第9話

 お代わりのコーヒーを飲み干し、俺は心もち横を向いて隣の青年に問うた。

「風早さんは、今日も調査を続けられるんですか?」

「そうですねぇ」

 彼は少し困ったような顔で軽く頭を掻きながら

「事故の件についての新情報は出てきそうにないから、外堀を埋めてみようかな、なんて考えてます」

「外堀?」

「うん。村にまつわる伝承とか俗習とか怪奇現象とかね。職業的興味もあるし……」

「へえ、職業的興味ですか。お仕事は何をされてるんです?」

 翔吾の質問に対する風早青年の答えは、意外にも「日本史担当の高等学校非常勤講師」というものだった。

「えっ! 高校の先生なんですか」

 梨夏が目を丸くした。そうは見えないと言わんばかりの口ぶりだ。その気持ちもわからないではない。

「先生といっても、しがない非常勤講師ですよ」

「でも、先生って呼ばれる立場であることには違いありませんよね」

 梨夏が慌ててフォローになっていないひと言をつけ加えた。そこに翔吾が口を挟む。

「今どきの日本史の先生って、怪奇現象も学ばないといけないんですか?」

「いやいや、怪異譚はほとんど趣味ですよ。土地の歴史につながる部分には、大いに興味はあるけど……」

 青年はコーヒーを一口すすって続ける。

「興味といえば、緋劔神社の社家である栞梛家だけど、苗字の成り立ちからして、とても興味深いものがあるね」

 どういうことかと怪訝そうな顔を並べる三人の前で、風早青年は滔々と語り始めた。

「巫女の〈巫〉という字だけど、実はこの一文字だけで〈かんなぎ〉と読めるんだ。語源については、〈神招ぎかみまねぎ〉や〈神和かむなぎ〉という語からであるなどと言われているけど、明確な裏づけはとれていない。いずれにせよ、神に仕え、その存在を祀り、その意思を世俗の人々に伝える役割を持つ人々を指しているんだ。知ってた?」

 いや、さすがにそこまで局所的に深い知識はサークル活動でも得られない。

「具体的には、神託を授かるために自ら依巫よりましとして神様に憑依していただくんだ。神降ろしとも言うがね。そうして授かった神託をそのまま神様に成り代わって一般に向けて語るわけ。いわゆる〈口寄せ〉だ。祭政一致の社会であれば、巫女が告げる神託は、国の意思を左右する権威を持ったんだよ。邪馬台国の卑弥呼などは、その典型だね」

 年下の俺たちに対しても丁寧語を崩さなかった風早だが、ようやく打ち解けてきたのか、かなり親し気でざっくばらんな口調になっている。

「時代が下るにつれ、巫女は、宮つまり朝廷に仕える巫系巫女と、神を携えて各地をさまよう民間の口寄せ系巫女とに分かれていったとされている。これは有名な民俗学者・柳田國男先生による分類だ。緋劔神社の巫女がどちらの流れを汲んでいるのかはわからない。苗字からすると巫系だし、託宣や祈祷をされていることから口寄せ系とも考えられる。両者の特徴が混然一体となっているのかもしれないね。分類はともかくとして、緋劔神社の巫女が神職を補佐する立場にとどまるものではなく、神社の運営におけるあらゆる職掌と権限を握っているところは、古来の巫女の姿であるとも言える」

 人が変わったようにひたすら語り続ける青年を、俺たちは呆然と眺めながら、相づちを打つしかない。

「現在では、巫女が結婚した後もその職を続けるケースは珍しくないけど、本来、巫女職には処女性が要求されるため、結婚を機に引退する者や、逆に終生結婚せずに過ごした巫女も少なくなったんだ。……ん? で、何の話だったかな」

 そこで青年は我に返ったように、俺たちの顔を交互に見やりながら、

「あ、そうだ。〈栞梛〉という苗字についてだったね。ここまで見てきたように〈かんなぎ〉という読みについて言えば、巫女の存在とは切り離せないものがあるんだが、文字の視点からすると、また興味深い事実がある」

 青年は、すっかり冷めてしまったコーヒーをまた一口すすって、なおも続ける。

「〈栞〉と〈梛〉という字だけど、これらは〈山〉に深く関わっているんだな。まず〈栞〉という字は〈しおり〉と読むよね。本来の意味は、山や林を歩くとき、迷わないように木の枝を折って目じるしにするものだ。そして〈梛〉は、マキ科ナギ属の常緑高木で、日本では関東以南の本州・四国・九州・南西諸島の山地に自生する」

 青年の知識の披瀝はとどまるところを知らない。

「梛は神木とされて神社の境内で見られることも多いから、緋劔神社にも植えられているかもしれない。その他にも梛は縁起の良い木として、さまざまなご利益に預かることができると言われている。例えば……」

 以下、青年の語りをそのまま記すとあまりにも長くなるので、簡潔にまとめると──


・梛の葉は金剛童子の変化として、災厄避けのお守りとされた。参詣者は帰途の安全を願い、梛の葉を護符として袖や笠などに付けた。あるいは武士が戦場で兜や鎧に付けた。

・梛の葉には、縦に細い平行脈が多数あって主脈がないため、縦方向の力に対しては強靭さを発揮する。その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと、女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があった。

・梛という名は、凪(なぎ)に通じることから、漁師や船乗りにもその葉がお守りとされた。

・梛の葉は、裏も表も同じように綺麗なことから、裏表のない、正直な生き方を表すとされる。

 等々──


「ヤマガミ様をお祀りする家系だから、山に因んだ、縁起の良い、神効を連想させる文字を選んで苗字にしたのか、それとも苗字の方がヤマガミ様信仰の成立よりも先だったのか、そのあたりはよくわからないけどね。とにかく含蓄の深い姓であることには変わりない」

 風早青年はようやく長い話を終えて、冷めきったコーヒーの残りを一気に飲み干した。そして、やや口調を変えると、

「ところで、君たち、覚えてるかな。昨日のバスの中で怪異譚を聞かせてくれた人……」

 もちろん覚えている。怪談コンビのうち、痩せ気味の方の人だ。

「今日の夕方、彼が高校生の時に体験したという怪異譚を聞かせてもらうことになってるんだけど、よかったら一緒にどう?」

 昨日、バスの中では尻切れトンボになってしまった話だったが、続きを聞く段取りをちゃっかり整えていたらしい。

 でも……正直なところ、俺は結依の事情聴取の結果が気になって、怪異譚どころではなかった。確かめるまでもなく梨夏はパスだろうし、そうなれば翔吾も……。

 状況次第では、今日の昼過ぎには村を離れることになるかもしれないし、明らかに翔吾と梨夏も乗り気ではない様子が見てとれる。

 そのへんの空気を察したのか、風早青年もそれ以上強く勧誘しようとはしなかった。

 一応、連絡先として青年が宿泊しているという錦湯の固定電話番号を教えてもらい、この場はお開きということになった。

 青年の薀蓄は、まあ、それなりに勉強にはなったが、俺にとって現状の打開策という点では成果に乏しいものだった。決して多くを期待していたわけではなかったが……。

 会話を交わすうちに、風早青年に対する警戒感がかなり希釈されてしまったことが、収穫といえば収穫だろうか。もし、本当に村を離れることになったら、礼儀として風早青年には一報を入れるとしよう。


 その風早青年とは店の前で別れた。旧村役場で何か調べたいことがあるという。

 店を出る直前、お会計の置時計は十時過ぎを示していたので、二時間近くも話し込んでいた計算になる。結依たちの事情聴取はどうなったのだろう。

 斜め前の駐在所の方向に顔を向けて、あれっと思った。駐在所の前に停めてあったグレーのワゴン車が見当たらない。赤菜署の捜査班は引き上げたのか。すると、事情聴取は終わった……? いや、もしかして「本署で詳しく話を聞こう」となって、赤菜町まで連行されたという展開もあり得ないわけではない。

 何かしら悪い方へと連想が流れる。とにかく神社に戻って、早く結依の存否を確かめたい。

 俺たちはやや急ぎ足で神社への帰途についた。俺たち、といっても本当に急いでいるのは俺だけで、あとの二人は訝しげな表情のまま、やむなく歩行速度を上げてついてくるといったところだ。

 気温が上昇するにつれ、セミの鳴き声も一段と賑やかさを増している。たちまち汗がにじみ出す。

 道すがら、昨日からの出来事──結依が語った神社の後継者問題、山中の御堂での事件、お祖母さんの遺体発見、舞依・結依入れ替わりの疑念、風早青年の話──を回想しつつ、いろいろ思案にくれていた。

 だが、頭の中の混迷ぶりは収拾の兆しを見せないばかりか、悪化の一途をたどり、もはや限界の一歩手前を行きつ戻りつしている。特に、混沌の中心にあって疑惑の黒雲を吐き出し続ける昨夜の出来事について口を閉ざしているのが、ついに耐え切れなくなった。

 と、ほぼ同時に翔吾も限界を迎えたらしい。

「おい、大樹。えらく急いでるけど、何かあんのか?」

 後ろから追いすがりざまに問い詰めてきた。

「ていうか、今朝からおまえ、何だか様子がおかしいぞ。一体どうしたんだ?」

 溜まっていたものを吐き出すように言い、足を止めた。俺もやむなく立ち止まる。

 わずかの差で翔吾に機先を制される形になったが、俺はこれを機に、昨夜の事件のことを洗いざらいぶちまけようと決意した。

「今まで黙ってたんだけど、聞いてくれるか」

 俺は翔吾と梨夏に面を向けながら口を開いた。いつにない深刻さを察知したのか、二人とも無言で訝しそうに俺を見つめる。

「本当は腰を落ち着けて話すべきことなんだけど、時間が惜しいから、歩きながら話そう」

 再び足を踏み出す。ただし心持ち速度を緩めて。

「何なんだ、いったい」

 二人の顔に浮かんだ不審の色は、ますます濃くなった。

「実はな、昨日の夜……」

 と切り出して、俺は、昨夜の体験──涼を取りに参集殿の外に出たところから、事を終えた結依たち二人の、瓜二つの顔を見届けたところまで──の一部始終を翔吾と梨夏に語り聞かせた。

 その間、二人は時折、短い嘆声を漏らすだけで、口を挟んでくることはなかった。まともな反応ができる心境ではなかったのだろう。

「……そういうわけで、この一件が事故じゃないことは、もう確かなんだ」

 ゆっくりとはいえ、歩きながらひたすらしゃべり続けたので、息が上がった。暑いはずなのに、妙にひんやりとした不快な汗が首筋を伝う。

 話し終わった後も、二人は信じがたいといった表情でしばらく無言のまま、重くなった足取りで歩みを進めていた。

「夢だった……なんてオチはあるわけないよな」

 翔吾が冗談めかして沈黙を破った。そんな場違いな軽口でも叩かなければやりきれない、といった様子である。無理もない。実際に目撃した俺でさえ、夢か幻覚であってほしいと何度願ったことか。

「おまえの様子がおかしいのは、それが原因だったのか……」

 翔吾は納得顔で一人頷き、俺は渋面のまま黙々と歩を進める。

「それで……これからどうする?」

「結依に全部話してもらおう。それしかない」

 俺は、翔吾の問いに即答した。

 事ここに至っては、もう隠しごとは止めて事実をすべて晒し、皆の知恵を結集して善後策を講じるべきだ。

 思えば、村に足を踏み入れて以来、立て続けに起きる変事に翻弄されて、受け身に流されてきたような気がする。ここで腹をくくって事態の打開を図らないと、はるばる旅をして結依のもとにやって来た意味がない。

 俺はまなじりを決して、目の前に続く緋劔神社の参道と一の鳥居に視線を向けた。

 が、その視界のほぼ中央、一の鳥居の向こうに、赤菜署捜査班のグレーのワゴン車が停まっているのを見て、俺は思わず足を止めてしまった。

 案内表示等があるわけではないが、そこはどうやら緋劔神社および栞梛家の駐車場になっているようで、白の小型セダンと軽トラック、原付バイクが駐車・駐輪してある。後で結依に聞いたところでは、これ以上、社殿や住居に近い所へは自動車等は入ることができないらしい。亡くなったお祖母さんが頑として認めなかったという。

 それはともかく、車が停めてあるからには、捜査班一行が緋劔神社=栞梛家にやって来ていることは間違いない。結依と成隆氏、そしてお祖母さんの遺体が家に戻ってきたのだろうか。ということは、事故という結論に落ち着いたと思われるのだが……。

 俺たちは、汗が頬や首筋を伝うのも構わず、急ぎ足で参道を上り、手水舎の前を通り過ぎ、二の鳥居をくぐった。左右の狛犬の向こう、真正面に社殿が見える。

 その時、薄暗い拝殿の中に、巫女装束を身にまとった女性の姿が見えた。

 近づきながら目を凝らすと、どうやら結依のようだ。とりあえず俺は胸をなで下ろす。赤菜署への連行といった最悪の事態には至らず、事情聴取から解放されたようだ。

 だが、ここからは警察に代わって、俺が結依を問い詰める立場に立たなければならない。心が痛まないはずはないが、もはや機を逃すわけにもいかないのだ。

 翔吾と梨夏には、一足先に参集殿の客間に戻っているように頼み、俺は、拝殿右横の出入口から中に足を踏み入れた。


 真夏の陽光の下から薄暗い屋内に入ったので、最初は何も見えずに立ち尽くしていた。目が慣れてきたところで、改めて結依の姿を求めて周囲を見回す。

 拝殿の内部は、天井は高いもののそれほど広くはなかった。学校の教室程度の空間に二十脚ほどの腰掛け──胡床とか床几というらしい──が並べられており、右手奥の方向には神様が祀られている本殿が続く。

 その右前方に置かれた太鼓の陰から女性が姿を現すのと、俺がそれを結依と認めるのがほぼ同時だった。

「あれ、大樹君」

 結依が少し驚いたような声を上げ、花瓶──榊立てというらしい──を手にしたまま高床から降りてくる。俺はその顔と姿形をまじまじと見つめて確信した。やはり間違いなく結依だ。あの老婆たちが思い込んでいたように〈まい〉じゃない。

「あ、勝手に入ってごめん。外から姿が見えたもんだから」

 俺は少し慌てつつ一応の言い訳をしておいて、話を本題の方向に向けた。

「結依さん、警察のほうは……?」

 結依は表情を曇らせ、何をどう話すか迷っている様子を見せながらも、おもむろに口を開いた。

「一応、事故ということで落ち着いたみたい。警察の人たちは念のために今、おじ様の案内で山を調べているけど……」

 なるほど、御堂の周りを調べて事故の痕跡を確認しているわけか。それで、警察のワゴン車が参道脇に停めてある理由がわかった。

「うちの方は今晩が婆様の通夜祭になるから、準備を始めてたところ」

 結依は憂いを帯びた表情で言った。ということは、やはり遺体も家族に引き渡されたらしい。

 彼女にしてみれば、昨夜の自分たちの行動については、あくまで隠し通したいというのが本音だろう。でも、このままでは事態に進展が望めないし、俺は結依の力になれない。もっとも俺の力がどれだけ役に立つのか甚だ疑問ではあるけど。

 結依には申し訳ないが、ここは強引に心の扉をこじ開けさせてもらうほかあるまい。

「それじゃ、昨夜のことは話さずに済んだんだね」

 俺はたった今、思いついた台詞を口にして、結依の顔をじっと見つめた。もう引き返せない。

「昨夜……?」

 結依は探るような目つきで俺を凝視していたが、その面が見る見るうちに青ざめていく。

「えっ、どういうこと? な、なんで? まさか……」

 喘ぐように発せられる台詞が、内心の惑乱を表しているかのように断片的で無意味なものになってきた。

「実は山の中の御堂で……俺、見てしまったんだ」

 俺が放った決定打に結依は言葉を失い、傍らの胡床に座り込んでしまった。榊立てが脱力した結依の手から離れて床に落ち、高い音を立てて転がる。

 俺もその隣に腰を下ろし、ついさっき翔吾と梨夏に語り聞かせた、昨夜の自分の行動を包み隠さず話した。

 その間、結依はうつむき加減で視線を床に落としたまま固まっていたが、俺が話し終えると、長い吐息を漏らし、ゆっくりと口を開いた。

「そうなんだ……見られてたんだ」

 結依は一瞬、自嘲めいた笑みを浮かべたが、そのまま目を閉じ、何事かを沈思黙考している。

 しばらくして、顔を上げた結依の目には、吹っ切れたような決意の色が見てとれた。

「わかった。全部話すから、参集殿の客間で待ってて。翔吾君と梨夏も一緒に」

 そう言い残すと、結依は床に転がる榊立てを拾い上げ、拝殿を後にして母屋の方に急ぎ足で去っていった。

 禁断の扉を開いてしまった──そんな予感とともに、覚悟とも畏怖とも後悔ともつかぬ感情が戦慄となって身体を駆け抜けた。でも、扉を開かずには先に進めないことも、また確かだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る