第22話

 初めての道であれば往路よりも復路のほうが距離が短く時間も早く感じられるものだが、この時も例外ではなかった。

 俺たちは、次第に高まる不安に急かされるように、ほとんど無言で洞窟を引き返し、案外早く例の地下空間の手前と思われる場所まで戻ってきた。

 ところがその時、前方に認められたのは、ぼんやりとした明かりと謎めいた人の気配。

「静かに!」

 風早青年が口の前で人差し指を立て、押し殺した声で鋭く注意を放った。

 言下に俺たちは歩みを止め、身をこわばらせつつ五感を研ぎ澄ませる。そこへ何やら人の会話らしいものが、とぎれとぎれに流れてきた。

「……奥まで踏み込んで……」

「本当に……に入っとるんかいの。山の方をうろつきよるかも……」

「……の鍵が持ち出されとるし、納屋の灯油ランプも見当たらんかった……おそらくここに潜り込んどるんじゃろう」

 黒ずんだ岩壁に微かな反響を残しながら、ややくぐもった声が耳に届く。どうやら男二人の会話だ。

「ということは、舞依か結依は長持……を知っとったんか?」

「いや、そんなはずはないんじゃが……」

「とにかく、早うあいつらを捕まえて、余計なことを見たり知ったりせんように、釘刺しとかんにゃいけん」

「でも兄貴、むしろじたばた騒がんほうがええんじゃないんか?」

 姉妹を呼び捨てにしている。そして一人がもう一方に「兄貴」と呼びかけるということは……

「おじ様よ」

 結依が低くささやく。

「もう一人は正隆おじだわ」

 会話の声は次第に大きく明瞭になってきたが、声の主がこちらに近づいている気配はない。例の地下空間にとどまって話をしているのだが、だんだん声に抑制がかからなくなってきたという様子だ。

「何言いよるか。“はたけ”のことがバレたらどうするんじゃ」

「たとえ“はたけ”を見られたとしても、あれが違法植物だとは気づかんだろう。それにキノコはともかくハカマオニゲシは夏枯れしとるし」

「それはそうじゃが……危険な芽は摘んどくに越したことはない。些細なことが破局につながるんじゃ」

 おそらく「はたけ」というのは“畑”のことで、あの枯野を指しているのだろう。やはり、彼らは違法植物と承知のうえで幻覚キノコを栽培・利用しているのだ。

 ただ「ハカマオニゲシ」とは何か? 風早青年は「オニゲシ」とか「オリエンタルポピー」と言っていたが、それとはまた別の植物なんだろうか。

「些細なことかどうかはともかく……どのみちもう潮時じゃ、兄貴」

「また、その話か」

「昨日も言うたが、警察が内々で動いとる気配もあるらしいぞ」

「……どこで聞いたんじゃ、そんなこと」

「この際、それはどうでもよかろう。ええ加減にせんと身を滅ぼすことになるど」

「谷口の線から漏れやがったかの。それとも勇人のやつが調子に乗って……」

「谷口いうて誰か?」

「海鳳大学の薬学部の人間よ。薬の精製に大学の設備をちょっと拝借しよるんじゃ。病院じゃ具合悪いけんのう」

「兄貴、他人まで巻き込んどるんか!?」

「その分、あいつにも分け前やって、ええ目させとるわ!」

 二人のやり取りを聞いているうちに、少しずつ話が飲み込めてきた。

 信じがたいことだが、正隆氏は病院経営者および警察医の立場で違法薬物を製造して売りさばき、何らかの利益を得ているらしい。

 昨日の白昼、赤菜町の食堂で中年女性たちが交わしていた会話の中には「脱税」なる言葉が出てきたが、薬物の製造にも脱税にも手を染めているということなのか。

 言語道断だ。共犯者にも利益を与えているのだから……とか、そういう問題じゃないだろう。

「とにかく、この機に薬の売買とは手を切るんじゃ。紫乃巫女も亡くなって舞依に代替わりすることじゃし、勇人のことも……」

 犯罪街道をひた走る兄の正隆氏に対し、何とかブレーキをかけようとしているのが弟の成隆氏という、何ともやりきれない構図が俺の脳裏で鮮明さを増しつつあった……その時である。突然、凛とした女性の声が、暗がりの中の淀んだ空気を切り裂いた。

「そのとおりよ。舞依や結依に業を背負わすわけにはいかんわ」

 声を耳にすると同時に、姉妹が息を呑み、弾かれたように硬直した気配が伝わる。その理由は、瞳を大きく見開いたままの結依の口から、間を置くことなく発せされた。

「母様……」

 舞依が催眠術にでもかかったようにふらりと立ち上がり、そのまま地下空間の方に歩を進める。

 止める間もなかった。俺たちがここに潜んで盗み聞きしていたことは、発覚したも同然だ。

 風早青年を見る。

 彼は諦めの表情で頷き、それを合図に、俺たちも舞依に続いて隠れ場所から姿を現した。緊張の足取りで地下空間に入り、改めて状況を確認する。

 そこで俺たちが目にしたのは、初対面の時とは別人のように厳しくも毅然とした姿で屹立する姉妹の母親・美津さんと、まるで彼女に従うかのようにその背後に控える原塚巡査と細萱警部補の姿だった。二人の警察官は、不測の事態にも即応できるような気配を漂わせて身構えている。

 そして、状況の急変に呆然としている正隆・成隆の兄弟。

「美津さん……」

 彼女と正面から対峙する格好となった成隆氏は上ずった声を洩らし、それからおもむろに振り返って舞依・結依や俺たちの姿を認めた。

 各々が携えている懐中電灯など照明器具のおかげで、地下空間はかなり明るさを増し、成隆氏の表情もはっきり見てとれる。狼狽と絶望と諦めの入り混じった……

「母様、どうして……」

 舞依があえぐように問いを発する。美津さんは視線を正隆・成隆の兄弟に据えたまま、口を開いた。

「成さんと正隆さんが山に入っていくのを偶然目にしてね、悪い予感がしたんよ。放っておいたら大事になりそうな……。それで、念のために駐在の原塚さんに頼んで、細萱さんに来てもらったんじゃけど……」

 穏やかな、しかし内に秘めた激しい憤りを感じさせる声色だった。彼女が身にまとった濃い縞模様の着物が、俺には鎧か何かのように猛々しく感じられた。

 美津さんはそこで姉妹の方に顔を向け、

「でも、まさか舞依や結依らがここに入っているとは思わんかった。あなたらがおるべき場所じゃないんよ、ここは」

と、娘二人を見つめたまま、少し悲しそうな表情でかぶりを振った。

 異様な場の空気に突き動かされたのか、唐突に原塚巡査が早口でまくし立てた。

「私も奥さんから電話もらってびっくりして、昔のことがあるので、すぐ警部補に連絡して……」

 その細萱警部補は押し黙ったまま、正隆・成隆兄弟の物問いたげな視線を跳ね返すかのように、傲然たる態度で兄弟を見据えている。

 美津さんが再び口を開いた。

「成さん、いったいあなたがたはここで何をしとったんです? ご自分の口からきちんと説明してくださいな!」

 とても姉妹の母親とは思えないほど若々しくも整った美貌が、今は却って凄絶な迫力を発散している。初めて挨拶した時とは別人のようだ。娘たちの危急に際して、母親としての本能が覚醒したのか。

 一方で、その迫力に気圧されつつ兄弟は悄然と、そして傲然とたたずんでいる。成隆氏は眉根に憂いを浮かべてうつむき加減に、逆に正隆氏は悪びれる色もなく顔を上げ唇の端に邪気を宿して。

「さっきのわしらの話、美津さんがどこから聞いとったか知らんが……薬物を作っておったのは事実じゃ」

 成隆氏がうつむいたまま、やおら重い口を開き、いきなり核心に触れた。もはや下手な抗弁は無駄だと観念したのだろう。

「もとはと言えば、神社の儀式で使う山霊漿よ。紫乃巫女がそこで細々と作っておったのじゃが……」

と、例の炊事場を目線で指して、

「そもそも、その原料が違法植物なんじゃ。いわゆる幻覚キノコというての、栽培や使用は法律で禁じられておる」

 まさしく風早青年の推測どおりの答えだった。

「紫乃巫女も、母親の朱鷺とき巫女から神社を継いで、自分の代でよりヤマガミ様信仰を盤石なものにしようと力が入り過ぎたんじゃろう。美津さん、あんたも知ってのとおり、紫乃巫女は幼い頃から緋劔神社の伝統維持のために先代の英才教育を受けてこられたし、山霊漿自体は先代や先々代も使っておったそうじゃけん、紫乃巫女にも抵抗感はなかったんじゃと思う。そもそもワライタケやヒカゲシビレタケは自生しとるものじゃったし、昔は違法でもなかったけん」

 成隆氏は滔々と語る。寡黙な人かと思っていたので意外だった。

「山霊漿を儀式で使うだけなら、まだ大きな問題にはならんかった。幻覚による異体験をヤマガミ様の神通力と思わせて、村人の信仰をつなぎ止めるのが目的じゃったけん。たまに神隠しに遭うたとか異形のモノに襲われたとか騒ぎになることはあったが、ここ最近はうまい具合にそういうこともなかった。

 ただ、紫乃巫女の努力も時勢には逆らえんかった。村の人口は少なくなる一方じゃし、霊山信仰のおかげで全国から宗教者が来てくれるというても、有名な観光地のようなわけにはいかん。そんなわけで神社の経営状況はかなり苦しくなっておった」

「そこでじゃ、わしがワライタケやヒカゲシビレタケをその筋に売って金にすることを紫乃巫女に提案したんじゃ。最近の言葉で言えば、マジックマッシュルームというやつよ」

 成隆氏がひと息つくのを待っていたかのように、いきなり正隆氏が話を引き取った。追い詰められて開き直ったのか、聞きようによっては自分の功績でも誇っているような口ぶりである。

「紫乃巫女も最初は当初は難色を示しておったけどのう……」

 背に腹は代えられないと、結局は正隆氏の提案に応じてしまったという。そして一度手を染めてしまうと、もう引き返すことはできなかった。

 以後、紫乃巫女は自生したものを採集するだけでなく栽培にまで手を広げ、収穫物を正隆氏に渡して換金してもらっては神社の運営に注ぎ込んでいた、と正隆氏は悪びれもせずに語った。

 つまり、汚れたカネに依存して緋劔神社とヤマガミ様信仰は命脈を保ってきたのだ。

「それだけじゃないでしょう、先生」

 今まで沈黙していた細萱警部補が不意に口を挟んだ。普段は警察医として接しているだけに、依然として丁寧な口調を保っているが、野太い声の底に失望と疑念が渦巻いている。

「幻覚キノコをそのまま乾燥させて売るだけなら、大学の設備なんか使う必要はないでしょうに」

「それに先ほど、ハカマオニゲシっておっしゃってましたね」

 ここで初めて風早青年が会話に加わった。

 示し合わせたかのような細萱警部補との連携プレーに、正隆氏は青年の素性を問いただすことすら忘れて、この若い闖入者の追及にどう対処するか頭を巡らせているようだ。

「オニゲシ、別名オリエンタル・ポピーは栽培にも何ら問題はない花だけど、ハカマオニゲシは違う。アヘンアルカロイドの成分・テバインを含んでいるため、麻薬および向精神薬取締法により栽培が禁止されています。ま、そんなことはよくご存知でしょうけど」

 正隆氏が風早青年に据えていた視線をわずかにずらし、俺たちの方に一瞥を投げてから言う。

「あんたら、洞窟の向こう側まで行ってみたんか?」

「ええ。ワライタケもヒカゲシビレタケも、この目で確認してきました。それから夏枯れしているハカマオニゲシの群生も。一見、オニゲシかと思ったんですが……」

 風早青年に続いて、再び細萱警部補。

「実は、先生については芳しゅうない情報がいろいろ入ってきとりましたんで、内偵を進めておったところです。私らとしても、先生には一方ならぬご協力をいただいてきたんで……残念です」

 力なく立ち尽くしていた成隆氏が、よろめくようにして地面に膝をついた。

「終わったわ、兄貴。何もかも終わりじゃ」

 そんな弟の様子を冷めた目で見下ろし、口元に不可解な冷笑をにじませながら正隆氏が言葉を発した。

「幻覚キノコだけを細々と売っておったんじゃ、あまり儲けにならんのでの。ハカマオニゲシからアヘンを作って、そっからモルヒネを抽出して麻薬を精製しよったんじゃ。モルヒネ自体は医薬品じゃから、合法的に入手できるんじゃけどのう」

 いよいよ追い詰められて開き直ったのか、それとも虚勢を張っているのか。得々と語る正隆氏を、美津さんは憤激の眼差しで見据えたまま声を絞り出す。

「あなたがた、よくもそんな、神社の名に隠れて……」

 しかし正隆氏は、美津さんの糾弾を皮肉な表情で受け流しつつ、意外な方向から切返しの一撃を放った。

「美津さん、あんた、そう言うけどの、実は勇人もこの件に一枚噛んでおったんで」

「……!」

「兄さんが!?」

 思いがけない暴露に美津さんが絶句し、姉妹は驚きに眼を見張る。

 勇人さんも薬物作りに関与していたとは……。さっき正隆氏が「勇人のやつが調子に乗って……」とか口走っていたが、そのことと関係しているのか。そして勇人さんが今、行方をくらましている理由は?

 美津さんも、思いがけない反撃に内心の動揺を隠せない様子だ。しかし言葉を発することなく、刺すような目つきで正隆氏に一瞥をくれた後、もの問いたげな視線を成隆氏に向けた。

 しかし成隆氏はそれに気づくことなく、膝をついたまま頭を振り、

「兄貴、何もそのことを……」

と、嘆息とともに声を吐き出した。横顔が苦悩に歪んでいる。

 ややあって成隆氏は顔を上げ、自分を射すくめるように注視し続ける美津さんの無言の問いかけに答えるかのように、沈んだ調子で続けた。

「考えてみりゃ、勇人君も可哀想じゃった。女系の家庭に生まれた男として、家の中で居場所がないことにずっと悩んどったんよの。性格的な素地もあったのかもしれんが、やっぱり彼の目からは、紫乃巫女の舞依や結依に対する扱いと自分に対するそれが違って見えたんじゃろう。栞梛の家じゃ男はカス扱いじゃと卑屈になって、自堕落な生活を送っておった」

 男同士ということもあってか、成隆には比較的親しい素振りを見せていたが、肉親である女性の家族とはほとんど口を利かなかったという。

 お祖母さんに対しても陰で悪態をつくだけで、面と向かって盾突くことはなく、一方的な叱責や小言は無視しながらも、反発と畏怖の間で揺れ動いている、という様子だったらしい。

 ヤマガミ様信仰を絶対不可侵の拠り所とする我が家を厭いながらも、幼少時からの洗脳によって無意識的に戒律に縛られており、そこから逃れられない自分にジレンマと苛立ちを抱えていたのだろう。

「そんな境遇で長いこと暮らしとるうちに、彼の中に紫乃巫女に対する……というより、栞梛の家そのものに対する復讐心のようなものが芽生えてきたんかもしれん。紫乃巫女にひと泡吹かせて、一気に立場を逆転させる機会を窺っておったんじゃないかと思う。その結果、勇人君は……」

 緋籠堂の仕掛けと洞窟、そして“畑”のことを知るに至ったのだ。

 神社の死命を制する秘密を握った彼は、紫乃巫女や正隆・成隆兄弟を脅すように、幻覚剤や麻薬の製造と売却に強引かつ積極的に関与するようになった。おそらく彼にとっては、金儲けもさることながら、生まれて初めて獲得した紫乃巫女に対する優越感が、何にも代えがたいものだったのではないか。

「確かに兄さんは自堕落な生活をしていたけど、薬物の売買なんて、そんな……」

「兄さん本人の口から本当のことを言ってもらわないと信じられない」

 姉妹は口々に思いを吐き出した。

 しかし、肝心の勇人さんは行方がわからなくなっているのだ。

 不気味な沈黙が下りた。

 いったい勇人さんはどこにいるんだ?

 誰も口を開こうとしない。

 それに……俺はさっきの成隆氏の言葉に、どうも引っかかりを感じていた。

 彼は「勇人君も可哀想じゃった」と言った。

 どうして過去形なんだろう。

 栞梛家の中で受けている不当な扱いを憐れむというのなら、今現在だって可哀想じゃないか。

 いや、過去形でも現在形でも言葉の時制なんかどうでもいい。俺には成隆氏の述懐が、死人に対する追憶のように聞こえたのだ。

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