分以外の全てを悪とし、そうすることで精神を保とうとするものだった。

 そんなことをすれば、誰も信じられなくなり自滅するだけだと言うのに。

 自分しか信じられないということは、この世のほとんどを信じられないということ。

 それでは、生きていくにはあまりにも辛すぎる。

 確かに信じられるものなんてほとんどないかもしれない。

 だからこそ、数少なくとも、信じられるものを見つけるべきだと思った。

「……例えば、家族」

『そんなの、信用出来ない』

 一蹴された。

 けど、その否定は不自然だった。

 あまりにも問いかけに対して速過ぎる返答。

 それは思考あっての返答ではなく、感情だけで作られた答え。

「なんで信用出来ないの? 航路さんは、とても良い人に見えるけど」

『あの人は肝心なときに来てくれなかった。結局、私より仕事の方が好きなのよ』

「でも、今は反省してるんじゃないかな。……とても、後悔してるように見えるけれど」

『そんなの表面上の話。実際は体裁を取り繕いたいだけ。それに、あなたには隠してるじゃない……私たちが傷ついたあの事件のこと。あの人、謝ってないでしょう?』

「それはおそらく私……ううん、私たちを気遣ってのことだと思う」

『私にはそんな風に思えない。一度裏切られた私にはね』

 彼女は頑なだった。

 私は何があったのか思い出せない。

 彼女もはっきりと口にしたことはない。

 しかし、何か悲しい事件があって。

 航路さんが後悔し、彼女が傷つくようなことが起きたのだということは分かった。

 けど、それはもう何年も前のこと。

「航路さんは、何かを決めたように思う」

『……決めた?』

「そう。私は何があったかは知らない。でも航路さんは、その"何か"に対する答えを見つけて歩き始めたんじゃ……」

『今更そんなの認めない』

 彼女はキッパリと拒絶した。

 これから変わろうという航路さんを拒否した。

 コンマ一秒躊躇うことなく。

「なんで、認めないの?」

『遅すぎたのよ。なんで、どうして今更なのよ……っ!?』

 突き刺すような悲鳴。

 まるで私が航路さんになったような気分。

 何も知らないくせに、という響きが込められている気がした。

『あのとき私がどれだけ怖い思いをしてもあの人は助けてくれなかった! せめてやっぱり早く帰ることは出来ないって言ってくれれば私だってドア開けたりしなかったのに!』

 覚えていない私には意味が分からない。

 しかし、それは航路さんに対する糾弾の言葉なのだということは分かった。

『それに水渡も気に入らない! 私がどれだけ必死で守ってやったのかも忘れて反抗ばかり。私がこんなになったせいで苦労してるとか思ってるようだけど、私がこんなになったのは水渡のせいなのよ!?』

 ……でも。

 いくら本来の私が被害者だとしても。

 これ以上、航路さんや水渡さんをけなすのは。

『――――――――鬱陶しいだけなのよ、家族なんて!』

 ……止めて欲しかった。


 目覚めると同時、思わず身を一気に起こした。

 途端、物凄い勢いで何かにぶつかる。

「あうっ」

「ぐあっ」

 私の悲鳴と、もう一人別の悲鳴。

 痛む頭に起きたてということもあって、なかなか思うように瞼が開かない。

 ようやく目を開くと、そこには私と同じように頭を抑えている航路さんがいた。

 航路さんは私に気づくと涙目になりながら、

「……おはよう。調子はどうかな」

 かなりやせ我慢しながら尋ねてきた。

 その様子がなんだかおかしかったので、私はつい笑みを浮かべてしまう。

「もしかして、私うなされてましたか?」

「どちらかと言うと、訴えるような感じだったかな」

「訴えるような、ですか」

 それは、十中八九自分自身へと向けたものだろう。

 今の今まで見ていた夢。

 そのことを、私はゆっくりと航路さんに話した。

「私の中にいるもう一人の私は、心を閉ざしきっているようでした」

「……無理もない。私は彼女に……いや、君たちにとても酷い仕打ちをしてしまったからね」

 航路さんは項垂れてしまった。

 それからしばらく、沈黙が続いた。

 私も航路さんも口を開かない。

 航路さんは罪故に。

 私は無知故に。

 お互いかけるべき言葉すら見つからない。

 それが今の私たちの距離だった。

 彼女は『家族』が鬱陶しいだけと言った。

 信じられないと言った。

 私はどうなのだろう。

 彼女の言葉を肯定する材料は私の中にはない。

 けれど、否定する材料もなかった。

 私は『家族』と離れすぎている。

 突如現れた新参者に過ぎない。

 そう簡単に、距離が埋まるはずが――――。

「俺も夢を見たんだ」

 ポツリと、小さな声で沈黙が終わった。

 見れば航路さんが静かに面を上げている。

 その目は、私に話を聞いて欲しい……と真摯に語りかけてくるようだった。

「とても今更な夢だけどね。水渡が死ぬ夢を見たんだよ」

「水渡さん、が……?」

「嫌な夢だったよ。ああ、本当に嫌な夢だった。……でも今考えると、あれは夢じゃなかったんだという気もするんだ」

 航路さんは夢の中身を語った。

 いつものように仕事に精を出して、夜遅くに帰宅する。

 そこで水渡さんが帰っていないことに気づき、一応警察に連絡した。

 友達か何かの家に泊まりに行ったのだろう、と考えていた。

 ――――翌日、海から彼女の遺体が発見された。

 その瞬間、航路さんは……自分でも信じられないくらいに泣き叫んだ。

 事情を説明しに来た人の胸倉を掴み、何度も事の真偽を問いただした。

 家庭内のことを尋ねてきた刑事に対し、ボロボロと涙を零しながら懺悔した。

 そして落ち着いてから、彼女の遺品をまとめようとして……。

「この日記を見た」

 話の途中で一旦部屋を出た航路さんは、一冊のノートを持ってきた。

 私はそれを見せてくれとせがみ、渋る彼からどうにかノートを受け取った。

『○月○日:今日は勉強しろと怒鳴られた。浅海のせいで出来ないのに、なぜ浅海がそんなことを言うのか。理不尽で腹が立つ。殺してやりたい。

 ○月×日:また勉強の話だ。私がテストの結果を見せないから不信感を抱いたらしい。私としては誠意一杯やったつもりだけど、浅海に見せたら絶対文句を言われる。否定される。だから嫌だ。

 ○月△日:遊んでばかりいるなと言われた。遊んでなんかいない。遊びたくても遊べない。あの女は何も分かっちゃいない。そのくせ口だけは立派に動く。ウザイ。

 ○月▽日:思わず浅海に関する文句を言った。世話されている身のくせに態度がデカイ。そうしてもらうのが当たり前と思っている傲慢さが許せなかった。しかしあの女は開き直っている。道徳を盾に私を使役する。逃げ場はないと感じた。

 ○月◇日:いい加減頭にきたので一日浅海を放置。夜になると「飯はまだか」と何度も叫ぶ。近所の人が苦情を言いに来た。ウザイ。鬱陶しい。何もかもがたまらなく憎い。

 ×月○日:熱が出て学校を休んだ。サボるなと文句を言われた。サボってない。部屋で休んでいると怒声が飛んでくる。もう嫌だ。多分千回目を越えるけど、死にたいと思った』

 ……それは、私に対する恨みの言葉。

 それが毎日毎日何度も何度も繰り返された結晶。

 思わず日記を持つ手が震えた。

「…………航路さん、これは」

「最初に見たのは夢の中。どうしても気になって、昨日も見てみた。……同じことが書いてあったよ」

 あの夢は、夢で終わるものじゃない。

 航路さんがそう確信したのは、この日記を見てからだという。

 私にはそういったことはよく分からない。

 けど、水渡さんがどれだけ苦しんでいたかは分かる。

 こうしたノートが、何年も前から一日欠かさず書き続けられているのは……怖い。

 水渡さんが私を嫌うのも当たり前だと思った。

 些細なことでも、水渡さんにとっては毎日積み重ねられた罪の数々。

 それを一気に忘れてしまった……無かったことにしてしまった私を、彼女が許すはずがない。

 許されない。

 そう思うと、途端に悲しくなった。

 彼女との間に見えない壁があると思っていたら、あったのは底なしの谷。

 掴まるところなどどこにもない、垂直な谷。

 乗り越えるには離れすぎて、深すぎる。

 私は彼女に歩み寄ることさえ出来そうにない。

「これが家の現状だ」

 航路さんは沈痛な面持ちだ。

 きっと私も同じような顔をしているに違いない。

 父は遠く離れ。

 母と娘の間には埋められない溝がある。

「でも、俺はどうにかして……取り戻したいと思ってる」

 ――――航路さんが、不意にそんなことを言った。

 驚いて彼の顔を見ると、強い意志がこもった視線が向けられてきた。

 それは、散々打ちのめされてもなお諦めない人の眼。

 むしろ、ここまで追い詰められたからこそ出来る眼だった。

「こんな現状だからこそ、取り戻したいと思ってる。確かに俺は逃げていたかもしれない。それでも水渡が死んだと実感して……怖くなったし悲しくなったし悔しかったし辛かった。俺は、まだ君や水渡を……好きでいたんだと。そんな簡単なことを、ようやく思い出せたんだ」

「……」

「ワガママと思われてもいい。許されなくてもいい。ただ、俺は謝りたい。そして償いたい。今まで散々傷つけた君と水渡に」

「……」

「もう一度『家族』に戻って欲しいと思ってる。すぐには無理でも、少しずつ。少しずつでいいから……」

 そこで航路さんの言葉は途切れた。

 私が、彼を抱きしめたから。

「あ……?」

 突然のことに航路さんは戸惑っているようだった。

 私は少し悪戯っぽく笑って、

「私は航路さんが何をしたのか覚えていません。それに、夢の中で会ったもう一人の私はあなたを許さないと言っていました」

「……」

「でも――――私は信じようと思います」

 抱きしめた身体がピクリと震えた。

 多分、航路さんは今びっくりしてるんだろうな……なんて思う。

「罪を知らなければ許すことも出来ません。罪を知らなければ償うことも出来ません。……でも、そんな私でも。――――信じることは出来るんですよ」

 何もない。

 記憶もなければ真実もなく、"自分"さえないかもしれないこの状況で。

 私が唯一本物だと感じたのは、航路さんの優しさと水渡さんの怒り、哀しみだった。

 他に何もないからそれにすがっているだけかもしれない。

 それでも、私は……信じたいと思った。

 水渡さんの思いを。

 航路さんの思いを。

 私の中にいるもう一人は多分承知しないと思う。

 これから毎日私に文句を言ってくるかもしれない。

 それでも、それは水渡さんも体験してきたこと。

 私は嫌だなんて言うつもりはなかった。

 それで、少しずつ。

 少しずつでいいから、航路さんと一緒に水渡さんへ歩み寄って。

 いつの日か、もう一人の私の傷も癒えたら十全。

 いつの日か、皆で笑いあうことが出来たら……それがきっと、最善の形。

 私の知らない家族の形。

 それを、見てみたいと思った。

「信じてるから……私も一緒に頑張りたいんです。何も知らないままじゃ、それも出来ない」

「浅海……」

「何があったか、航路さんが分かる範囲でいいから教えてくれませんか?」

 本当は、自分で思い出すのが一番いいのだろう。

 けど、全てを思い出すには……蒼井浅海はまだ弱すぎる。

 誰も信じれない。

 ずっと一人きり。

 そうじゃないんだと、彼女に教えてあげたかった。

 今の私に、航路さんがいるように。

 それは水渡さん……私の子にも言えることで。

 航路さんから話を聞きながら、私は考える。

 沢山傷ついて、父も母も信じられなくなった子。

 彼女は今、どこで何を思っているのか。

 ――――――――せめて、一緒にいてあげたい。

 今までの私が傷つけた分だけ、彼女を抱きしめてあげたいと。

 切に願う。


 一人きりの小さな部屋で、蒼井浅海は嘆いていた。

 何もかもが怖かった。

 助けてくれなかった夫は信じられなかった。

 でも、まだ小さかった娘……水渡だけは例外だった。

 彼女に罪はない。

 何も悪いところはない。

 蒼井航路と出会い、紆余曲折を経て結婚。

 それから一年後、生活が苦しい中で彼女は生まれた。

 柔らかくて小さな身体を抱きかかえると、愛しさがこみ上げてくる。

 それから夫を見て言うのだ。

『この子のためにも、幸せにならなきゃね』

『ああ。三人で頑張っていこう』

 遠い昔の話だった。

 振り返ってみれば、自分もまずかった。

 状況をまるで理解出来ていなかった。

 水渡が最初に作った料理を嬉しそうに見せてくれた。

 思わずあの事件のショックさえ吹き飛んだ。

 だからつい、食べてしまった。

 それは自分の分だったと怒る娘に、彼女は少し悲しくなった。

 娘は自分を気遣って作ってくれたわけではないのだ。

 あれだけ勇気を出して守ってやったのに。

 そう思って、憎まれ口を叩いてしまってから……何かがおかしくなった。

 水渡は日に日に自分への態度を変えていった。

 頼れる、何でも出来るお母さんから……何もしないくせに、口だけ達者な役立たずへと。

 何もしないのではない。

 出来ないのだ。

 それを何度も声高に叫んだが、彼女は聞き入れなかった。

 だったらせめて出来ることをしよう。

 そう思って、娘と話すことに専念した。

 彼女と話をして、導くことくらいしか自分には出来ないから。

 けど、それも失敗した。

 水渡の実情も知らずに、言えることなど何もない。

 彼女が実情をどう言おうとも確かめる術はなく……不信感ばかりが募っていく。

 そんな日々を繰り返すうちに、お互いが見えなくなっていた。

 気づかぬうちに、もはやどうにもならない壁が出来ていた。

 蒼井浅海は一人きりの部屋で考える。

『誰も信じようとしない私のことなんか……誰も信じないのね』

 しかし、ある日生まれたもう一人の自分は違った。

 蒼井航路を信じて、水渡と共に歩もうと願っている。

『出来るわけ、ないじゃない』

 呟きながらも。

 彼女はどこかで、それを夢見ていた。

 誰も信じることが出来ないからこそ、誰かを信じる日々を夢見た。

 家族と共にある日を――――あった日を、夢見ていた。




 ――――――――/八月七日(II)


 <蒼井 水渡>

 そして、最後の日がやって来た。

 私はあれから家に戻っていない。

 まだあそこは私の場所ではないし、なんだか居づらいことに変わりはなかった。

 けど、お父さんと浅海の関係が良くなっていることくらいは願っている。

 私は『家族』が欲しかった。

 どんな家族かはよく分からない。

 多分、分からなくてもいいんだと思う。

 人によって家族の定義なんて違うし、意味合いも違う。

 そのまま、私が感じた『家族』であればいいのだろう。

 どうすればそれが手に入るのかは分からない。

 落ち着ける場所を転々と歩きながら考えても……結局分からなかった。

「元気にやってるかな、あの二人」

 お父さん、浅海。

 酷いこと沢山言ったような気がする。

 あの二人は家族に戻れるだろうか。

 ……戻って欲しい。

 きっと今の二人なら大丈夫な気がするから。

「さて、と」

 一息ついて辿り着いたは山の中。

 ……あの日、一つ前の八月六日に訪れた場所。

 飛鳥井さんと別れた場所だった。

 ここに来るまでは、珍しく楽しいと思えた日々だった。

 未だに種の分からないマジック。

 掴み所がまるでない会話。

 友達って、ああいうものなのかもしれない。

 でも友達はあくまで友達。

 私が求めた『家族』を彼に押し付けるのは筋違いだ。

 こうして二回目の機会をくれただけでも、彼には感謝してもしきれない。

「これからどうしよ」

 求めるものが分かったところで、現状が変わるわけではない。

 今、あの家に戻っても私の居場所はないだろう。

 お父さんと浅海の仲をこじらせるようなことになったら、どうしようもない。

 私は見晴らしのいい崖へと腰掛けて、長年住みなれた町を見下ろした。

 いくつも建ち並ぶ家々。

 あの中に一つ一つ、形の違う家族がいる。

 そこから抜け出して、私は一人山の中。

「要するに、私は迷子ってわけか」

 自嘲する。

 家族を求めてあちこちを歩き回る様は、まさに迷子そのものとしか思えなかったから。

「そう言えば……ここにも、迷子で来たことあったな」

 小学校のときの遠足か何か。

 指定されたルートからはぐれて、私はしばらくこの山を泣きながら歩き回った。

 結局、誰かが探しにきてくれるというようなことはなかった。

 自力で麓まで下りて、交番に駆け込んで、その後は慌てて来た先生にこっぴどく叱られた。

 その後家に連絡が入り、浅海にもしつこく説教された。

 嫌な思い出だった。

 いいところなど何一つない。

「……そろそろ下りようかな」

 携帯を見ると、時刻は午前七時半。

 飛鳥井さんの予言が真実なら、私は今日また死ぬかもしれない。

 求めるものを見つけたから死なずに済むかもしれない。

 私としては死ぬつもりはなかった。

 ただ、今日が『最後の日』だと感じている。

 どんな意味での最後かはよく分からないけど、私は今日という日を……、

「――――――――悔いのないよう、過ごしたいな」

 とりあえず、今の望みはそれだけだった。


 山から下りて、夏休み中の学校に入ってみた。

 教室に忘れ物をしたと言って、用務員のおじさんから鍵を受け取る。

 こっそりと悪戯気分で教室に入り込み、自分の席につく。

 それほど経っていないはずなのに、自分の席が妙に懐かしかった。

 黒板には、終業式の日に書かれた落書きがいくつか残っている。

『遊びに行くやつはここに名前ヨロシク!』

 そんな落書きの周囲には、いくつかの名前が書かれている。

 私はちょっとした出来心で、自分の名前を書いてみた。

栗原香苗、牧本功、百合川静香、宮元武、海原雄二――――蒼井水渡。

「変なの」

 クラスメートの名前の側に、自分の名前がある。

 そのことが妙に恥ずかしくて、慌てて消してしまった。

「……探し物は終わったかんね」

 用務員のおじさんが様子を見に来た。

 あまり長居しても怪しまれるだけだろう。

 私はもう一度黒板を見てから、おじさんに頭を下げてすぐに学校から離れた。


 河原では寝転がって空を見上げていた。

 流れる雲をじっと見続ける。

 夏名さんがいつか家族と共にこうしていたんだ。

 そう考えると、不思議とこれも退屈しない。

 むしろ温かくて懐かしくて、楽しい気がした。

 もしかしたら、私が覚えていないだけで。

「私もお父さんたちと、同じようにしてたことがあったのかな」

 だとしたら、こうして時間を過ごすのも悪くない。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 四つ。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

 ……。

 一万。

 これくらいでいいかな、と思い立ち上がる。

 既に陽が傾き始めていた。

「随分長い時間、数えてたな……」

 自分でも呆れるくらい夢中になっていた。

 最後にもう一度だけと、空を見上げる。

 ――――見えたのは、三つの雲が寄り添うように流れていく姿だった。


 灯台にも来てみた。

 飛鳥井さんと一緒に来た場所。

 あの日、飛鳥井さんは青空が綺麗だと言っていた。

 その内側に込められた意味は、私には分からない。

 私が今見ているのは、茜色の空だから。

 展望台から見下ろす風景は絶景そのもの。

 高い高い空と、深い深い海へ繋がる場所。

 私は海に還る道を選んだ。

 私に翼はないし、空はあまりに広く、遠すぎたから。

 傍らに一羽の鳥が降り立った。

 私じゃなくて海の方を見ている。

「……」

「……」

 互いに黙っていた。

 私はとても透明な心で、沈み行く夕陽を眺める。

 きっと鳥の方も同じなんだろう。

 ふと、遠くに鳥の集団が見えた。

 海の向こう側へと飛び去っていくようにも見える。

「……行かなくていいの?」

 つい言葉が出た。

 鳥は私の方を一回だけきょとんと見て……飛び去っていった。

 仲間たちの元へと。

 本来自分がいるべき場所へと。

「良かったね」

 飛び立った鳥が、集団に追いついた。

 彼らは彼方へと去っていく。

 私はずっと、それを見守り続けていた。


 ありふれた場所が羨ましかった。

 ありふれた人々が羨ましかった。

 ありふれた時間が羨ましかった。

 ありふれた生活が羨ましかった。

 ありふれた友達が羨ましかった。

 ありふれた――――――家族が羨ましかった。

 そして、この場所が好きだった。

「陽はもう沈んじゃった……」

 あの宿舟も、もう残ってなかった。

 お父さんも、浅海も、飛鳥井さんも、夏名さんも、喋る本も、もう誰もここにはいない。

 それでも私はここにいる。

 自分に関するものが何もかも嫌いになった。

 そんなときも、ここだけは好きだった。

 ここには嫌な思い出がない。

 両親と遊び、飛鳥井さんと語り合い、夏名さんに教えられた。

 結果的に死を迎えることになった、前の八月七日も……そんなに悪くなかった。

 ここが私の居場所だったから。

 私が安らげるのは、ここだったから。

 波の音が聞こえる。

 私が一番好きな音。

 小さな波が僅かに身体へとかかるのを感じた。

 立っているのは少し疲れたので、濡れるのを覚悟で座ることにする。

 その場で眼を閉じれば、音によってあの日の光景が思い出せるようだった。

『水渡さんは恋愛をしたことはありますか?』

『……え?』

『あらあら。その様子ではまだのようですね』

『い、いや……その』

『いいですか、水渡さん。殿方というものはですね――――――』

 少しズレてた女性と。

『飛鳥井さん、旅をしてて一番面白いと思ったことはなんですか?』

『順列はつけがたいねぇ。ああ、でもとびっきり面白かったことはあるよ』

『例えば?』

『名づけて山菜パニック大事件。ちょっと小腹を空かして山菜採集に励んでいたら、熊のテリトリーに入っちゃったらしくてね。山菜片手に決死の……いや水渡ちゃん。呆れた顔はまだ早い。この話には続きがあってだね――――――』

 全く読めない性格のマジシャンと。

『こら水渡っ、何度言ったら分かるんだっ? 危ないからそのまま海に入っちゃ駄目!』

『水渡ってばお転婆なんだから。パパの言うこと、ちゃんと聞かないと駄目よ?』

『はーい……』

 ……遠き日の家族と。

 私は好きだった。

 この場所と。

 ここで共に過ごした人々が。

「寂しいなぁ……」

 その人たちは、もういない。

 誰もいない。

 私しか、もうここにはいない。

 いくら居場所があったって。

 一人じゃ、どうにもならない。

「……っく」

 自分でも気づかないうちに、膝を抱え、顔を埋めていた。

「っく……ぇぐ…………ぇっ」

 自分が欲しいものが分かったからこそ。

 それがもうなくなってしまったのだと気づいて。

 今更、悲しくなって。

「っ、ぁ……うぅ……っく」

 ……止められない。

 涙がぽろぽろと零れていく。

 全身に溜まっていた哀しみが眼に集まって、そこから一気に溢れ出た。

 止まらない。

 こんなの、止められない。

 泣くもんか、と思った。

 大好きなこの場所で泣いたら、ここにも嫌な思い出が出来たことになる。

 今度こそ、私の居場所がなくなってしまう。

 そんな風に考えて抵抗しようとしたけど、それでも私は泣き続けていた。

 かろうじて声に出したりはしなかったけど、嗚咽は漏れ続けている。

 むしろ、泣きたくないと願えば願うほど……無性に悲しくなった。

 歯を食いしばり、全身に力を入れる。

 寂しくなんかない。

 ここは楽しかった思い出がある場所だ。

 私は一人でも平気。

 これまでだってそうしてきたんだから、これからだって。

 これからだって、一人で……。


「――――――見ぃつけたっ」


 ……海の臭いとは違う、少し甘い香りがした。


 波で濡れていたけど、なぜか温かかった。

 それはきっと、私を包み込む人のせいで。

「……ぁ」

 きつく閉じていた目を開く。

 見えたのは、静かな夜の海。

 そして、私を抱く一人の女性。

「水渡さん、探しましたよ。とてもとても、探しました」

 それは。

「ごめんなさい……ここに来るのに、すごく時間がかかりました」

 ……それは。

「――――浅海」

 名前を呟くと、より強く抱きしめられた。

「……辛いこと、あったんですか?」

 優しい声で、尋ねられた。

 私はかすかに頷く。

「だったら」

 浅海は私の正面に回り、改めて抱きしめてきた。

「ここでよければ、存分に泣いてください」

「……なんで?」

 涙声で問いかける。

 なんで、そんなことを言ってくれるんだろう。

 浅海は……彼女は、申し訳なさそうに笑った。

 私の背中を優しく撫でながら、

「――――――私は、お母さんですから」

 そんな、ありふれた答えを口にした。

「辛い思いをしてる自分の娘を、放っておきたくないんです」

「そんな……今更」

「確かに今更かもしれないし、私はまだ思い出せないまま。でも、だからこそ。こうしたいと、思いました」

 いつになく優しい声。

 そこに嘘はなかった。

「……っ」

 駄目だった。

 止まりそうにない。

「うっ……ぁ……っく」

 探してたもの。

 もうなくなってしまったもの。

 欲しかったもの。

 それが今、私を包み込んでくれてる気がして。

「ごめんなさい……」

 謝った。

「折角作ってくれたご飯残してごめんなさい。……死んじゃえば良かったなんて言ってごめんなさい……」

 すがりつくように。

 見捨てないでと願うように。

 私は彼女にしがみついて、

「ごめんなさい――――――お母さん」

 それが皮切りとなり……私は泣き叫んだ。

 お母さんにしがみついて。

 辛かったと。

 嫌だったと。

 ごめんなさいと。

 何もかもをぶちまけた。

 その都度お母さんが私を優しく撫でてくれるのが嬉しくて。

 悲しくて嬉しくて、訳が分からなくなって。

 私は何も考えず、ただただ泣き続けた。


 泣き疲れた子供を抱きかかえた母親が、堤防を上っていく。

 そこでは一人の男性が、彼女たちを待っていた。

「……疲れて眠ってしまったみたいです」

「そっか」

 女性の腕の中で眠る子の顔をそっと撫で、男性は力なく笑った。

「ずっと迷子になってたんだろうな……ごめん、迎えに来るのが少し遅くなった」

 迷子を迎えに行くのは保護者として当然のことだった。

 それを怠ってしまったことを、男性は深く後悔している。

 だったらもう大丈夫だろう。

 彼女にはちゃんと迎えが来た。

 もう一人ではない。

 何が解決したわけでもない。

 この家族には、まだまだ乗り越えなきゃいけない壁が沢山あるだろう。

 けど、三人揃った。

 今まで一人で抱えてた苦しみや悩みも、これからは三人で分かち合える。

 それはきっと、なによりも心強いと思うから。

「帰ろうか」

 海ではなく、家へ。

 もう、彼女の居場所はこの砂浜だけではない。

 家にいても心安らげる日が、いつか来る。

 男性は女性から子供を受け取り、背負いながらゆっくりと歩き始めた。

「これからが、ちょっと心配だな」

 そんな男性に、女性がそっと身を寄せた。

「大丈夫です。……皆で頑張っていきましょう」

「……そうだな。俺が二人を守れるように」

「私はきちんと過去と向き合えるように」

「そして、この子にはありふれた幸せを」

 今までの分まで、彼らは互いを愛しく思うだろう。

 沢山傷つけたり傷つけられたりした分だけ、優しくなれるだろう。

 願わくば。

 これからの、あの一家に。

「……おかえり」

「あら……寝言?」

「だな。――――ただいま、水渡。それから、おかえり」

 ――――――――平凡という最上級の幸せが、訪れんことを。

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